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(回答先: 主観の外に現実はあるとは思っているがそれは無意味の存在で、それぞれの主観が理解する“現実”のみが有意味(本文なし) 投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 11 日 02:47:57)
2005.10.11 Tuesday
それぞれの主観が理解する“現実”のみが有意味→この理解こそ、ポスト・モダン
Posted by Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/?eid=206360
唯物論者は、無条件に、「主観」の、外に、「客観」が「存在」すると考える枠組みに囚われている。
そんなものは証明されていない。
むしろ、「見る側」と「見られる側」の相対性こそが、アインシュタイン以後の科学の合理性である。
主観は、客観に入り込み、客観も主観に入り込む。
この複雑な構造が、やっと、コンピュータ化した数理科学の発展によって、理解されかかっている所だ。
分からない所は、伊藤氏の『レンマ』のように、「エポケー」として、カント的な批判のもとで、活用される。
但し、こうした理解を、無批判に受容する「構造主義」は、乗り越えられるべき存在である、と構造主義以降の知識人からの批判が多い。
構造自体が、認識の「枠」であるからだ。
ゲーテルの「不確定性原理」なども、同様な帰結を予測している。
主観と主観との「境界」に、現実が在り、それは、揺らいでいる。