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(回答先: アイデンティティとは本来なら、流動性に溢れているべきものなのである 投稿者 乃依 日時 2005 年 11 月 01 日 22:53:26)
「日本」なのか、「日本人」なのか・・。
また、「アイデンティティ」が如何なる文脈において使われるかによるのでしょうが、いずれにしても「(母語として)何語を話す人なのか」というのが最も重要なのでしょうね。
「日本人」である以前に、「日本語を母語とする」が前提条件。
海外にでも暮らしていないと、なかなか自分が「日本人」であることを認識できない。
もし日本人の多くが自らのアイデンティティを喪失しているというのなら、それは人々が自らの母語たる日本語を蔑ろにした結果ではないでしょうか?
北欧諸国やオランダなどでは、国家レベルで「アイデンティティ喪失の危機」が叫ばれている。
母語が英語に侵食されて、ナショナル・アイデンティティが希薄になってきていると。
フランスなどもメディアに対し、広告等への英語使用規制が法制化されているようです。
外来文化に対する寛大さと受容の精神が日本人の特質ですから、言語規制などもってのほかですが、日本人のアイデンティティを改めて追い求めるとするなら、それは文学を見直すところから始めるべきだと思います。
靖国問題などもそうですが、ナショナル・アイデンティティに関する考察は、取り扱いを間違えると大変なことになります。
人々の偏狭なナショナリズムを喚起する危険性を孕んでいることを、常に意識しておくべきでしょう。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tkawaka/kokkakousatsu.htm