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Kは思うのだが、日本人は決定的に危機意識が欠落している気がする。
例えば、ほとんど全ての人が自分が何らかのアクシデントでいなくなるという事を想定して日々の生活を送っていない。職場においても「全ての出勤予定者がいつもと同じように出勤してくる事を前提に勤務が組まれている」
場合によっては「コアとなる人物が事故でいなくなれば、全てが終わり」という綱渡りのような状況の繰り返しなのにも関わらず、人は昨日と同じ繰り返しの連続が長く続くと信じているようである。人間は「生身で病気もケガもする」のだが「自分と自分の周りでは、そんな事は起こらない」と信じているのである。
まあ「平和ボケ」という宗教の信者になっている事は信教の自由が保障されている日本においては他人にとやかく言われることではない。が、しかし、それでも、他人が「問題提起したり、警鐘を鳴らした時」に変なチャチを入れるのは感心できることではない。
反論が「論理的に説得力があるものか、もしくは効果的な対案」であるならば変なチャチとはいえないが単に「心配性が騒いでいる」とか「不満分子が不安感を煽っている」的な主張をする事には価値もなく意味もない。反発と憎しみの連鎖を育てるだけである。
人間個人の思考能力などタカが知れている。誰にでも思い違い・間違い・勘違いはある。しかしマフィーの法則によれば「起こる可能性がある不幸はいずれ必ず起こる」のである。
それを問題提起の段階で「自分の主張に都合が悪い」という理由だけで蓋をするという「臭い物には蓋をしろ」的な意見が「庶民を窮地に追いやっている可能性もある」となぜ考えようとしないのだろうか?
ある人は、自分の「根拠の薄い希望的観測」と「役に立たない哲学感」だけで、他人の「問題提起を否定」する。
崩壊が訪れたときに「全てが滅び去る」とは限らないが、少なくとも「それを予測し備えていた人は、何もしなかった人よりは被害は軽減」する。多くの人が「用心する事で全体の被害が軽減する可能性もある」また「予測によって事故そのものが避けられる事もある」
イギリスから始まった保険という制度は「未来のは、あらゆるリスクがあり、それは完全には予測できない」という事が前提になって成り立っている。