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(回答先: 多神教的天皇論とは一体どんな物なのでしょう? 投稿者 如往 日時 2006 年 1 月 28 日 06:02:11)
如往さん、こんにちわ。いやはや、大変な事になってしまいました。とても、ご満足頂ける内容とはならないでしょうが、何とか遣ってみます。
“………張良さんに質問させていただきたく思います。それは、ファンタジーとは無縁の『What is「多神教的天皇論」?』です。………”
先ず、天皇たる存在と天皇論とを区別して考えたいと思います。存在と存在論の区別です。天皇たる存在は、現実の政治の中に、現実の歴史の所産として、かつ、憲法上に規定されたものとして今日我々の前に見出せます。対するに天皇論とは、天皇たる存在を認識することと其の現実的意味を了解することを基にして、そうした有意味な存在に関わる思想形成の営為です。
食事をする時に茶碗と箸を使う私達は、茶碗と箸についての何らかの知識を持ち合わせていますが、かと言って、茶碗と箸についての思想を必ずしも持っている訳ではありません。現実政治における天皇の役割やその意味について知っていることは、そのまま、天皇についての思想を持っている事にはなりません。
こうした区別について、如往さんは疾うにご存知だと思います。こうした区別自体は何でもないことであり、区別された事柄が区別されたまま取り扱われる限り何の問題も起こりません。
しかし思想は、それを抱く人の生活や行為に影響しない訳には行きません。茶碗と箸についての思想を持つ人は、自分の日常使う茶碗と箸について、何らかの自覚的意識を持つことになります。そこに、何らの思想を持たない人とは異なった態度が生じるでしょう。異なる選択、異なる扱い、異なる眼差しです。とは言え、そうした事が茶碗や箸のあり方を変える訳ではありません。存在としての茶碗や箸は、実生活の必要や製作上の技術に応じて、それ自体の条件の中で変遷することになります。
天皇論は、現実政治の議論ではありません。しかし、現実政治に無関係でもありません。天皇に関する思想を持つ者は、そうした思想を持たない人とは違った態度で現実政治に臨む事になるでしょう。とは言え、現実政治がそれ自身の論理を貫徹して行くことに些かの違いもありません。
“………張良さんの言説には【天皇】と国民主権との間にあるべき繋辞が見当たらず、【天皇】が国民主権を支える要と捉えることにも論理的整合性を見出すことができませんし、上記にあるような日本国憲法第一条を拠り処にする論理構成は日本国憲法を牽強付会に理解した、しかもトートロジーと謂わざるを得ないでしょう。………”
如往さんにとっての【天皇】は、存在としての、現実政治の中のものです。私の言説とのすれ違いは、避けられません。
一連のやり取りに於ける私の言動は、天皇に関する限り、現実政治と区別された天皇論としてのものです。後になってこんな区別を持ち出すとは卑怯だと言われかねませんが、如往さんの追及が此処まで及ぶとは思っていなかったのです。
また、私の言い方も曖昧でした。「我々は皆、天皇になるべきではないか」というのは正しくなかったと思います。正しくはこう言うべきでした。「私達一人一人が天皇なのだ。」私達が天皇だからこそ、私達の本質を象徴する存在として、国民統合の象徴として、天皇の地位を定めたのです。存在としての【天皇】は、あくまでも象徴に過ぎません。天皇の本質と言うべきものは私達に属しているのです。ならば其の本質とは何か、それが天皇論のテーマです。
“………ベーシックインカムが日本の破綻状況を如何に緩和し、あるいはどのように国民を救済するのでしょうか。………”
ベーシックインカムは社会保障制度の文脈で論じられているものです。其の導入も、社会保障的観点からなされると考えるのが自然でしょう。経済破綻した日本社会に於いて、生活に困窮する人々の救済というのが最初の姿ではないでしょうか。
それを推進実現する主体として、下層市民を担い手とする市民革命を展望しているところです。そして、其の要求を上層市民が受け入れるのは、ベーシックインカムがセイフティーネットの働きをすることで、産業社会の再編成、文字通りのリストラクチュアリングが急速に進み得るからです。
“………「権力奪取を直接に目指すことがないという意味」からも、張良さんの「想い」は皇道派の心情と限りなく重なっていると思われます。………”
二重権力というのは、既成の権力を倒すことなく、もう一つの権力を樹立する事です。二つの権力の時々の力関係で、個々の問題が処理される状態です。上御一人におすがりする卑屈さと共通する何者もありません。
“………ここに至ると国体の護持のためにはUSの下僕に甘んじることも辞さないといった岡崎久彦氏や日本会議の面々の姿勢とどこが変わるのでしょうか。………”
私の投稿の何処に、国体の護持を意味する内容があったのでしょうか。彼我の力量を測ることなく、無謀な戦を仕掛けて敗北したのがかつての軍部でした。勝つか負けるか二つに一つというのは、ばくち打ちの発想です。北朝鮮には居丈高になりUSには卑屈に仕える人々とは違う積りです。
今やUSは、紛うことなき軍事国家です。何時イラクのような目に合わされるか知れないと思っています。