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阪神大震災、新潟地震、昨年末のスマトラ沖地震と大津波、カリブ海地域で荒れ狂うハリケーン、そして今度はパキスタン大地震・・。
頻発するこれら災害のスケールは、いずれも局地的には“人々がかつて経験したことのない”規模であり、多くの人々が亡くなり、傷つき、そしてさらに多くが生活の糧を失った。
厄災は已むことはなく、いつ、どこで、何が起こるかはわからぬが、我々は“今日を生き長らえた”ことを感謝しながら暮らしていかざるをえない存在なのだろう。
この惑星に生きるということは、毎秒ごとにロシアン・ルーレットの引き金を引き続けることらしい。
だが、考えてみてほしい。
地震にしろハリケーンにしろ、また火山の噴火や隕石の落下にしろ、自然災害の悲劇の所在は“そこに人々がいた”からなのだ。
1908年、シベリアのツングースカに巨大隕石が落下し、2150キロ平米の森林がなぎ倒されたらしいが、人的被害は“せいぜい一人”と言われている。
もしあれが人口密集地や海に落下していたら、地球規模でどれほどの被害となっていたことだろう。
あなたも私も“可愛いあの娘”も、今ここに存在していなかったかもしれない。
だが、やれ幸いだったと胸をなでおろすのは早すぎる。
いつまた“次の奴”がどこに落ちてくるかは誰にもわからないし、それ以前にあなたの足元がグラリとゆれ、次の瞬間あなたは瓦礫の下敷きとなって絶命するかもしれないのだ。
自然災害だけではない。
福知山線の脱線事故や、御巣鷹山に墜落した日航123便を思い出してほしい。
あれらの事故で命を落とした人々は、あなたや私と何の違いがあるのだろうか?
ただあの日、あの列車、あの飛行機に乗り合わせたというだけではないか。
また、人々の記憶においてはあれほど衝撃的ではなくとも、あなたも私も道を歩いていて交通事故にあうかもしれないし、覚醒剤で頭がイカれた奴に路上で刺し殺されるかもしれない。
人の死が新聞の一面を飾ろうが三面の片隅に埋もれようが、死は死でしかない。
自然災害や突発的な事故にあわないからといって、安心するのはまだ早い。
そう、病気がある。
最近少し胃が痛いからと、ちょっくら医者に診てもらったら末期の癌が発見されて、その場で“余命半年”を宣告されるかもしれない。
日本では、3人にひとりが癌で死んでいるそうだ。
そして、これらの「不幸」に遭遇せず、今日も明日もあさっても生き延びた幸運なあなたでも、まだまだ安心するのは早い。
人生においてあなたがどれほどラッキーであれ、またはどれほどアンラッキーであれ、たった一人の例外もなく、人はいつか必ず死ななければならないからだ。
富豪であれ乞食であれ、裁判官であれ囚人であれ。
俺は何か、間違ったことを言っているだろうか?
俺が間違っているというのなら、何がどう間違っているのか指摘してほしい。
この大宇宙における“奇跡的な天体の配列”によって、我々が“太陽系第三惑星”と呼ぶこの地球に生命が発生し、数十億年をかけて人類は生まれ、どこの誰が言い始めたかは知らぬが西暦2005年と称されるこの時代この日この瞬間に、俺はあなたとともに生きている。
曲がりなりにも進化をとげ、これからも進化してゆくであろう人類も、いつの日か我々を生み育ててくれた母なる太陽の寿命が尽きるに従い消滅し、我々が“歴史”と称する記憶とともに、永遠の忘却の彼方に眠ることとなる。
我々すべての人類は、他のすべての生き物とともに土に帰り、この惑星は大宇宙に浮かぶ、誰が花を手向けてくれることもない墓標となる。
みんな、よく考えてくれないか?
我々は生まれ、生き、死にゆく存在なのだ。
あなたが産声とともに生まれ、そしてあなたが心臓の鼓動を止める、このふたつの瞬間の前と後には、どんな世界あるのか俺は知らない。
だがきっとそこは、俺たちすべてがいつかは還らなければならない場所なのだろうし、ほんとうの意味での我々の故郷なのだろう。
そうであれば生きているということは、故郷を離れ、たまさかの旅をしているにすぎないのだ。
今を生きるみんな、旅の仲間よ、よき旅をしよう。
いつか我々は、故郷へと帰る。
それは明日かもしれないし、数十年後かもしれないが、それまで旅は続くのだ。
せっかくこんな遠くまで来て、あなたは何をしているの?
俺たちは、旅の途中にある。
つまらない“不安”を抱え込み、君は足元を見続けながら時を過ごすのか?
旅の醍醐味は、めくるめく風景に心を躍らせることではないのか?
権利や義務なんて言葉は、旅とは無縁だろう。
ましてや「生活のために」旅の時間を過ごすなんて・・。
旅はいつか終わる。
その肉体の他にあなたに与えられたものは、“有限の時”でしかない。
その時を楽しいものとするか、ただ苦しいものとするか、それはあなたの自由なのだ。
いつか終わる旅においては、楽しみも苦しみも等価でしかないのだから、どちらでも好きなほうを選択したらいい。
苦を苦しむも、苦を楽しむも、それはあなたの自由だ。
等価であるということは、価値はないということだから。
いつか終わる旅においては、命は貴重なものではない。
ただ我々の魂にとり、“比類のないチャンス”であるだけだ。
この絶好の機会に、あなたは何をするのだろうか?
そして、誰と出会うのだろうか?
真の厄災とは、死をもってこの地を去ることではない。
ただ有限の時の中で、いたずらに不安に怯え、魂を幽閉することだ。
それは、機会を放棄するということだから。