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まず、断っておくが、このような転載を繰り返しているのは、これらの見解が全て正しいといっているわけではなく、ある意味極端な、または常識とかけ離れた一定の見方を掲載することで、なんらかの議論のネタになればと考えているからである。
以下、マルクス主義同志会の「海つばめ」から転載する。
http://www.mcg-j.org/
人口減少と“移民”
ジレンマの日本資本主義
日本の人口が減り始めて大騒ぎになっている。有史以来初めてだというから大変だ(もっとも、“有史”前には急減した時代もあったということだが)。
女性がもっと子供を生める環境を作れとか、子育てに支援を拡大せよとか、外国からの“労働力”の移入を図れとか、あれこれの論議が花盛りである。
しかしどうして人口減を騒ぎ立てなくてはならないのか。無政府主義的発展につっ走る資本主義のもとで、また資本主義がますます世界的に浸透し、拡大するにつれて、今や人類全体も日本人も、すでに地球上に増え過ぎてしまったのではないか、そして何らかの契機による世界戦争や、資源の枯渇や、環境の破壊等々により、人類の破滅さえ云々されているではないか。
とするなら、人口減は歓迎されこそすれ、それを邪悪視し、危機意識を持たなくてはならない理由は何一つないように思われる。
しかし日本のブルジョアたちはひどく危機感に駆られ、大騒ぎするのである、これでは近い将来“労働力”不足が深刻になる、年金制度も危機に陥る、だいいち税金を納める人々がいなくなる、国家総体の力量が低下する等々と。
何というつまらない心配であろうか。年金制度を支える人がいなくなる云々は論外であろう、というのは、人口が減るなら年金をもらう人も少なくなるからである。ただ過渡的、一時的にあれこれの問題が出るかもしれないが、それだけのことであって、そんなことで騒ぎ立てること自体が思慮の欠如を教えている。
ブルジョアたちが騒ぎ立てるのは、ただ資本が自由に、大規模に搾取する“材料”つまり新鮮で弾力性のある“労働力”が少なくなっていくことを恐れるからであり、それが彼らにとって危機として感じられるからにすぎない。
彼らにとっては、アメリカなどはこの点で理想の国である、というのは、中南米などからいくらでも若い、エネルギーのある“労働力”が流入してくるからであり、新しい“搾取材料”にこと欠くことがないように見えるからである。
日本もまたこれまで新鮮な“労働力”確保のために“移民”を受け入れてきたが、その数はすでに数十万という規模にふくれ上がっている(公式の数字によれば、日本で働く外国労働者の数は七十一万人とされており、三百五十万人のドイツや百六十万人のフランスに比べればまだまだだが、それでも世界で第七番目である)。
そして日本で働く外国人労働者の多くは、例えば、「永住権」が取れる日系ブラジル人などであり、彼らだけで三十万、その中の三分の一は、すでに永住ビザを取得している。
“日系”外国人に固執する日本はもちろん笑いものになるしかないが、しかし国家官僚たちはフランスやドイツの例を見よ、とばかり真剣そのものである。民族的“純粋性”、“統一性”を何が何でも守らなくてはならない、というのである。民族主義は外国人労働力の導入に対する一つの決定的な障害であって、資本が新鮮な“労働力”を欲しているからといって、労働者が自由に流入して来るのを認めるわけには行かない、というのである。
ある予測によると、日本がこのままのスピードで人口を減少させて行くなら、二〇五〇年には就業者は四千二百万人になり、今より二千四百万人も少なくなる。そしてこの穴を埋めるには、三千二百万人の移民とその子孫が“必要”だと計算している。
もちろん、こうした“机上の”計算はくだらないものである、というのは、将来のことを、現在“必要な”労働力と比べてみても意味がないからである。総人口が減っていれば、それを支える労働力もまた減っていくのは余りに自明である。
それに“労働力不足”だなどと現在、どうして言えるであろうか。社会的な“必要労働”をまともに担っている人々は、日本の総人口の一体どれほどであろうか。おそらく、一〇%あるいはそれ以下かもしれないのである。社会的な必要労働の一環を担っていない寄生的な人口、あるいはただ資本主義的生産様式においてのみ意義を有し、存在しえているような空虚な“労働”――ここには、軍隊や“秩序”のための仕事についている連中だけでなく、インテリ文化人の大部分をも入れるべきであろう――は余りに多すぎるのである。
我々は、こうした人々を社会的総労働の一部に再組織してのちに始めて、“労働力不足”といったことについて語ることができるであろう。
フランスやイギリス、ドイツなどでは確かに、いわゆる“移民”問題が発生している。“テロ”に参加する人々の多くは、イギリスなどに“移民”してきた人々、つまり資本主義と“民主主義”の社会の落とし子でさえある。移動してきた労働者を、単なる“労働力”としてしか、つまり搾取材料としてしか評価しえない(処遇しえない)、このブルジョア社会の矛盾と非人間的本性が、そこにはもろに現われている。
外国人を受け入れるが、それはただ自らのエゴイズムを(資本のあくことのない搾取欲を)満足させるためだというのだから、こうした“移民”政策が破綻に帰着するのは一つの必然であろう。
大資本は、国外でも国内でも、外国人労働者へと、その搾取をおし広げるのである、つまり国内の外国人労働者の増大は、日本資本の帝国主義的資本への転化を教える一つのメルクマールである。
日本の資本主義は一つの岐路に立っている、すなわちその搾取を世界的に拡大するか、それともますます衰退していくか、どちらかである。もちろん、日本資本が前者の道を歩むことほどに確かなことはない。