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□マスメディアに品質の高い報道は望めるか [JANJAN]
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マスメディアに品質の高い報道は望めるか 2006/03/20
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テレビ放送の品質が下がって久しい。
同じく新聞・出版も品質が下がっている。
しかもお互いに批判されない。
怒鳴りあうだけの討論番組、一方的な視点に基づく報道番組、女性占い師を崇めて言いたい放題のバラエティーなど、見たくもない番組が並んでいる。放送倫理・番組向上機構(BPO)でも何年にもわたって非難が挙げられているが、全く効果がない。かえって悪くなっているとしかいえない。
「報道の自由」は尊重されるべきだが、マスメディアに自浄作用が全くないような現状では、放っておくと社会の混乱まできたすであろう。
新聞の投書欄も、特定の人物、特定の思想のみによっているものが多いようだ。マスコミの不祥事が公になる場合でも大きな記事にはなりにくい。マスコミの不祥事の場合も、べた記事で終わる場合が殆んどである。記事にならないことも多い。
Wikipediaなどを読んでいると、マスコミには「マスコミが伝えない問題がある」ことがよく分かる。たとえば、新聞の拡張員の暴力的な勧誘をマスコミは殆ど伝えたことがない。
また、本来なら新聞とテレビは独立し、お互い監視しあうくらいの緊張感がなければならないはずである。しかし彼らも馴れ合っているとしか思えない。新聞に逆らえないテレビ、テレビに逆らえない新聞。しかし視聴者・読者は何もできない。
出版することも普通の人には簡単にはできない。出版社も、自費出版などの例外を除いて、なかなか取り合わないことははっきりしている。
インターネットも誰もができるものではない。パソコンを持たない家は数多く、費用を負担ができない家庭も多い。そういった家庭の人間が既存メディアに向かうのである。既存メディアは、そういった人が逃げないことをいいことに、いい加減な報道をしていないだろうか。
メディア・リテラシーの問題も指摘されて久しい。しかし、一般の視聴者・読者にどの程度浸透しているのか、いささか疑問である。いや、関係者の努力にも関わらず、全くといっていいほど浸透していないのではないか。
私は高齢者、精神障害者、知的障害者や低所得者と話をする機会が多い。彼らの話を聞いていると、テレビや新聞の情報のみを知識としており、やらせ、捏造、特定の思想に基づく報道などの問題に全くといっていいほど気づかないこと、感情的な報道が流れるとそのまま感情的になる場合が多い。これはもちろん、彼らの存在の問題ではない。
放送局や新聞社など、情報の送り手にとっては、このような人々が都合のよい存在ではなかろうか。送り手の意図したとおりに動くのであれば、一種の専制君主になったような気になるのであろう。
今の報道の問題としては、情報の送り手が「高見の見物」となっている観があることだ。事件が起こっても、安全な位置から「ああだこうだ」と言っても、延々評論のみでは解決の意見へとは向かわない。そういう情報のみ強烈な印象で流せば、情報の受け手が感情的になり、それが世論になる。その世論を形作る人々も高見の見物となる。
強烈な情報なら社会が動かせると思っているのが、今のマスコミではなかろうか。
当事者の気持ちになる‐これは報道を含め社会の基本ではなかろうか。困っているのも苦しいのも、全て当事者の気持ちが理解できなければ解決できない。
少なくとも、今のマスコミに当事者の気持ちを理解することができるとは、到底思えない。阪神・淡路大震災、新潟中越地震、尼崎電車脱線事故でマスコミは何を学んだのか。少なくとも当事者に理解はされていない観がある。
私は、精神障害者の苦しみを知るためには「当事者の言葉を傾聴する」と厳しく習った。相手を大切にし、相手の言葉を理解することが尊厳につながるからである。
この世には、理不尽なことがたくさんある。それらの当事者を救うためには、当事者を大切にすることではないか。理不尽なことにつぶされ、評論につぶされでは、誰も救われない。
(福盛俊明)
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投稿者 white 日時 2006 年 3 月 20 日 11:48:37: QYBiAyr6jr5Ac