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(回答先: 不食は近代精神の到達点かも 投稿者 張良 日時 2005 年 10 月 06 日 11:59:31)
張良さん レスありがとうございます。
こうしてやり取りができるなんて実に楽しいですね。
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常識外れを気にしない知性の空間
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この「常識」という奴が曲者でして、これが「まとも」という前提で物事を考えると思う壺という奴でして、袋小路に入り込んでしまいます。
そして「自分とは何であるのか?」が皆目分からず終いで一生を終えたりして。
勿論、常識という中にはちゃんと「自分とは何か?一生の意味」なども便宜的に用意されているので別に困るわけでも悩むわけでもないわけですが。
ところがある一部の感性の鋭い人が居て(例えばデラシネさんのような人ですね)、そういう便宜的なモノに違和感を覚え
ついにはその仕組みそのものを読み取ってしまう。
こうして便宜的に容易された「常識」というものが実にとんでもないものか、そして意味が無いものであるかを体得してしまう。
だからこそ、まったく初めての場に来てどんな人が居るのだろうと探りの意味で「常識を信じる奴は大抵馬鹿!」などと過激な言葉を大声で叫んでみるとその反応が面白い。
「大馬鹿者はお前だ!」と非難轟々。かと思えば鳥の囀りの様な爽やかな囁きも聞こえてきたりする「常識は馬鹿にでも納得できる方便」などと。
こうして「常識外れ同士」が遭遇でき、ツーカーとなる。一言言えば二言三言分伝わったりして。
だから常識外れを気にしないのではなく、常識の外に多くの真理があることを確信している人が居るというだけの話。
さて「特別モード」の話ですが
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ただ、「普通人間モード」の限界を感じる今日この頃ですから、修行抜きの「特別仙人モード」を示唆してくれる不食に救いを感じているところです。
ちょっと心構えを変えさえすれば誰にでも開かれている、そんな安易さに惹かれます。
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結論から言うと「修行の末の仙人」の方が案外簡単かもしれません。
何故なら「心構えを変える」ことが容易ではないからです。
「心頭滅却すれば火もまた凉し」などと題目を唱えるように口にするだけでは1秒火に触れただけで「アッチィ!」と逃げ出すことになるのが落ち。
自己暗示で「心の底から思い込めるようならばどうか?」と言えば、これも多分3秒も持たず逃げ出す。
つまり「普通人間モード」が本当に普通なのか?という疑問から始まり、普通の嘘を見破り、この世の構造に気がつく。
そして自分そのものも皆が信じ込んでいるような「常識」とは掛け離れた仕組みであることを体得する。
こういうプロセスなんかが必要なのではないかと「根拠なしに(笑)」思う膝枕でありました。
「真理の体得」が必要だと思いますよ。 体得というものは、体得した当人にとっては難しくもなんともありませんが
分からない人には「皆目見当すらつかない」ものです。その差は僅かであると同時に宇宙の果てほどの開きもまた同時にある。
とはいえ、体得というものは何かの体験中に「これだ!」と気が付くことですから、体験しようとしない人には体得は起こりえません。
通常の修行以外の特別ルートで仙人に成れたという人は少なくないようで、ある人はローマ法王が被るような半円状の帽子みたいな形状の
お皿を被り、裸足で水溜りに立ち、雷に打たれるのを待つ。ちょうど電気椅子の囚人の被るアレです。
で、見事落雷が金属帽子に命中し身体を雷が突き抜けると、大抵は黒こげで火葬の手間が省けるだけですが、稀にとんでもないことが起こる。
チャクラが通じ超能力を一瞬にして身に付けることができる(らしい)。こういう仙人誕生のエピソードもあるようです。
不食ならば試してみても、途中で「止めよっと」と簡単に引き返せますが、雷は勇気位では試せませんね。
ということで、「あーだこーだ」は後回しにして、自分が体得できる人間かどうか試す意味でもまずは明日からでも不食をしてみてはいかがでしょうか?