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1=2が成立すると言う事を証明できる計算式がある。
ある程度、数学を追求する人だと、結構な確率でそれを発見する。Kも大昔(小学生高学年か中学生初期と思う)に発見して、一瞬「Kは大天才かもしれない」と思った事がある。しかし、Kの場合その思いは30分とは続きはしなかった。1=2が成立する訳がないので「どこかおかしいと考え、すぐにおかしい点に気が付いてしまった」からである。
高校くらいの時、その話をすると「結構多くの友人がKと同じ発見をした事がある」のを知った。ただKの様に「すぐにおかしい事に気づく人は少なく、結構長い間、自分を大天才と思う込む時期の長い人もいたようである」中にはKが「その計算式のどこかに0で除算をしている箇所はないかい?」と指摘するまで気が付かなかった人もいるくらいである。
人間と言うのは少なからず、自分に自信を持っている。その中で「人が気づいていないような視点に気付くと、自分を疑うという視点を見失ってしまうこともある。」その時は自分に対して公平な評価を下せなくなってしまう。特に、自分より劣ると思っている人の意見などは全く耳に入らなくなってしまうのである。
それ以外にも「好き嫌いの感情によっても人は正常な判断力を失う」そうなると、その人に魅入られてしまえば「その人がカラスは白い」と言えば「カラスが白いと思い込む事」すらあるし、嫌いな奴が主張すれば「どんなに正論であっても、間違っていると直感する」のである。
例えば自民党の議員には「共産党が主張した時点で全て却下」という人もいる。
「アカが主張しているのだから、間違っている。」のが結論で、そこから思考が始まるのである。そうして、論理的に否定ができなくとも「アカが主張しているのだから、なにか企んでいるに違いないから却下」となる。仮に周りが全て「その意見には賛成」となっても「みんな騙されている。みんな馬鹿だ、ガリレオは一人になっても地動説を唱え、それは実証された」と思い続ける事さえあるだろうと思う。
ガリレオは「主観でなく観測に基づく正確な考察をしたので最終的に正しかった」のであり「個人の勘や思い込みの強さに頼った訳ではないからこそ正しかった」訳ではない。
多くの人が「ガリレロを例にして、少数になっても、いづれ、自分が正しいことは立証される」と叫ぶ、しかし、主観によって「そう感じる」のなら、ほぼ、その考えは間違っているのだろうとKは思う。