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限界の近代・限界の思考 〜境界の正当性を巡って〜【UFOの意味論が指し示す危機】(MIYADAI.com)
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投稿者 まさちゃん 日時 2006 年 2 月 15 日 10:51:23: Sn9PPGX/.xYlo
 

限界の近代・限界の思考 〜境界の正当性を巡って〜
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=326
投稿者:miyadai
投稿日時:2006-02-14 - 20:38:02


【UFOの意味論が指し示す危機】
■興味深い本が上梓されました。アメリカ文化の研究者である木原善彦氏の『UFOとポストモダン』(中公新書)です。この本が興味深いのは、私たちが考える「現実の地平」がどんなものであるのかを、豊富な実例を元に考えさせてくれるからです。
■木原氏は、見田宗介&大澤真幸&東浩紀による時代区分「理想の時代/虚構の時代/動物の時代」に並行して、UFOの意味論(木原氏は「UFO神話」と呼びます)を、「前期UFO神話/後期UFO神話/ポストUFO神話」に時代的に三区分します。
■前期UFO神話の時代は1947年から始まり、後期UFO神話の時代は1973年から始まり、ポストUFO神話の時代は1995年から始まります。宇宙人の存在の如何は別にして、各意味論の要素が大きく異なるところから、各段階に対応する社会を見通せるとします。
■宇宙人の形象に注目すると、「前期〜」は「白人型宇宙人」で、人間とのコミュニケーション可能性があります。「後期〜」は「エイリアン」で、人間とのコミュニケーション可能性はない。「ポスト〜」は異星人というより「異物」で、文明概念を適用できません。
■乗り物の形象に注目すると、「前期〜」は「空飛ぶ円盤」です。「後期〜」は「墜落するUFO」です。「ポスト〜」は「UFOの不在」です。不在というのは、UFOについて語られることがなくなるということで、それゆえに「ポスト」と命名されています。
■「前期〜」では、「科学がずっと発達した宇宙人」対「科学的事実を隠蔽する政府」という二分法が機能し、「私たちは騙されている」という被害感覚が通底し、ホロコーストや原水爆などの「科学的理性の暴走」への不安が刻印されています。
■「後期〜」では、「得体の知れない宇宙人」対「宇宙人と共謀して謀略を巡らす政府」という二分法が機能し、「私たちは操られている」という被害感覚が通底し、強制妊娠やインプラントなど「埋め込まれているもの」への不安が刻印されています。
■「ポスト〜」では、「電脳バグやテロリスト」&「統御能力を喪失した政府」という二分法が機能し(宇宙人は出てきません)、「私たちは侵されている」という被害感覚が通底し、電脳バグや環境ホルモンなど「ノイズによる暴走」への不安が刻印されています。
■「前期〜」では主体や現実(事実)が信頼されているので、フーコー的規律社会に当たり、「後期〜」では自由であるつもりが操られているので、ドゥルーズ的管理社会に当たり、「ポスト〜」では操る人称性も消えるので、ライアン的監視社会に当たるとされます。
■「前期〜」は自然科学優位の「科学の時代」でパロール(意図)が問題にされ、「後期〜」は逆に人文科学優位の「科学論の時代」でエクリチュール(脱意図・郵便的)が問題にされたのが、「ポスト〜」では電子言語が前景に出て意図も脱意図も問題になりません。
■総じて本書は「UFOの神話学」の体裁をとりつつ、「ポストUFO神話」の時代たる今日における「神話への批判の不可能化」=「批判の基準面の消失」、即ち、理想に照らして現実を批判したり、現実に照らして虚構を批判する振舞いの、不可能化を危惧します。
■連載で示した私の議論と並行します。「前期UFO神話」の時代は「我々の解体危機」を批判でき、「後期UFO神話」の時代は「私の解体危機」を批判できたのが、「ポストUFO」の時代には「我々」や「私」が空洞化して、批判の基準面が不明確になりました。
■即ち、伝統的概念で言えば、我々ないし共同性が解体すれば「道徳」という基準面が消え、私ないし主体性が解体すれば「倫理」という基準面が消えます。今日の問題は、道徳・の空洞化を埋め合せる倫理・の空洞化を何で埋め合わせるべきか、不明であることです。
■木原氏の議論を細かく見れば、「後期UFO神話の時代」と「ポストUFO神話の時代」
の関係の論定に難点を抱える結果、結論的に示される「批判の基準の不明確化」に対する危惧について、「なぜ危惧せねばならないのか」という最大問題を逸した嫌いがあります。
■とはいえ、社会学の専門領域に入る一歩前で筆を置いたとも言えるから、そこから先は私たち社会学者にボールが受け渡されたのだと思います。今回はその部分について展開しますが、読者の皆さんが迷路に入り込まないように、大まかな見取り図を提示しましょう。

【リスク社会論の変遷が示す危機】
■ウルリッヒ・ベック『危険社会』以降、社会学では十年以上に渡ってリスク社会論が語られています。リスク社会論の重心変化を追尾すると、木原氏の時代区分と重なる訳ではないものの、彼が示した時代的展開の論理構造を、形式化して理解することができます。
■前期のリスク社会論では、ベックが原発事故に触発されて議論を開始したこともあって、「予測不能・計測不能・補償不能」なリスクを「我々」が(便益追求的に〈生活世界〉ならざる〈システム〉に依存する結果)「知らぬ間に」抱え込むことが主題化されました。
■ところがニクラス・ルーマンの批判を経て、後期のリスク社会論では、何が公共善たるか不明確になった複雑な社会では、政治権力が社会的危険を除去するより、危険を除去せずにアクセスの如何を個人的選択に任せる方が公共的である可能性が主題化されています。
■歌舞伎町が危険な町だとすると、かつては危険除去が政府の課題だとされましたが、人々の利害や感受性が分岐して何がどれほど危険か合意しがたくなると、政府は、不透明な危険がある場所だと告知した後、進入するか否かを各人に任せる方策を採るようになります。
■ホルモンやプリオンの危険は、木原氏も述べる通りそれこそ「予測不能・計測不能・補償不能」たるが故にこそ、万人の隔てなき議論で危険除去の合意をもたらすべしとのベック的処方箋は、善意の押しつけのパターリズム(恩情主義)だと受け取られがちになります。
■だから私がかつて(特に性愛領域における)パターナリズム批判という戦略目標ゆえにコミットした「自己決定=自己責任」論が優位になります。貧病争が後景に退く「豊かな社会」では、他人や政府から勝手に幸せや不幸を定義されたくないと感じる人が増えます。
■それはいいとして問題はそこから先です。私には私の幸せや不幸が分かるのか。但し精神科医が持ち出す前意識や無意識の問題ではありません。カントの責任論を持ち出すまでもなく、外から強いられたのでない限り、私の判断は私の選択性(責任)に帰属されます。
■私が言うのは、責任=正統性legitimacyを巡る議論でなく、妥当=正当性justifiabilityを巡る議論です。BSE問題が典型的です。私が自己決定していることは疑いないとしても、ソレを幸せだと思ったり、不幸だと思ったりするのは、そもそも何故なのでしょうか。
■法律学における「附従契約」の論理が参考になります。そこに私の自由意思が働いているのは疑いなくても、私自身が動かせない「環境変数」によって選択肢の数や選択肢ごとの利得が決められていて、自由意思が「追い込まれている」可能性があるということです。
■「環境変数」が必然的与件であれば別ですが、60年代にガルブレイスが「依存効果」の概念を提案したことに象徴されるように、選好構造(欲望)は初期手持量と同様、自明な与件というより、むしろ市場(経済&技術システム)の帰結だと感じられるようになります。
■ビーフハンバーガーや牛丼を食べたいという欲望故にそれらが流通する〈システム〉を選んでいるという言明は、正当的justifiableではありません。そういう〈システム〉から降りられないという事情に「附従して」自由意思が駆動されている可能性があるからです。
■ここで〈生活世界〉と〈システム〉の差異がクリティカルになります。〈生活世界〉と違い、〈システム〉は、人々の社会的選択の帰結だと理解される分、その〈システム〉でなければならない必然性を感じることは困難です。そこで先の「附従」が問題を生じます。
■問題を生じたとき、その〈システム〉を良きものだと見做すベースたる自明で必然的な〈生活世界〉に立ち戻れれば、そこに立ち現れる「我々」や「私」が「再帰的選択」を行えると感じられます。ところが〈生活世界〉がすっかり空洞化しているならどうでしょう。
■その場合「我々」や「私」は〈システム〉の外側にあるというより内側にあります。即ち「我々」や「私」は、〈システム〉が〈システム〉自身を回わすための操作的結節点(operational articulation)という他なく、〈システム〉をjustifyする権能を持ちません。
■立ち戻る〈生活世界〉が完全に空洞化した場合、木原氏の言葉で言うと「我々は、隠されている」とか「私は、騙されている」という観念は、評価に値する意味を持たなくなります。〈システム〉が自分で利用するために生み出す意味形象に過ぎなくなるからです。


【享受可能性の臨界点を示す「萌え」現象】
■だとすれば、「隠されている」とか「騙されている」などと面倒くさいことを考えるのをやめて、人々が楽しく生きられる社会であればいいのではないか。社会批判の根拠は「みんなを幸せにしたい」ということだけでいいんじゃないか。そういう向きもあるでしょう。
■実際「みんなを幸せにしたい」は私がある政党のために考案したキャッチコピーですが、簡単には行きません。まず「みんな」とはどの範囲か。次に「幸せにする」べく「現実」を変えるのだとして「現実」とはどの範囲か。例えば「虚構」を変えるのではいけないか。
■「みんな」とはどの範囲かという問いは、先に「我々」や「私」の境界線が自明でなくなると述べたことに関係します。「現実」とはどの範囲かという問いは、それとはやや別の──しかし密接に関係する──次元にありますが、やはり境界線についての問いです。
■まず弁明もかねて、何かが享受可能(enjoyable)であるとはどういうことかを「萌え」ブームに絡めて議論し、「現実」と「非現実」の境界線の話に繋げます。その上で再び「誰にとっての現実か」を問題にすることで、「人間」と「非人間」の境界線の話に繋げます。
■「萌え」は「情報の過剰利用」です。小説や絵や漫画や映画には物理的情報量がありますが、享受する側が記憶のデータベースを備えることで、物理的に受け取った情報を引き金として、遥かに大きな情報量を体験します。そうした体系様式が「萌え」のベースです(東浩紀)。
■そこではロマン派芸術やモダニズム芸術が前提とする万人の共通感覚は前提にされません。漫画やアニメの享受体験が豊かな人だけが楽しめ、それ以外の人は楽しめないという閉鎖性を──パンピーにとっては「だから何?」となることを──意識的な前提とします。
■こうした閉鎖性を意識した情報の過剰利用は、「萌え」ブーム以前から、オタク文化の共通項です。詳しくは別の機会に譲りますが、1960年代末以降の鉄道マニアや天文マニア(とかぶったSFマニアや映画マニア)が、こうしたオタク文化的享受形式の原点です。
■「先輩、あと20秒で特急あさかぜと擦れ違います」とか「あと5秒で金星の触が始まります」とか「『闇のカーニバル』を読まないで『火星年代記』を読んでも肝腎な点は分からないよ」という具合。まさに単体の情報量を超えた、「情報の過剰利用」そのものです。
■但し最近は「萌え」の使われ方が拡張されています。例えば「昭和30年代萌え」という言い方。そこでは「(米国人ならざる)日本人なら/(若者ならざる)中年なら、誰でも懐かしさを覚える」という具合に、過剰利用の恣意性よりも、必然性が注目されています。
■そこでは「分かる奴には分かる」と「然々の連中なら分かる筈だ」の差異が問題になりますが、これを後論の伏線にしつつ、それとは別に「アングラからシャレへ」「シャレからオシャレへ」という流れから、途中で取り残される形でオタクが誕生した経緯を見ます。
■私は昭和34年(1959年)の生まれですが、早熟だったせいで1960年代末以降のアングラ文化に触れています。アングラ文化は、大正・昭和初期のモダニズム文化に似ています。両方に共通して、「光と闇」「ここではないどこか」「全体性」がキーワードになります。
■モダニズムを近代主義と訳すと間違います。二点で独特です。第一に、当時は何と言っても「理想」の時代。少年も少女も「理想の身体」として描かれました。少女は「清く正しく美しく」家の理想秩序に、少年は「明るく正しく強く」国体の理想秩序に、貢献する。
■第二は、当時は「光と闇」の時代。将来を嘱望された書生も、故郷には『八ツ墓村』的因習の中で暮らす両親がいる。銀座のモボやモガの隣をモンペを履いた連中が歩く。江戸川乱歩や夢野久作など『新青年』の小説家たちがそうした「光と闇の混在」を描きました。
■そうした「理想の時代」「光と闇の時代」という意味での「大正モダニズム」を象徴するのが、例えば高畠華宵でしょう。そこでは、少年少女の身体に刻印された社会の「理想」や、モダンの香りと因習の匂いが混在する「両義性」が、独特の魅力を発揮しています。

【モダニズム表現とアングラ表現の共通性】
■1970年代前半はアングラブームがピークだった時代。寺山修司の天井桟敷や唐十郎の状況劇場が客を呼び、そこでは横尾忠則や丸尾末広など、高畠華宵を意識的に継ごうとする若いアーティストらがも活躍しました。因みに当時中学生だった僕はどっぷり浸かります。
■「モダニズムの時代」と1960年代の「アングラの時代」は似ています。大正時代は急な「都市化」が進み、知らない人々と空間を共有する新しい体験が生まれますが、1960年代には急な「郊外化」が進み、パパとママとボクで団地家族を営む新しい体験が生まれます。
■社会の急変があると人々は不安で右往左往します。故に人々は、全体的なもの、変転目まぐるしい現実とは別の大きなものに、帰属したがります。現に「モダニズム」も「アングラ」も共通して「目に見えない全体的な何か」=「ここではないどこか」を希求します。
■因みにサブカルチャー史の講義で「アングラの時代」を学生らに理解させる材料として、60年代末の『ウルトラQ』や70年代前半の『怪奇大作戦」が好都合です。両方とも円谷プロのTVシリーズで、「モダニズムの時代」と共通する「光と闇」の混在を見出せます。
■高度成長を経て完全に市民社会化したように見える70年前後。しかし一皮めくれば人にも物にも戦争の後遺症が染みついている──これが基本モチーフです。これらを順に見せながら導けば「アングラ」や「モダニズム」の真髄を若い学生にも十分理解させられます。
■『ウルトラQ』の最終回は有名な「あけてくれ!」。ロマンスカーに閉じ込められた男の目に映る窓の外の風景は、エプロンならざる割烹着、カーテンならざる障子と襖、テーブルならざる卓袱台、団地ならざる一軒長屋の世界。まさに「光と闇」を象徴しています。
■そもそもロマンスカーの小田急線こそは、60年代の「光と闇」の混在を象徴しています。僕が中高生だった1970年代前半まで小田急線の新宿駅の構内アナウンスでは扉を開閉を指示する業務放送で、「海側どうぞ」「山側どうぞ」の台詞が使われていました。
■海側は江ノ島方向。山側は箱根方向。右側左側という言い方だと、電車が折り返すので混乱するからです。いずれにせよ、新宿というモダンな大都市の「日常」のど真ん中に、いきなり海や山などという「非日常」──「ここではないどこか」──が貫入するのです。
■そのことに注目した表現も数多くある。例えば若松孝二監督『現代性犯罪絶叫篇・理由なき暴行』。「小田急に乗って網走に行こう」という台詞が胸に沁みます。網走はむろん映画『網走番外地』に描かれる最果ての地。「ここではないどこか」を象徴する地名です。
■さて「ここではないどこか」とは何なのか。「ここではないどこか」は、確かに空間的表象ですが、それを夢想せざるを得ない内面を指し示しています。胎内のまどろみから引き剥がされたが故に希求される代替的な「全体性」こそが「ここでとはないどこか」です。
■永六輔の「知らない街を歩いてみたい〜♪」という唄のように「ここではないどこか」に思いを馳せる表現自体は60年代に頻出しますが、当初は現実に辿り着ける場所でした。それはパレスチナであり、北朝鮮であり、キューバであり、沖縄であり、成田でした。
■ところが「ここではないどこか」が実在するという思いは70年代に入る前に挫折します。私は60年代後半を「政治の時代」、70年代前半を「アングラの時代」と呼びます。「ここではないどこか」が実在すると考えるのが前者で、実在しないと断念するのが後者です。
■だから69年の映画で描かれた「小田急に乗って網走に行こう」はアイロニー。夢に見た網走は実は江ノ島で、全体が部分に対応づけられます。同じく若松監督の『ゆけゆけ二度目の処女』が描く屋上は、「どこにでも行けそうでどこにも行けない」ことを象徴します。
■かくして「ここではないどこか」の不可能性が具体的オブジェに託される一連の作品があります。足立正生監督の映画『銀河系』では、松葉杖や乳母車が「異世界」への扉になり、唐十郎の演劇『犬狼都市』では、新宿の地下鉄が「犬狼都市」への扉になります。
■寺山修司監督『田園に死す』では、渋谷ハチ公前が「津軽」への扉になります。しかし「異世界」も「玄界灘」も「犬狼都市」も「津軽」も、地名とは裏腹に現実には存在しない場所です。その意味で、不可能な理想に準拠するロマン主義的表現だと言えるでしょう。

【「ここではないどこか」と「ここの読み替え」の振幅】
■「ここではないどこか」を現にどこかにあると思って探す「政治の時代」が挫折し、「ここではないどこか」はせいぜい心の中にしかないという具合に内面化するのが「アングラの時代」だと言いましたが、これは長くは続かず、76年頃に終わってしまいます。
■それ以降「アングラの時代」は「シャレの時代」に変わります。『ビックリハウス』的なパロディに代表される時代です。両方に共通するのは「ここはツマラナイ」という感受性ですが、「ここではないどこか」から「ここを読み替えよう」に変わることが大切です。
■70年代後半の「シャレの時代」は直ちに79年以降の「オシャレの時代」に変異します。「シャレ」は、読み替えながらも「なーんちゃって!」と諧謔しますが、「オシャレ」は、本気で読み替えてしまいます。私はこれを「ネタからベタへ」と呼んでいます。
■音楽が牽引役を果たします。同時代のカーステレオやウォークマンのブームが契機になります。カーステレオをかけて走れば、中央高速が「中央フリーウェイ」になり、ウォークマンを聴きながら歩けば、東京が「TOKIO(トキオ)」になるというわけです。
■こうした「オシャレな読み替え」の延長線上に80年代を席巻する「ナンパ文化」があります。そして「ナンパ文化」の「コミュニケーション専制主義」から締め出された人たちが、オルタナティブな道として打ち立てたのが、「萌え」につながる「オタク文化」です。
■「ナンパ文化」と「オタク文化」は、70年代後半の「シャレ文化」の段階では、一方では60年代の対抗文化に由来する「カタログによる街の読み替え」を特徴とし、他方では鉄道研や天文研的な「情報の過剰利用」を特徴とする形で、未分化に統合されていました。
■それが、79年以降「シャレからオシャレへ」という「ネタのベタ化」を担う「ナンパ文化」(担うナンパ系)が喧伝されるようになるにつれて、「情報の過剰利用」の作法だけを継承する傍流的な「オタク文化」(担うオタク系)が分出されるようになるわけです。
■とはいえ「オタク文化」では、「情報の過剰利用」を、「シャレからオシャレへ」の流れに見られたように「ここ」をオシャレに読み替えるために使うわけではなく、もう一度「ここではないどこか」に遊ぶために使うのです。私はこれを「異世界」と呼んでいます。
■でも「アングラ文化」における「異世界=ここではないどこか」と違い、実際にはあり得ないという「断念の痛切さ」はありません。居場所の悪い「現実界」を諦めて、埋め合せ的に、居心地良い「異世界」に遊ぶ。その遊びの作法が「情報の過剰利用」なのでした。
■「コミュニケーション専制主義」の現実世界に背を向け、「情報の過剰利用」を通じて妄想世界に遊ぶ(この作法の延長線上に今日の「萌え」があります)。当初そこには「現実界」を楽しめないオタクが「異世界」に向かうとの通念から、オタク差別がありました。
■今日の「萌え」ブームを理解するには、もう一つ、1996年前後のエポックを知らなければなりません。「ナンパ文化」と「オタク文化」の間にあった“階級落差”がこの頃に消滅するのです。双方は、趣味に基づくトライブ(部族)の違いとして、横並びになります。
■当初は、現実を自由に読み替えて──「現実の虚構化」を通じて──現実に乗り出す「ナンパ系」に対し、それができない不自由な連中たちが虚構を現実代わりにして──「虚構の現実化」を通じて──生きる「オタク系」になるのだという、いわば通念がありました。
■この通念は1996年前後に終わります。「現実の虚構化」によって現実界に乗り出す振舞いが、「虚構の現実化」によって異世界に遊ぶ振る舞いに比べて「実りがある」筈だとの感受性が、消えます。「ナンパ系」も「オタク系」も趣味の違いに過ぎなくなくなります。
■私の周囲に象徴的な出来事がありました。90年代後半、私のゼミに所属する男子院生の6割以上がギャルゲーマニアだと判明しました。ギャルゲーとは元々「美少女育成ゲーム」のことで、ソフトの中の架空の少女と関係を深めて行くアドベンチャーゲームの一種です。■驚いた私が「女にモテないからって、ゲームばっかりやってんじゃないよ」と呟いたら、院生が「それはあまりに古い考えですね」と返してきました。彼は「現実の女の子と付き合えないのではなく、ゲームよりも実りがないから付き合わないんです」と言うんです。
■「現実の子とも何人か付き合ったけど、薄い。ゲームの子は現実の子より感情豊かでコミュニケーション能力がある。宮台さんは現実が濃くてゲームは薄いと言うが、逆。濃い体験を与えてくれる子がいるなら現実に乗りだしてやってもいいというのが僕の考えです」
■「オタク系」に限らず、ストリートにいる連中にも、現実の性愛関係に期待を抱かない「性的に薄い連中」が増えます。現実の性愛体験よりも、サーフィンやスケボーが与えてくれる体験の方がずっと濃密だという、以前ならあり得ない比較をするようになります。
■かくして「現実が濃密で虚構は薄い」「虚構は現実の代替物だ」という発想が時代遅れになります。軌を一にして「現実と虚構」という定番の二分法も以前のようには機能しなくなります。90年代末から喧伝される「動機不明な少年犯罪」に象徴されるものです。
■巷間「現実と虚構の区別がつかない若者」という物言いが流布し、原因としてメディアの悪影響が取り沙汰されました。データ的には出鱈目です。正確には「現実と虚構の区別はつくが、取り立てて現実を尊重しなければいけない理由を見出せない」ということです。
■「現実には魅力がないばかりか、尊重するべき理由を見出せない」というのです。私はこれを「脱社会的な感受性」と呼び、そうした感受性を持つ者を「脱社会的存在」と呼びます。犯罪に及ぶ者は極端な例外でも、こうした感受性が若者たちに広く拡がっています。

【「萌え系」と「ラノベ系」の分岐が示す危機】
■正統的なロマン派芸術論によれば、芸術とは「現実から虚構へと旅立ち、虚構から再び現実へと帰還したときに、以前とは現実が違った趣きで感じられるようになる」ものです。ところがロマン派には「貧しい現実への帰還など考える必要がない」との立場もあります。
■多少似た分岐が昨今の「オタク文化」にあります。「萌え系」と「セカイ系」の緩やかな分岐がそうです。「萌え系」のかなりの部分は保守的で、『電車男』に象徴されるように「オタクだって本当は現実を生きたいんだ」という常識的な図式で理解できます。
■ラノベ(ライトノベルズ)と呼ばれる小説の周囲に集う「セカイ系」は違います。彼らは確かに「ここではないどこか」を追求し、その意味で「異世界」に遊ぶオタク文化の正統ですが、その「ここではないどこか」にはもはや人間がおらず、いても壊れています。
■優しさと残酷さを同居させる人間といえば文学の正統的主題ですが、ラノベは似て非なるもの。優しい自分と残酷な自分は解離(disassociation)していて互いに関係ないので葛藤もない。或いはカブト虫を殺すことと人間を殺すことととの間に何の差異も感じない。
■敢えて言えば“人間的であろうとすると──マトモな人間たらんとすると──『電車男』の主人公のような「生きにくい系」になるし、人間的であることの実りも大きくはないのだから、むしろ人間的であるのを放棄することで、ラクになろう”という志向が見えます。
■こうなると、問題は必ずしも「オタク系」に限定されません。三十歳代の私は金髪にブルーコンタクトで女の子を引っ掛けまくり、人から「ナンパ・サイボーグ」と呼ばれたりしましたが、文字通り「感受性が遮断されて」いたので、鬼畜なことも平気で出来ました。
■東浩紀氏が言うように虚構に接する場面でだけ解離的(disassociative)であるなら良いのですが、現実を同じ作法で生き始める者が増えれば反社会的な問題を生じます。しかしこれを社会的な方向に引き戻すことの意義を、社会学は単純には肯定できなくなりました。
■90年代に増えたのは「現実に乗り出してみたけれどツマラナイ」と感じる若者です。「現実に乗り出してみたけれどツマラナイ」のはなぜか。「文化的民度が低いからだ」と論じる立場もあり得ます。だとしても、文化的民度の高低たるや、個人の責任ではありません。
■自分に能力や素養があろうと、相手にも相応の能力や素養がないと濃密なコミュニケーションが出来ないからです。個人の責任ではない理由で現実を楽しめない人たちが、大勢います。それは「臆病だから女性と付き合えない」という問題よりも実はずっと深刻です。
■「臆病だから乗り出せない」なら、個人のスキルアップで何とかなりますが、社会の民度は個人の力ではどうしようもないからです。結局、現実がツマラナイ男の子は、「現実の性愛」から少なくとも精神的に退却し、「虚構の性愛」にコミットするようになります。
■自分にコミットしてくれる同世代の男の子を見出せない女の子は、中年男に向かうようになります。私は過去十五年以上「エロ本」で仕事をし続けている関係でこうした傾向を観察できるのですが、そうした中年男も加齢によって「押し出されて」いきつつあります。
■個人的なスキルアップだけで対処できる事柄には限りがあります。だから現実を実りあるものとして生きるのに必要なリソースを、個人の責任だけで構築することは出来ません。現実を実りあるものとして生き得るには、プラットフォームが必要だ、ということです。
■プラットフォームは社会的形成物。歴史的にリソースを蓄積する以外ありません。人は文化の中で幸せになったり不幸せになったりしますが、文化を個人が作ることはできない相談です。とはいえ、私自身は、プラットフォームを再帰的に構築したいと思っています。
■そのために教育行政や文化行政に働きかけてもいます。さもないと「脱社会的存在」が社会に溢れるというのが公式理由です。でも正直言うとそうした物言いは「まだ」社会的な承認可能性(acceptability)があっても、厳密には正当化可能(justifiable)ではありません。
■私自身、実存的には「脱社会的存在」になることの快楽を知っていますが、その快楽は社会の大半が「社会的存在」によって占められていることを前提にするので、「寄生虫」です。これはマズイと言っておきますが、その物言いも厳密にはjustifiableでありません。
■「社会的見地」から何を言おうと、「実存的見地」において人間が「社会的存在」であることに意味があるのかどうか既に自明でありません。「社会的存在」としての人間を〈人間〉と表記すると、「我々が〈人間〉であり続ける必要があるか」という問いになります。

【人間が〈人間〉であり続ける必要があるか】
■BBCのドキュメンタリー番組が最近、バイオテクノロジーが発達した数十年後の社会を構想しました。バイオテクノロジーを使って遺伝子操作で身体的外形はいかようにも変えられる時代がやって来ます。人間がいまのような形をしている必要がなくなります。
■宇宙空間で働くために、別の惑星上で生きるために、原子炉関連の仕事をするために、もっと環境適応的な形態に改良するために、「これはどうだろう」「あの形はどうだ」と大真面目に議論する。もちろんBBCのドキュメンタリーによくある皮肉なユーモアです。
■とりわけ『攻殻機動隊』TV第二シリーズを知る者は複雑な気持ちになるでしょう。『攻殻』のシリーズは、サイバースペース(コンピュータ・ネットワーク)と、バイオテクノロジーと、ロボット化・サイボーグ化の技術が発達した、近未来の社会を構想しています。
■暗黙のモチーフが、身体の全体を擬体化(サイボーグ化)した元人間と、電脳ハック(マインドコントロール)された人間と、人間化したロボット(タチコマ、原作ではフチコマ)などの間で、どれがいちばん〈人間〉的なのか、どれを守るべきか、という問いです。
■BBCドキュメンタリーはそこに、形がもはや人間とは思えない、遺伝子操作された人間を付け加えます。双方とも「人間が〈人間〉であり続けるとはどういうことか」「人間は〈人間〉であり続ける必要はあるか」という問いを、分かりやすい形で提示しています。
■1952年にクリフォード・D・シマックという米国人が書いた『The City(都市)』というSFを思い出します。このSFは極めて過激で、以上二つの問いに、「〈人間〉はそもそも人間によって構成されなければいけないのか」という問いを付け加えています。
■五十年以上前に今日を見通した慧眼に驚愕しますが、物語はあまりに切ない。二万年後の地球。文明化した犬社会が支配します。平和で戦争がありません。犬社会には、文明化した犬の創造主で、かつて戦争をしまくった、「人間」についての伝説が語り継がれます。
■でも“かくも不完全な「人間」が、「犬」という完全な存在を作れるだろうか(ちなみにこれは、完全な「神」が不完全な世界を作るだろうかというスコラ神学の弁神論の、コロラリーです)”という疑問故に、犬社会の成員大半が伝説の真実性を疑っています。
■伝説の中身が衝撃です。人間は〈人間〉的であるには不完全過ぎる自らを自覚し、生来の〈人間〉性を持つ犬に遺伝子操作を施して地球を譲り、自らは〈人間〉的たらんとする目標を放棄して木星に旅立ち、外形も感受性も異なるアメーバ状の「別の存在」になった。
■それから二万年経って現在の犬社会があるというのです。この話を中学一年生のときに読んで大泣きしました。〈人間〉的なものを追求するなら、人間ではない存在──犬やイルカやロボットなど──に〈人間〉の道を譲り、自らは滅びた方が良いかもしれない……。
■こういう考え方は遺伝子操作技術やロボット技術が発達するほどリアルになります。オウム真理教はこうした発想の一歩手前まで来ました。私が尊敬する無呼吸潜水者ジャック・マイヨールも、〈人間〉性を追求するのならばイルカを友とするほうが良いと考えました。
■原理的な問いが二つあります。第一は、人間を抹殺することは果たして無条件に反〈人間〉的なのか。第二は、擬体化・電脳化した人間、人間化したロボット、知性化した犬やイルカ、ゴースト(魂)を移植した計算機等の、〈人間〉性の優劣を、誰が判断するのか。
■犬社会では不完全な人間にそうした判断が出来る筈がないと思われています。そこがポイントです。そうした線引きは未来永劫、恣意的(arbitral)である他ない。現実に線引きを実行すればその正当性(justifiability)は必然的に底が抜けた(unbounded)ものになります。
■社会学は20世紀末までにそうした認識を手にしました。キーワードは〈生活世界〉life worldです。〈生活世界〉はLebensweltというフッサール現象学の概念に由来し、間主観的(intersubjective)な自明性(self-explanatory characteristic)が支配する領域のことです。
■そこでは何ごとも慣れ親しんだ(accostomed)性質を持ちます。間主観的な自明性を共有する範囲が我々(we-relationship)です。こうした所属感情(belonging feeling)や仲間意識(companion consciousness)があって初めて、本来恣意的な線引きに受容可能性(acceptability)が与えられます。
■逆に言えば〈生活世界〉が空洞化すれば当たり前さが消え、当たり前さの上で支えられていた我々意識も消えます。そうすれば善悪も個人の趣味に限りなく接近します。こうした社会は長続きできません。個人が過剰負担(excessive burden)に耐えられないからです。
■大抵の社会で、必要な便益の大半は〈生活世界〉の自立的相互扶助(おカミを頼らぬ助け合い)で支えられます。〈生活世界〉が空洞化すると相互扶助を支える「善意と自発性」が枯渇し、「役割とマニュアル」が支える〈システム〉から便益を買うしかなくなります。
■〈生活世界〉が〈システム〉に置き換わると個人の選択肢が増えるので、一見「解放」されたように見えます。実際には裏腹に、凡ゆる齟齬や疎外が、個人の選択失敗へと帰責されます。強力なプロテスタンティズム的な宗教性がないと、この負担に耐えられません。
■一般的に言えば、何もかもが個人の選択に供される社会システムは病的です。自明性の地平があるが故に個人が負担免除(burden exemption)される社会こそが健全です。例外は、共同性から剥離した個人を支える、強力で非恣意的な宗教的背骨がある場合に限られます。
■とはいえ社会システム理論の再帰性(reflexibity)概念が示すように、我々の社会にもはや「手つかずの〈生活世界〉」はない。「手つかずの自然」と同じで、「手つかず」に見えるものは「これを残そう」と政治的に合意したもの。法律学でいう不作為(forbearance)です。
■それを踏まえれば『The City(都市)』では、底が抜けた人間が、犬に遺伝子操作して、決して底が抜けない文明的存在を作ったとことになる。人間にとって不作為を含めて恣意的選択に供されるものが、選択以前の自明性となるような存在。それが文明化した犬です。

【気付かれないロボトミー手術の必要性】
■「自然に帰る」営みをラディカルに遂行するには、僕等はそれと同じこと──謂わばロボトミー手術──を自らに施すしかありません。しかし手術を受ける/受けないという選択が主題化されるので、強制なしで大半の人々が手術を受けるということはありえません。
■そこで登場するのが教育です。教育を通じ、先行世代にとって意識的選択であることを、後続世代が疑いえない自明性だと思い込むようにするしかありません。これは動員ファシズムに見えます。でも教育とは原理的にそういうものだから、それは批判になりません。
■教育を語るには社会統制と社会化の区別を知らねばなりません。社会統制は正負のサンクションで人間をコントロールするメカニズム。社会化はその都度のサンクション抜きでも人間が自律的に行動した結果として所期の社会秩序が実現するようにさせるメカニズム。
■つまりフーコーの主体化に相当するのが社会化です。だから社会化の途上では社会統制的なサンクションによる馴致(規律訓練discipline)が必須です。社会化には、人為的メカニズムと非人為的メカニズムとがあります。このうち人為的な社会化が教育に当たります。
■先の「不作為=選択しないという選択(selection of non-selection)」の概念規定で分かる通り、成熟した近代社会では、成育環境をいじるのもいじらないのも政治的決定の出力──持続的政治体験(experience of continuous politics)──であり、両方とも教育です。
■G・H・ミードによれば社会化とは「人は一般にこうするものだ」というイメージの刷り込みです。「一般的他者」「任意の第三者」のイメージを人為的に刷り込む作業が教育の中核です。只の知識伝授とは異なる「教育の教育たる所以」を社会学はそう規定します。
■現実の近代社会の中では、教育の成否は二本の評価軸で測られています。一つは、人格システムに準拠した評価で、「ソレで子供が幸せになれるか否か」です。もう一つは、社会システムに準拠した評価で「ソレで社会的な人材配分を有効になしうるか否か」です。
■この両者を矛盾なく結合すべく、「こうした人生コースを達成すれば幸せになれる」という架空の人生物語を“人は一般にそう思う筈だ”という「一般的他者」イメージの人為的な刷り込みによって、子供はもちろん親や教員にも信じ込ませる作業が行われています。
■従って、教育とは、恣意的な境界線を必然的であるかの如く思い込ませる操縦であり、自明でない事物を自明であるかの如く思い込ませる操縦です。論理的に見て教育は、動員ファシズム──動員による統合(integlation through mobilization)──である他ありません。
■親や教員や一部教育学者のような操縦エージェントは別として、官僚エリートや市民エリートたらんとする者はキレイゴトでなくそれを直視すべきです。教育にはロボトミー手術と機能的な等価性があります。違いは当人が知らないうちに手術を受けさせることです。
■私は自らの映画批評の中で「〈世界〉との接触」と表現しますが、激しい仏道修行や武道修行の如く限界的な自然体験や身体体験を通じて「ただ在ることの凄さへと開かれること」は、再帰化した我々にとって「最後の底(the last bottom)」になる可能性があります。
■でも昔と違い、「ただ在ることの凄さに驚けること」自体、もはや非自明的な体験です。この非自明的で、ありそうもない体験を、年長エリートが巧妙に設計したプログラムを通じて年少者にどう享受させるか。それが私が映画批評をする際の、最大の関心の一つです。
■同じく「不自由の設計」も、私が映画批評をする際の、教育的関心の一つです。不自由から自由へと移行するプロセスでは濃密な体験が生じますが、自由が空気の如き自明性になると「強度(濃密さ)の獲得(acquisition of intensity)」が万人にとって課題になります。
■処方箋として最も強力なのが軍隊体験や戦争体験です。そうした観点から私の大学院ゼミでは韓国人の院生に徴兵制の研究をして貰っています。しかし今日の戦争は、帰結が予測不能・計測不能・補償不能で、ロボトミー手術と同じく副作用が極めて大きいものです。
■ここでも我々は副作用の小さい安全な展開を期するべきです。それもまさに教育のプロセスなのです。前述の通り教育とは人為的社会化です。本来非自明的な境界線を自明であるかの如く思わせる作業です。中でも最も重要な作業が「子供を不自由にすること」です。
■例えば、前述の通り、若い男の子たちの性的退却の背景には、現実の性愛コミュニケーションの希薄さがあります。なぜ現実の性愛に実りがなくなったか。幾つか原因がありますが、インターネット化と結びつくものに絞ると「完全情報化」と「タブーの消滅」です。
■性愛に濃密さをもたらす要素の一つがロマンチシズムです。ロマンチックな性愛には相手を主観的に理想化する過程が不可欠です。それには勘違いや思い込みを許容する「不完全情報」が必要です。ですがインターネットを通じた「完全情報化」はそれを困難にします。
■同じく性愛に濃密さをもたらす要素の一つがタブー侵犯です。タブー侵犯には規範枠組が不可欠です。ですがネットを通じた「そういうことをしている連中もいるのか」という「一般的他者」イメージの刷り込みは、規範枠組の空洞化でタブー侵犯の機会を奪います。
■民俗学によれば「子供は自由にさせ、大人になれば責務を負わせて不自由にする」のが日本的伝統です。欧州的伝統は真逆で「子供は不自由にさせ、大人になれば自己責任で自由にさせる」。日本的伝統が情報化社会の副作用を倍加するように働く点が危惧されます。
■子供時分から情報を過剰摂取する自由が与えられれば、大人になる前に希薄さに苦しみます。「子供時分は不自由で、大人になれば自由にする」欧州的経路を構築しないと、社会から濃密さが消え、参加動機の調達に失敗します。これでは近代社会と両立しません。
■教育を通じて不自由さを人為的に作り出せる可能性は幾らでもあります。ここでやはり問題になるのが線引きの恣意性(arbitrary of boundary)です。補助線を引けば、不自由になると性愛が濃密になるのと同じメカニズムを、サブカルチャーの表現にも見出せます。
■そこでは「貧しく不自由だけど豊かな表現に満ちた社会」と「豊かで自由だけど貧しい表現しかない社会」のどっちが良いかが「究極の選択」になり得ます。表現にとっては主観的な不自由感が重要です。不自由だからこそ、自由に憧れ、表現へと飛翔するからです。
■別に紹介した通り、現に私が話を伺った韓国の有名監督らは、韓国映画界の活力と韓国社会の未成熟(ゆえの不自由感)の間に密接な関係があると語りますが、彼らに先の「究極の問い」を投げると全員が「表現が貧しくても豊かで自由な社会が良い」と答えました。
■日本の監督たちに同じ問いを投げかけると結果は逆になります。さてどの程度の不自由なら許容できるのか。どんな表現を豊かだと見做すのか。線引きを誰がどうやってするのか。「表現」の項に「性愛」を代入しても、問いの有意味さが維持されるのが分かります。

【近代のキレイゴトの内側で解決できるか】
■線引きの合意調達は困難を極めます。例えば携帯電話。この文章の観点からすると携帯電話は悪いツールです。電話というよりモバイルツールで、多くはメールとウェブで使いますが、〈生活世界〉の自立的相互扶助に必要な「同心円的人間関係」を壊すからです。
■「子供部屋の娘が一番親密なのが匿名のおじさん」の如き「匿名的親密さ(anonymous proximity)は緊急避難的には有用ですが、常態化すれば同心円的人間関係の破壊を通じて〈生活世界〉を空洞化させ、子供を〈システム〉にじかに接触させることになります。
■そこでは、相手の大人が処罰されるか否かに関係なく、子供個人に全失敗が帰責されます。これは過剰負担です。大人なら大丈夫でも子供は無理です。だから、性の自己決定権を尊重する売買春合法社会で子供の売買春が禁じられるのと同じ法理で、制約が必要です。
■それとは別に、携帯電話は、手紙や黒電話しかなかった時代の「不自由ゆえの自由」を奪います。例えば「親しき者と待ち合わせて、現に会う」という一事の濃密さを奪います。同じく「知らない者同士が自由に出会える」便益は、出会いそのものの濃密さを奪います。
■だからといって、学校単位であれ自治体単位であれ、携帯電話の使用制約に合意するのは極めて困難です。というのは、既に便益を享受する者が敢えて便益を放棄するのは不可能に近く、しかも人によってどんな便益をどれだけ引き出しているかマチマチだからです。
■ことほどさように、子供に不自由を自明視させる教育プログラムを走らせるには、線引きの恣意性を克服して大人が合意する必要があります。それが極めて困難である以上、子供ならざる大人を対象とした「動員による統合」(教育!)が、論理的に不可欠になります。
■我々の「境界線をめぐる困難」がそこに象徴的に現れています。社会のアノミーを回避するには「底が抜ける」のを阻止する必要があります。とはいえロボトミー手術や戦争遂行の如きが副作用ゆえに無理な話である以上、教育で「底を手当て」するしかありません。
■ところが、既に「底が抜けた」社会では、教育で「底を手当て」しようにも「底の恣意性」で合意プロセスがスタックしてしまいます。日本は既にそうなっています。このアポリアを、近代社会のタテマエ(キレイゴト)の内側で解決できるか否かが問われています。

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