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http://www.rieti.go.jp/cgj/jp/columns/text_005.htm
ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス 教授
ロナルド・ドーア
(2003/02/25)
「グローバルスタンダード」という言葉があるが、4、5年前に比べて耳にすることは少なくなった。アメリカ的なものを真似ようという意味合いで使われたが、「ニューエコノミー」ブームの終焉とともにそうした意欲は下火になった。とはいえ、アングロサクソン資本主義とアメリカ的民主主義から成る均質的な世界がいずれ訪れるという考えは、いまだ広く受け入れられている。本論では、そのような収斂のシナリオが必然的でもなければ望ましいものでもないことを主張したい。
コーポレートガバナンス:あるべき姿
まず、望ましいかどうかの観点から見てみよう。世界的に優勢を誇るアメリカモデルとは異なる各国独自のコーポレートガバナンスを確立するため法的枠組みを構築し、維持していくことがなぜ必要なのか。結果論と前提条件論、2つの答えがある。
結果論は、つまりこういうことだ。いずれの社会においても、その市民が大切に思う固有の価値観と一体化するかたちで経済制度が社会に根をおろしている。コーポレートガバナンスに関する諸制度は、各社会において所有権対その他の人権が相対的にどの程度重視されているかを反映し、そのあり方によって、たとえば自由と平等のトレードオフがどう調整されるかが異なってくる。経済的自由度や経済効率を高めるために、所得や機会の不均等をどこまで容認できるのか。そもそもなぜ経済効率が重要なのか。国際社会における国家の威信を保つためなのか、それとも、個々人の幸福のためなのか。この点について、北欧諸国や日本における一般的な見解は、アメリカにおける見解とはかなり異なったものになっている。
「前提条件」論の議論はこうである。経済学の教科書は動機や価値の多様性が少ない普遍的「人間」を想定するが、実際の「人間」というものは、もっと大きなバラツキを持つものである。なお、その多様性は国別の多様性がという面が多く、明示的な倫理規範においても、模範的な親族・友人関係や経済取引に暗示される道徳観においても、国によって顕著な違いがある。したがって、ある有力な動機パターンに基づいて構築された制度を異なる動機パターンを持つ別の社会に持ち込んだ場合、まるで意図せざる結果になることがある。出来合いのものを持ち込むのではなく、各地域の価値観を取り入れてこそ、最良の制度が構築されるのである。
グローバルコンセンサス?異常と正常
しかし依然として、資本主義は単一不可分であり、唯一最良の企業経営のあり方が存在するという考え方が根強い。インターネットのGoogleサイトで「コーポレートガバナンス」というキーワードを打ち込むと38万件ものサイトが検索されるが、そのほとんどがこの考え方を何も疑うことなく踏襲している。制度の収斂を進める上で国際機関が重要な役割を果たすが、それを示す好例が経済協力開発機構(OECD)の報告書の中に見られる。
OECDビジネスセクター諮問グループが1998年に提出した報告書を見てみよう。冒頭の記述を次に引用するが、その中で確かに、各国の多様性について言及されてはいる。「株式投資資本を呼び込むためには長期的な経済利益を生み出し、株主(または投資家)価値を高めることが必要であり、すなわちそれが企業に課せられた中心的な使命である。しかし同時に企業は、より大きな社会の中で機能しなければならない。程度の差こそあるものの、経済以外の目的を果たすために、企業の経済目的が各国および個々の企業における制度によって調整されることもある」(斜体文は著者)しかし何より肝心なのはあくまでも「グローバルな資本獲得競争」で、その競争に打ち勝つために企業は「経済目的と経済以外の目的」の両方について透明性を高めることが求められている。
「経済目的」と「経済以外の目的」なのか。資本収益の最大化は「経済目的」で、所得分配の調整、雇用あるいは労働者への利益還元の最大化は、「経済以外の目的」と分類されている。妙な使いわけだ。
資本が必要だから資本を呼び込むことが企業の「中心的な」使命となるというが、これは一体どういう論理なのか。資本の他にも必要とされる希少な生産要素があるのではないか。今の「エージェンシー理論」と同じくらいもてはやされていた「効率性給料論」を考えればよい。先述の報告書冒頭部分を「優れた従業員を雇用するためには、長期的な経済利益を生み出し、高額の報酬を支払うことが必要であり、すなわちそれが企業に課せられた中心的な使命である」と書き換えてはいけない理由は見当たらない。
国ごとの違い、価値観の違い
「経済目的」と「経済以外の目的」の話に戻ろう。何をもって企業の「使命」とすべきかについての見解の相違は「国ごと」にとどまらない。日本における議論は往々にして国単位になりがちで、しばしば愛国主義的な表現で語られる。「日本的経営は維持されるべきである。なぜならそれは日本的であり、ゆえに愛国者はすべからくそれを擁護すべきだからである」となってしまう。
しかし、企業の「使命」についての考え方は、日本においても他の国々同様、多様である。そこにはイデオロギーの違いや多様な政治価値観が反映されている。会計上の利益を強調するOECDの姿勢について、新自由主義者は全面的に支持し、新重商主義者は会計上の利益に加えて企業の国家競争力への貢献にも関心を持つ(つまり、企業による従業員研修や環境改善などがもたらす外部経済効果を考慮する)だろう。共同体主義者であれば、ある特定の外部経済効果、つまり、企業がどのような特性の社会関係を育成するかが関心対象となる。社会民主主義者の場合、所与の資源の単位あたりの付加価値の最大化をめざすという点でOECDと一致するが、同時に付加価値の配分(労働者への還元と資本への還元)が社会的所得配分にどう影響するかについても関心を示すだろう。「日本的経営」は、新重商主義、共同体主義、社会民主主義の考え方にかなり近い。一方、最近の商法改正は、新自由主義的な見解に立つ人々によって推し進められた。
経営者をどうやって正直にするか
以上は目標、価値、経営者の使命、そしてどの利害関係者を主な対象として経営者はその責務を果たすべきかという議論である。しかし、そのイデオロギーの次元でどの立場をとる人でも、経営者として、ひそかに私服を肥やすことにのみ汲々としているような人が現れることを防ぎたい。いかなる制度においても不正を抑制阻止することが必要である。そして不正の抑制阻止がどのようなかたちで行なわれるかは、それぞれの社会がどういう社会的資源を持っているかによって大きく異なる。(ガバナンス構造の多様性を生み出す2つ目の根源:上記参照)
適度のアメとムチで経営者を律するというのがアングロサクソン社会のコーポレートガバナンス関連文献が当然とする解決策である。
アメの代表例は経営者の自己利益と株主利益を一致させるべく設計されたストックオプションであるが、エンロンの破綻をきっかけに、こうした報酬が誘惑となって無節操な不正行為が助長された事実が明らかとなり、その手法は対する不信感が高まっている。ストックオプションは小規模なベンチャー企業を除いてすべて禁止すべきとの意見は、ポール・ボルカーを始めとする著名人からも聞かれるようになっている(*1)。
コーポレートガバナンス関連の文献が提言するムチは、もっぱら外的かつ懲罰的な対策である。具体的には、より正確な株式市場の評価を得るための会計の透明性確保、不正行為に対する法的取締り、株主総会における経営陣に対する批判的検討の促進、無能な経営陣を退陣させるための「懲罰的」買収、執行権を持たない「外部」取締役任命の法的義務付け、監査委員会や報酬委員会のメンバーの過半を外部取締役とする、等々である。一般的に処方されるこうした外部メカニズムにおいては、株式市場が決定的な役割を果たす。定説によればこう機能する。すなわち、会計の透明性が確保されれば、株主はどの時点で投資先企業から手を引くべきか判断しやすくなる。業績が悪化すれば株価が下落し、経営者に警告を発する。そして経営者がその警告に刺激されて、人がまた株を買い直すような会社にしないと、場合によっては額面を割り込むまでに株価は下落し、その企業は買収の格好の標的となり、やがて無能な経営者に取って代わる有能な経営陣が現れる。
これがどの程度正確にアメリカの現状を示しているかはさておくとして、買収はなきに等しく、株式市場は効率性に欠け、インサイダー取引が蔓延する日本では、株式市場による規律はまるで意味をなしていない。それでは日本にはどのような規律があったのか。メインバンクによるモニタリングが存在したというのがエコノミスト(主にアメリカのエコノミスト)の標準的な答えだ。
市場と組織:外的規律と内的規律
この考え方の根底には、経営陣の責任回避あるいは自己利益の追求は外的な規律によってのみ阻止し得るという基本的前提があるようだ。そうすれば、日本の経営者は比較的真摯かつ誠実だったと考えられることから、買収や株式市場以外に何か外的な規律があったはずだ。その役割を担ったのが債権者だったに違いないと。
この議論では、企業がコミュニティ的な性格を帯びる国々においては経営者を律する効果的なメカニズムは外的でなく内的なものであり得る可能性が無視されている。ポール・クルーグマンは最近の所説(*2)で、アングロサクソン諸国においてさえも、経営陣に対する内的抑制は実際、外的抑制と同じくらい重要だと述べている。過去30年間でCEOの報酬が平均賃金の39倍から1000倍超に上昇したことについて、クルーグマンは、社会規範の変遷という要因なしには説明できないと述べている。つまり、1960年代ガルブレイス(*3)が称賛した「テクノストラクチャー(専門家集団)」に対しては社会的規範が働き、自己利益の追求が抑制されたが、今や「何でもあり」の経営風土に変わってしまったというのである(その流れは、ビジネススクールの教祖たちが広めたゲーム理論に基づくミクロ経済学によって助長されたと、クルーグマンは述べている)。
内的コントロールにより多く頼る国の場合、明かに重要なメカニズムは、会社法として成文化された規定である。組合または従業員代表が経営に参加する権利を法的に認めるドイツの共同決定制度がその一例だ。日本においては、正式に法律で定められているわけではないが慣習上、労使協議制が広く受け入れられ、労使協定というかたちである意味「規約化」されている。その主たる役割は労働者利益の擁護なのかも知れないが、日本の労働組合はたとえば、組合員ではなく「企業」にとって有害だという理由でCEOの解任を画策する(オークマはその代表例)ことがある。
しかし、「社内たたき上げ」のトップ経営者を輩出しがちな「コミュニティ的」構造の企業においては、意思決定者が部下や同僚から受ける個人的プレッシャーなど、まるで非公式なものが最も重要な内部コントロールになっている場合がある。つい先ごろ日本で行なわれたセミナーで、無能なCEO解任の具体例がある顧問弁護士によって示されたが、このケースの場合、投資家ではなく中間管理職の信用を失ったことが解任の引き金となった。投資家はむしろ説得されてCEO解任を後押ししただけだった。
このような内的コントロールはどのように機能するのだろうか。まず、誰が誰に対して権限を持ち、誰が誰に報告するかを縦のラインで示す典型的な組織「体系図」ですべてがわかるといった単純な考えは捨てなければならない。部下は指示を受けるだけでなく、「提言」もする。若くてやる気のあるジュニアマネジャーは、直属の上司による重大な意思決定のための詳細な報告書を準備し、いわば「毛細血管的」な役割を果たすことで、上司の意思決定をコントロールしている。(日本のような雇用体系においては、ジュニアマネジャーはいずれシニアマネジャーに昇格するが、人より早く昇進しようと、競争―あまり外に見せない競争だが―している。)日本ではときとして、ジュニアマネジャーが非公式な勉強会を立ち上げ、戦略的ミスと考える事柄について上司に諫言すべく覚書を作成する。つまり、かくれた「毛細血管的」なコントロールではなく、よりオープンな集団的なコントロールとなることもある。
日本ではまた、企業の経営幹部、つまりインサイダーで構成される取締役会が重要な機能を果たしている。こうした取締役会はしばしば大規模で、企業によっては50名規模のところもある。取締役会が肥大化する理由の1つは、より多くの従業員に取締役に登りつめるというキャリアインセンティブを与えることだが、このような取締役会のあり方は大方のコーポレートガバナンス専門家の嘲笑を招いている。そんなに肥大化した組織でどうやって戦略的意思決定ができるのか、というわけである。もちろん戦略的意思決定など行なわれていない。一般的に、正式な取締役会議は形式的な承認を与えるための場となっており、事業戦略は必要に応じて、「常務会」のようなトップの小さな、商法に規定されていない会で協議される。それでも取締役会は、企業における「議会」ともいうべき重要な役割を果たしている。社内の士気や従業員の「世論」を反映し、最高幹部に対して日本では自信を支える支持を与え、日本には赤信号となる忠告を与える場となっているのである。
アングロサクソン的な外的コントロールは、懲罰をちらつかせることによってマネジャーの誠実さや業務の効率性を維持する。懲罰とは、株式市場の機械的な機能の結果としての買収もあれば、株主代表と明確に規定された社外取締役を主たる構成メンバーとする取締役会による解任もある。日本的な内的コントロールは、機械的ではなく人間同士がある一定の距離を保ちながら向き合い、マネジャーの良心に道義的プレッシャーをかけることで機能する。
いうまでもなく、ここで極めて重要なのは良心がどの程度敏感に反応するかだが、それは何によって決まるのか。キリスト教の原罪の教えと儒教の性善説という文化的伝統の違いは無視できない。前者は懲罰的矯正を不可避とするが、後者は道義心の涵養と「強迫的」な道徳規範のプレーシャーで足りるとする。しかし明らかに、最も重要なのは雇用パターンとそのパターンが規制する道である。日本のマネジャーには、現在より高い報酬でストックオプションもついてくるような新たな就職口を提供してくれる外部労働市場は存在しない。彼らの職業人生においては、自らの勤める企業こそが社会すべてなのである。ひとたび怠慢、不正、あるいは無能といったレッテルを貼られれば、友人関係や相互信頼関係が崩壊してしまいかねないし、そうなれば悠々自適な老後生活を(「公正な」年金とともに)保証してくれる条件を失うのである。
きわめて流動性の高い幹部労働市場の存在と一連の外的規律とは切っても切れない関係にある。終身雇用と道義心の働きも同様である。後者の組合わせが今でも日本の強みになっている。
*1:BBC interview, October 2002
*2:New York Times Review, 13 October 2002
*3:The modern Industrial state, Boston, Houghton Mifflin, 1967