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(回答先: [AML 5868]名社説ー名解説【東京新聞の2月5日付の社説を紹介しています】 投稿者 gataro 日時 2006 年 2 月 08 日 16:46:12)
http://list.jca.apc.org/public/aml/2006-February/005585.html から転載。
河内様、
東京新聞の社説に関する情報をどうもありがとうございました。
これで朝日から乗り換える踏ん切りがつきました。
乗り換えるにあたって、朝日新聞に以下のメッセージをFAXしました。
長谷川 宏
__________________________
さようなら、朝日新聞!(東京新聞に乗り換えます。)
社説執筆者殿
政治部デスク殿
我が家は、私が物心ついたときからずっと朝日新聞でした。自分の家庭をもってからもずっと朝日新聞でしたから、約40年間ずっと朝日新聞を読み続けてきたことになります。
特にここ数年、朝日新聞の「堕落」ぶりは目に余るものがあります。「小泉改革」・「官から民へ」応援団さながらの無批判な「ヨイショ」、思考停止ぶりは、とてもジャーナリズムなどと呼べたしろものではありません。
今ごろになって、「小泉改革」のもたらした「行き過ぎ」を指摘するような記事も散見されるようになりましたが、さんざん「提灯持ち」にうつつを抜かして、そのような事態に拍車をかけた自らの責任に対する痛烈な自己批判の目はほとんど感じられません。
おそらく現場には、良心的な報道をしようと頑張っている記者もいるはずです。せっかく現場の記者が核心を突いたよい記事を書いても、「上」の人間が握りつぶしたり、「当たり障りのない」ものに書き換えさせているのではないかと想像しています。
そう考える根拠は、朝日新聞の中でも「トップクラス」の人たちが書いているらしい「社説」の書き方に如実に示されています。そこにはジャーナリストとしての信念などまったく感じられず、
「いまどき『左翼』的なのははやらないし、『左翼』と思われると広告主にも嫌われるから、何かと損だ」
「でも昔からの朝日の読者は『リベラル』な人も多いから、あまり『体制ベッタリ』を丸出しにしても、『リベラル』な読者を失いかねない」
という「打算」ばかりが見え隠れします。この相反する「損得勘定」に無理やり折り合いをつけようとする結果、
「ちょっと『リベラル』なポーズをちらつかせるが、本質的な問題には決して切り込まず、『両論併記』で『逃げ』を打ちながら、『穏当』な批判めいた『ぼやき』を入れてお茶を濁す」
という朝日の社説独特の気色の悪い文体ができあがります。いつも読むとへどが出そうになるので、最近は朝日の社説はなるべく読まないようにしています。
これは、朝日の記者が押しも押されぬ高給取りのエリートであり、その「トップクラス」ともなればもはや「大企業の管理職」としての心性がジャーナリストしての信念など飲み込んでしまう、ということを示しているのではないかと思っています。
たとえば2月6日付の朝日の社説、「改革の中で考えよう」はそのひとつの例です。所得格差が広がっていることに対する警戒の必要を述べながらも、「避けなければならないのは、こうした格差を理由に、日本を公正で効率的な社会にするための構造改革をやめてしまうことだ。」、と、結局は「小泉改革」を肯定、「ヨイショ」しています。「小泉構造改革」が本当に「日本を公正で効率的な社会にするため」のものであったのか、という真摯な検証の裏づけはそこにはまったく感じられません。「改革の中で景気回復は進んだ」という断定も、空前の利益をあげている企業からの広告料で潤っているエリート集団である朝日の皆さんの実感ではあるのかも知れませんが、「改革の中で」切り捨てられ、「景気回復」の実感をまったくもてない多くの人々の置かれた状況に寄り添う視点が欠如しているように思います。「セーフティネット」、「公正な社会に近づける」といったもっともらしいフレーズを申し訳程度に並べていますが、「自分たちは安全な高いところにいて、本当に苦しんでいる人たちの実感は共有できないまま、きれいごとを言っている」といふうにしか聞こえません。
2月5日付東京新聞に、「敗れる前に目覚めよ」と題する社説が掲載されたことをネット上で知りました。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20060205/col_____sha_____001.shtml
私は朝日の社説を読んで、「よく言った!」と快哉を叫びたいようなこのような痛快な感覚を味わった記憶は残念ながらありません。朝日の社説を読むといつも、「何でこんな奥歯に物がはさまったような言い方しかできないんだ、言いたいことがあるならもっとはっきり言えよ、うっとうしいな!」と言いたくなることばかりでした。
最近の朝日の論調に対してずっと疑問を抱き続けてきた私にとって、東京新聞のこの社説は、私に「乗り換える」決断をさせるに十分なインパクトをもっていました。
社説に限らず朝日の記事が、東京新聞の上記社説に匹敵するほど本質を突く鋭さを取り戻し、私が「やはりまた朝日に戻ろうか」、と悩まなければならない日がくることを、朝日の長年の読者として心から願っています。
2006年2月7日
朝日を40年間愛読してきた一読者