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社説:視点 禁煙治療 おせっかいの功と罪、広がる依存癖が心配=論説委員・三木賢治
人は抑圧や束縛から逃れ、解放や自由を目指してきたはずなのに、いつの間にか、逆行して個人に干渉する施策が目につくようになった。禁煙治療も、その延長線上に位置付けられないか。
交通対策を例にとれば、話が分かりやすいかもしれぬ。交通戦争の言葉が生まれていた75年、警察庁が道路交通法を改正して二輪車のドライバーにヘルメット着用を義務付けようとした際、内閣法制局などは「個人の自由を抑制する法案は認められない」と猛反対した。「命を守りたければ自分でかぶればよいのに、おせっかいだ」との異論もあった。
何としても死者を減らしたかった同庁は、坑道内でのヘルメット着用を義務付けていた鉱山保安法令を引き合いにし、法制局側を懸命に説得して改正にこぎ着けた経緯がある。その後、85年にシートベルトが、さらに00年にはチャイルドシートの着用が義務化されたが、さほどの反対はなかった。
一義的にはヘルメットやシートベルトによって致死率が大きく低減する成果があったせいだ。交通対策としては成功を収めたが、この間に人々はおせっかいな施策にも干渉だと反発せず、むしろ歓迎する風潮が強まったように映る。交通行政は次第に過保護的な色彩を増しているとも解釈できる。
過保護があだとなることは、育児でも明らかだ。少子化の影響もあり、子どもをペットのようにでき愛する親が目立つが、子どもは自立心を失い、いったん反抗すると手がつけられなくなりもする。ストーカーやドメスティック・バイオレンスなど新手の犯罪が増加したのも、過保護によって人間関係を上手に結べない子どもが増えた結果との指摘がある。
車の運転にしても、施策によってドライバーが根源的に安全意識を強めたわけではないから、反作用なのか、法令で規制されない点についてルーズになった面は否めない。悪質な酒酔い運転やスピード違反を抑止するために、危険運転致死傷罪の新設などの施策を講じざるを得ない現実もある。
人々が過保護的な施策も受け入れるのは、公共の福祉に合致するという大義名分があるためだ。だが、見落としてはならないのは、施策はお役人の都合であったり、社会的利益を図るのが目的で、必ずしも施策の受益者を思ってのものではないことだ。ヘルメットなどの着用義務化にしても、事故処理の省力化や事故の加害者の責任軽減にもつながっている。
禁煙治療は、純粋に喫煙者の健康を考える優しさから生まれた発想ではあるまい。喫煙者を病人として健常者と区別するより、迂遠(うえん)でもたばこの健康障害への理解を促し、喫煙家を自発的に減らすのが筋道だ。
何よりも今は、精神の自由を損ねる依存体質が社会に広がる現実を省みるべきではないか。
毎日新聞 2006年2月27日 東京朝刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060227ddm005070009000c.html
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