★阿修羅♪ > 国家破産43 > 780.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
【特集】「韓国ショック」で日本が目覚めた
日本は韓国の成功を研究・コピーして自分のものにした
日本が変化した。日本経済はおよそ10年間に渡る長期低迷を抜け出して、競争力を回復しており、昔の日本型を改造した「新日本流モデル」にシステムをグレードアップした。小泉首相のリーダーシップ革命は、アジア外交の失敗という酷評にもかかわらず、政治・外交の地形を根本的に塗り替えた。
変化した姿を見せる日本。日本では今、いったい何が起きているのか。
「景気回復の勢いがすごいです。怖くなるくらいです」
日本経済新聞・国際部の玉置直司次長は、久しぶりに会った記者に忘年会の予約がなかなか取れないと愚痴をこぼす。4年間ソウル支局長を務めた後、今年の夏に帰国した玉置次長は、その間に起きた日本の変わりように、ときおりびっくりすることがあると話す。
株価の急騰と消費・投資の増加傾向、増える雇用、強化された企業の収益力…。日本経済の復活を知らせる勝利のニュースは、至るところから聞こえてくる。長期に渡る低迷の残像を日本のイメージとして覚えているわれわれに、最近の状況は突然の異変のように感じられるほどだ。
しかし、日本の復活はいきなり訪れたものではない。東京で会った日本の専門家たちは、「周到に準備された再生」と診断した。「失われた10年」と言われはしたものの、実は巻き返しのために政治・経済・社会構造を総合的に荒療治した改革の歳月だったと専門家たちは意見を一致させた。
著名な評論家である21世紀政策研究所の田中直毅理事長は、「若芽が出る前に、地下ではさまざまなことが起きるもの」と述べた。企業・労動界・政府がおよそ10年間にわたって少しずつ進めてきた数多くの「カイゼン(漸進的改善)」が蓄積されて、いよいよ結実を結んだというのだ。
「何をどのように直さなければならないか、改革の方向は、みんなが分かっていました。問題は速度だったんです。完全に破たんする前に果たして改革を終わらせることができるのかが、ただ一つの核心問題でした」
田中理事長は「ぎりぎりのところで、改革のデッドライン(締め切り)の間に合わせた」と述べた。「ぎりぎろのところで」を何回も強調した。
慶応大学の島田晴雄教授は、とりわけ各企業が、必死の覚悟でイノベーション(革新)に乗り出したと伝えた。そういう意味で、「失われた10年」ではなく、「イノベーションの10年」と呼ばなければならないと島田教授は主張している。
「21世紀型の未来需要を見据えた技術開発に全力で走ってきた10年間でした。1990年代日本の R&D(研究・開発)支出の割合は世界最高でした。その結果、環境対応技術などで、日本の企業が抜きんでた競争力を備えるるようになったのです」
富士通総合研究所の理事長兼任している島田教授は、小泉首相のブレーンの一人だ。インタビューの途中、島田教授は興味深い話を聞かせてくれた。
「実は、日本が気を引き締めるうえで、『韓国ショック』も大きな役割を担いました。ある日、気付いてみたら、サムスンが(半導体分野で)日本をはるかに追い越していた、ということです。しかも韓国のブロードバンド(超高速インターネット網)の勢いも、日本にはすさまじいショックを与えました。
島田教授は、「韓国発ショックに刺激され、日本政府や産業界、皆が反省した」とし、「韓国を追い越せ」作戦に乗り出したと伝えた。「打倒サムスン」を旗印に日本のメモリー半導体産業が一つに団結し、通信網は競争体制に切り替わった。
島田教授は「韓国のおかげで、日本は世界で通信費用がもっとも安価な国になった」と語った。 われわれが知らないうちに、日本は韓国を研究して、韓国の成功の秘訣をコピーして、自分のものにしたという話だ。
確かに日本経済において電光石火ような「革命」はなかった。その代わりに得意とする「カイゼン」を通じて少しずつ漸進的な革新を成し遂げた。企業は「3種の過剰(過剰雇用・設備・負債)からの脱却を果たし、金融の構造調整と雇用の柔軟化、競争システムの導入などで課題をひとつひとつ解決してきた。
こうした日本の改革に、英国のエコノミスト誌は、「ひそかに果たした革命(Stealthy Revolution)」という名を付けた。誰も気づかないいうちに、膨大な改革を成し遂げたという意味だ。気づかれないほど、ゆっくりとした速度だったが、日本は少しも休んではいなかった。
東京=朴正薫(パク・ジョンフン)経済部部長 jh-park@chosun.com
朝鮮日報