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(回答先: アイデンティティとは本来なら、流動性に溢れているべきものなのである 投稿者 乃依 日時 2005 年 11 月 01 日 22:53:26)
というのが私の考え方です。
「自分は今生きている。」という実感だけでいいという事です。
「自分は何者であるか?」とか
「自分は何をなすべきか?」とか
考え始める事が既に過剰な事であると言えます。
「我こそは○○なり。」という事が嫌いなんです。
自分に対する過剰な意味付けが様々な問題を引き起こすと思います。
宗教は生きている事の意味を問います。
この思考こそが災いをもたらすと考えます。
「意味」依存症なのです。
意味が無ければ生きている価値が無いか?
私は無意味な生を楽しむ事ができます。
意味など無くてもいい。
美は意味では無い。
ただ「ある」だけだ。
意味依存症の人から見ると私はニヒリストに見えよう。
しかし、私の生は決して否定的なものでは無い。
むしろ、精神は開放されている。
意味の支配から逃れているからだ。
ジャズのアドリブに意味は無い。
しかし、そこには快楽がある。
ジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」を聴いてそう思った。
小泉政治と闘う事に私は美を見出している。
行動が全てであり、私が何者であるかはどうでもいい。
私は固定的な人間では無く、情報に触れ発言しながら常に変化し続けている。
変化する生を楽しんでいるのだ。
あらゆるアイデンティティの批判を行う者だ。
批判の無限地獄に陥ると思かも知れない。
しかし、それは本当に地獄なのか?
無限を受け入れる。
むしろ、楽しむ。
言葉によって表現されたものはどこまで行っても不完全なものであり、
満足する事はできない。
だから「言葉によって表現されたもの」を無限に批判し続ける必要があるのだ。
「日本を愛する」などという観念の呪縛は最悪である。
桜の花に見とれる事はあっても「日本なるもの」を愛する事はできない。
そんなものは存在しないからだ。
例えば「日本列島」に統一的な意味があるワケでは無い。
「空間の一定の範囲」に意味が生じたりはしない。
これを無理やり生じさせる事によって「観念による人間の支配」が始まる。
「存在しないものへの愛」こそが隷属化への道である。
神への愛も同じ。
言葉が人間を支配するのだ。
「初めに言葉ありき」である。