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(最初の「先生」というのは合気道の多田宏氏のことです)
http://blog.tatsuru.com/archives/001298.php
先生の修業の根源的なモチベーションは、人間にはどこまでの潜在能力があるのかそれを究めたいという探求心だろうと私は思っている。
だが、その「能力」というのは、世間の算盤勘定にはなじまない。
「勝敗強弱を論ぜず」というのは、勝敗強弱が所詮はきわめて期間限定・地域限定的な閉じられたサークルの中での相対的な能力差しか検知できないからである。
しかし、世間の算盤勘定はこの相対的な能力差「だけ」にかかわっている。
例えば、偏差値というのは同世代集団の中での学力差の指標ではあるけれど、知力そのものについては何も教えない。
現在の偏差値50の高校生を30年前に連れて行ったら偏差値40以下にランクされるだろうけれど、そのことは誰も気にしない。
入試の競争相手は「その閉じられたサークル」にしかいないからである。
あらゆる競争は相対的な能力差を競うものである。
だから、その本質的難点は競争相手を含む閉鎖集団の絶対的能力が低いほど、勝つことは容易だということに存する。
勝つことにこだわる人間は、自身の絶対的能力を向上させることと、競争相手が低レベルの能力域に低迷することは結果的には「同じ」効果をもたらすことにすぐに気づく。
となれば、勝つことにこだわる人間が、自分の絶対的能力を向上させるのと同じだけの努力を、競争相手の(それはつまり同時代人全員の)能力を低下させることに傾注するようになるのは論理の経済のしからしむるところである。
強弱勝敗を競うことの最大の罪は、それが「自分以外の人間が低能力域にとどまること」から利益を得る人間を生み出すことにある。
合気道が求めるのは「すべての人間がその潜在能力を最大化すること」である。
競争というモメントがからみついた瞬間に、この文の主語は「私だけが」に置き換わる。
「能力の最大化」のための修業の技法や原理は変わらないけれど、主語が「すべての人間」から「私だけ」に変わる。
合気道は、すべての人間がその可能性を最大化し、相対的な競争を廃することを目指す武道である。
もちろん武術である限り、そこには「勝負」という契機が介在する。
なぜなら人間は「生き死にの極限」においてはじめて「絶対的能力」というきびしい概念に出会うからである。
それは別に「生き死にの極限」に際会したときに「火事場の馬鹿力」が出るので、「おお、オレにはこんな潜在能力があったのか」と驚くというような俗な意味のことではない。
「生き死にの極限」に置かれるということは、武道的な意味では「すでに敗北している」ということである。
出会うあらゆる種類の人間(やら野獣やらエイリアンやら細菌やら)に勝つことのできる人間は存在しない。
「天下無敵」のつもりで危険な場所にのこのことでかける人間は、裸で鮫の群れに飛び込む人間や、腐敗した食物をぺろぺろ食べる人間と同じである。
「そういうこと」はしてはいけない。
「そういうこと」をしなければならないような立場に立ってはいけない。
どうすれば「そういうこと」にならないで済むか、どのようにすれば「構造的に敗北する」事況を回避できるか。
それを知る能力を育てることが武道の修業である。
誰にでもわかるけれど、人間の潜在能力の最大のものは「予知」である。
どのような強健俊敏なる身体能力の持ち主も、「予知」能力のある人間の前では無力だからである。
「予知能力」が0.5秒先を予知できるなら、ほとんどの攻撃は紙一重でかわすことができる。
「予知能力」が10秒先を予知できるなら、ほとんどの攻撃に出会う前に「すれ違う」ことができる。
「予知能力」が10時間先を予知できるなら、核攻撃もゴジラの来襲も回避することができる。
これを「天下無敵」というのである。
このような能力の開発のためのプログラムは、「相手を倒す」という相対的な稽古プログラムとはまったく成り立ち方が違う。
「相手を倒す」というプログラムは、絶好調で準備万端整った状態にいる敵に不意の寝込みを襲われるというところから出発するのが標準的な初期設定である。
「敵からの予知できない」攻撃にどう即応するかという稽古法と、「敵の攻撃をできるだけ早い段階で予知するにはどうするか」という稽古法や、「そもそも『敵』というものが発生しないようにするにはどうすればいいのか」という稽古法とでは発想がまったく違う。
「予知」というのは、別に特殊な能力ではない。
ある意味では誰でも備わっている。
というのは、予知能力というのはほんとうは「これから起こること」を予見するのではなく、何かを「これから起こす」遠隔操作力のことだからである。
それが「気の感応」という稽古法の目的であるのだが、これについて話し出すともうきりがないので、この続きは岩波書店から来春出る『身体をめぐるレッスン』シリーズで読んで下さい。