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ある人のホームページに次の一節がある。
『福井県を私はよく旅するが、福井県の最大の資源は「人のよさ」と「美しい自然」である。人々は大変親切で忍耐強い。勤勉で真面目で誠実な人ばかりである。』
「人のよさ」と「美しい自然」がまだ残っているのは、特別に恵まれた地域になってしまったようだ。人生ののぞみとはいったい何か、それはカネと権力、という答えが返ってくるような文明に飲み込まれてしまえば、「人のよさ」と「美しい自然」は消えて無くなるのだ。
私はいつも思うのだが、金と権力が第一、というような発想は、人間本来のものではないはずだ。美しい人情と美しい自然に囲まれて暮らすのが一番のしあわせ、というのが、普通なのではないか。金と権力のむなしさを知らぬはずはないのに、人々がそちらに追い立てられていくのは、何か悪いものにとりつかれてしまったからにちがいない。それが証拠に、近代文明から遠い、秘境と言われるようなところに住む人々は、決まって、人情豊かで、自然環境にとけ込んだ美しい風景をつくりだしているではないか。人間本来の姿はここにあるのであって、金と権力を求めて心を鬼にするようなものではないのだ。
この人のホームページの別のところには、次のような記述がある。
『港で働く人々は志が大きく精神が広大である。この半年間、私は、多くの港湾関係者に会ってきたが、すべての港湾関係者の精神が高潔であった。これは、私にとって一つの驚きだった。私が港に魅かれた主原因の一つがここにある』
この文明の中にあっても、精神が高潔に保てるような環境は存在する、という実例がここにあるのだろう。金と権力をめぐる腐敗から遠いところに、精神の高潔が宿る。ここで重要なのは、特別の聖人君子でなく、多くの普通の人に、というところなのだ。この文明による洗脳が比較的少ない場所では、人々は、自ずと精神高潔になるものだ、と私は思う。
【今日の結論】金と権力を追い求めることによって「人の良さ」「美しい自然」「精神の高潔」を失う、というのは人間本来の姿ではない。文明の腐敗から遠いところに身を置けば、本来の自分を取り戻すチャンスとなる。そして、たとえこの文明のまっただ中に住んでも、金と権力をめぐる腐敗にハッキリと「ノー」という態度を選択すれば、それは可能なのだ。これから世界経済は大混乱すると言われる。その混乱の向こうに、「人の良さ」「美しい自然」「精神の高潔」を求めながら、生きていこうではないか。