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前期ロマン派と後期ロマン派の微妙な関係に関連する文章
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=317
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映画『ロード・オブ・ドッグタウン』に、「ニーチェは純粋なのか脆弱なのか」「ワーグナーは不純なのかタフなのか」という、〈世界〉接触者の〈社会〉回帰を巡る問いを見る
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【ソクラテスとソポクレスの頷き合い】
■前回を思い出すべく、ソクラテス(前469〜前399年)とソポクレス(前496〜406年)が「無知の知」に頷き合ったエピソードから始めよう。ギリシア悲劇の確立者として知られるソポクレスは、「世の摂理は人知を越える」ことを繰り返し描いたことで知られよう。
■この場合、摂理によって越えられる人知が「無知」に当たり、「世の摂理は人知を越える」という命題を弁えることが「知」に当たる。要は「知らざることを知る」。彼らは共に、「人知に依存する態度は、決して〈世界〉の未規定性を覆えない」と頷き合ったのだ。
■〈世界〉の未規定性を噴き上げるのが、東方由来の神ディオニソス。このディオニソスに奉納する大祭のために、悲劇の競作がなされた。その競作で24回優勝したのがソポクレス。故に、ギリシア悲劇は〈世界〉の未規定性に翻弄される人間を描くことを目的とする。
■そこに登場する人物は〈社会〉を生きつつも絶えず〈世界〉の未規定性に貫かれている。以前述べた通り、「暗黒の四百年」の教訓を生かすべく、「規定されたもの(超越神やエクリチュール)への依存」を戒めるのがギリシア神話だ。ギリシア悲劇も同じ課題を負った。
■こうしてエクリチュールを批判するソクラテスの姿を、エクリチュールに書き留めたのがプラトン(前427〜347年)だ。そのこと自体の逆説ぶりが象徴するが、彼が著述に乗り出した頃のアテネは、スパルタとの戦いに敗れて(前404年)、混乱を増しつつあった。
■衰退期に入ったアテネ──ひいてはポリス全体──は、〈世界〉の根源的未規定性へと開かれることによるミメーシス(感染)だけでは支えられなくなりつつあった。内発性だけでは、ポリスが成り立たなくなったのだ。内発性に優越する物差しが必要になった──。
■程なくプラトンは「規定されたものへの依存」を批判するソクラテス=ソポクレス的枠組を離脱。イデアや哲人王など敢えて「規定されたもの」を推奨し始める。折しもギリシア悲劇の時代が終り、アリストパネス(前446〜前385年)らギリシア喜劇の幕が開けた。
■そこでは実存的視点(内発性の賞揚)と社会的視点(秩序の賞揚)とが鋭く分岐している。因みに19世紀に、全盛期のアテネ(初期ギリシア)を憧憬するドイツロマン派が登場するが、複雑化した〈社会〉で主体の不安を慰撫する「実存主義」の如き様相を呈している。
■神の被造物として万物となだらかに繋る筈の人間が、神の死(とカントのコペルニクス的転回)によって、「客体の在り方は主体次第」という過剰負荷による分離不安状態に陥ったのが18世紀。19世紀のロマン派は「主体を貫く主体ならざる全体性」で慰撫せんとした。
■即ち、ボオッとしていた人間が突如〈社会〉から合理性(人間的理性)を強いられ始め、その衝撃ゆえに反省性としての主体が生まれたが(フィヒテ)、その結果、それなりに未規定な全体性に貫かれた主体が〈社会〉とどう関わるべきかが、問題として浮上したのだ。
【「ワーグナー&ニーチェ問題」を反復する映画】
■既に実存的視点と社会的視点が分岐した社会で、〈世界〉の根源的未規定性(全体性)に刺し貫かれた者は、〈社会〉(部分性)にどう関わればいいのか。この課題は、後期プラトンから、ドイツロマン派を通じて、今日まで少しも途切れなく引き継がれて来ている。
■後期ロマン派からナチズムに至る流れが、「崇高なる全体性を帯びた精神共同体としての民族国家」という観念を生み出すことで、この課題を短絡的に「解決」したのは知られるが、それを解決にならないものとして退けるならば、課題解決は実存主義化にしかない。
■この実存主義的な課題解決をモチーフとした作品として、キャサリン・ハードウィック監督『ロード・オブ・ドッグタウン』(05)がある。70年代にスケートボードの今日的スタイルを一挙に築き上げた伝説的な若者達の、眩しき日々を描いた、実話ベースの創作だ。
■カリフォルニア州の貧しい街(通称ドッグタウン)。サーフショップ・ゼファーに集うトニー・アルヴァ、ジェイ・アダムズ、ステイシー・ペラルタ。サーフィンは冴えないが、スケボーは自由自在。チーム「Z(ゼファー)ボーイズ」は数々の競技会で圧勝しまくる。
■夏のバカンスで空っぽになった金持ちの家のプールで腕を磨く彼らは「フリースタイルの魔術師」として雑誌の表紙を飾り始める。やがてCF出演の声がかかり、高額の契約金を提示するスポンサーも来る。カネ・カネ・カネの世界を前にZボーイズの対応が割れる。
■大物プロモーターと契約したトニーは街を出て、スポーツカーを乗り回す長者になった。カネのためにパラダイスが破壊されるのに反発したジェイは、全申し出を拒否して街に残った。真面目で《パイレーツじゃない》ステイシーは、逡巡した末に、遅れて企業契約した。
■夢のような十代の日々。彼らは揃って〈世界〉に接触していた。前回のジャック・マイヨールの云う「イルカ人間」の如く。やがて〈社会〉が彼らに引力を及ぼし始める。結果、〈社会〉を「汚れて」生きるトニー、「汚れ」を拒否してピュアに拘るジェイに分岐した。
■両者の狭間で悩む観察者ペラルタが、実は長じて映画の脚本を書いた。四年前にはペラルタ自らが、ドキュメンタリーフィルム『DOGTOWN & Z-BOYS』(01)を監督した。因みにこのフィルムに先立ち、『Relax』誌上で彼らを日本に紹介したのが、私の教え子だ。
■話を戻すと「汚れた」トニーは障害を負って競技生活からリタイアする。「ピュア」なジェイは喰うに困って愚連隊に身を落とす。「迷い」のペラルタだけが順風満帆。だがラストで物語は統合される。あの頃、僕らは揃って〈世界〉に接触していた──という具合に。
■人畜無害なエンディングの是非はともかく、ここには重要なモチーフが提示されている。〈世界〉へと開かれた者が〈社会〉をあくどく生きるのは不純か否か──これである。ロマン派の歴史に詳しい者は、恐らく「ワーグナー&ニーチェ問題」を想起するに違いない。
【純粋なのか脆弱なのか。不純なのかタフなのか】
■ニーチェ(1844〜1900年)は初期ギリシアへのリスペクトに満ちた己れの哲学の、音楽的体現をワーグナー(1813〜1883年)に見出す。〈社会〉を生きつつも絶えず〈世界〉の未規定性に貫かれる在り方だ。故に、処女作『悲劇の誕生』はワーグナーに捧げられた。
■だがバイロイト劇場完成記念祭での『パルジファル』、並びに『ニーベルンゲンの指輪』の試演を見た彼は、大衆迎合に幻滅する。道徳や宗教の既成概念を打ち破る筈のウェーバーが、後期ロマン派と同様「民族」の如き〈社会〉内表象に全体性を見出そうとすることに。
■「真の全体性=〈世界〉の根源的未規定性」をちゃんと知る者であるクセに、「偽の全体性=〈社会〉内事物の崇高性」へとすり替えることを、ニーチェは大衆迎合と呼ぶ。初期ロマン派の資質を持つのに、頽落した後期ロマン派の如く振舞うのが我慢ならなかった。
■これは思想的問題であると同時に実存的問題でもあった。発狂寸前に書かれた『この人を見よ』には、《抜け目ないスレッカラシの輩(ワーグナー)を豊かな人間と混同し、末期的な輩を偉大な人間と混同する、我々の文化の虚偽》と、最大限の侮蔑が書かれている。
■ところが同じ書物でこうも書かれる。《どんなにいかがわしい危険なものでも自分のためになるように転用し、それによって一層強くなり得る強者だから、ワーグナーを生涯最大の恩人と呼ぶ》と。『ワーグナーの場合』でも両義的な心情が分かりやすく吐露される。
■いわく《最小の空間内へと無限の意味と甘美さを押し込める現代最大の細密画家》でありながら《比類なき道化師、最大の身振り狂言師、ドイツ史上最も驚くべき劇場の天才、優れて現代の舞台芸術家》だと。要は「天才の音楽を、俗物が作る」矛盾に苦しんだのだ。
■加えて、二人が共に尊敬するショーペンハウエルに媚びて卑屈な態度をとるワーグナーに、ニーチェが幻滅したというエピソードさえある。さて、ここでニーチェが示す態度は、肯定されるべき「ピュアさ」なのか、否定されるべき「脆弱さ」なのか、いずれだろうか?
■因みに、舞台芸術家は、建築家と同じく、パトロンやスポンサーに媚びて大金を引き出す俗物的な才能なくしては、どんな表現も現実化できない。先に引用したニーチェの言葉に見る通り、ニーチェはそれをよく分かっている。それを踏まえて問いを理解するべきだ。
■我々は、ワーグナーの敢えてする後期ロマン派的な大衆迎合が、ナチスによってベタに利用されたのを知っている。だからニーチェの立場に加担しがちだが、ワーグナーの時代にナチスはいない。それをも踏まえて再度問おう。ニーチェは「ピュア」か「脆弱」か?
■ワーグナーにも問える。〈世界〉の根源的未規定性へと開かれているクセに〈社会〉の汚れに平気で染まるワーグナーは「不純」か「タフ」か? 回答──論理的には、ニーチェは「ピュア」でなく「脆弱」で、ワーグナーは「不純」でなく「タフ」だと言う他はない。
■なぜなら〈世界〉の根源的未規定性へと開かれた者にとっては〈社会〉はグライヒギュルティッヒ(ドイツ語で「どうとでもあり得る」)である筈。ならば〈社会〉で狡猾に振る舞おうが振る舞うまいがグライヒギュルティッヒである筈。ニーチェは何を血迷ったか。
■この「脆弱」は、宗教的に振舞う者が宗教的で、世俗的に振舞う者が世俗的だとする『終わりなき日常を生きろ』(95)で述べた馬鹿げた発想に行き着く。宗教的に振舞う者が実は世俗動機に基づき、世俗的に振舞う者が実は宗教動機に基づくことが十分あり得るのだ。
■「あの頃、僕らは揃って〈世界〉に接触していた」のに、僕は〈社会〉を「汚れて」生きることを選び、君はそんな僕を軽蔑して「汚れ」を拒否して生きることを選んだ。でもどうだい? 今〈社会〉の「汚れ」に翻弄されているのは、むしろ君の方じゃないのかい。(そして現にニーチェは1889年にトリノで発狂した)。
【「三たび山を降り」られなかったニーチェの自死】
■ようやく前回の問いに答える段取りが整った。前回の問いを反復する。ニーチェの言葉を使えば、ソクラテスはディオニソス的なものを尊んだ。即ち〈社会〉へと閉ざされず(=依存せず)、〈世界〉の根源的未規定性へと開かれた(=自立した)実存形式を尊重した。
■我々がそんなソクラテスを知るのはプラトンの記述を通してだが、やがてプラトン自身、ソクラテスが賞揚する初期ギリシア的なものから決別し始めた。〈世界〉との接触が与えるミメーシスという内発性だけでは、現にある〈社会〉の秩序を支えられないからだった。
■さて、師ソクラテスを尊崇しつつ、〈社会〉の存続のために師の嫌った「超越」──万物を支配するもの──を持ち出すプラトンは、大衆迎合的な俗物か? 〈社会〉の、他者達の、存続を願うことそれ自体、〈世界〉との接触が与える内発性に由来するならどうか?
■更に言えば、共同体的なプロクシミティ(近接性)が失われた過剰流動的な昨今の社会。我々は〈社会〉をも〈世界〉をも、エクリチュール(書かれたもの)なくして想像することができない。〈世界〉と接触するためのセットアップも言語的になされる以外ないのだ。
■故に前回のラストでこう問うた。《我々はもはや「他者(〈社会〉)を通じてしか〈世界〉を想像できない」が、むしろその事実をこそ圧倒的に意欲し得るのではないか? そこでは「『言葉を越えた生々しいもの』という言葉」をこそ「再帰的」に肯定できないか?
■答えは明らかだ。「〈世界〉と接触する僕は、現にある〈社会〉の存在を奇跡だと感じる。だから現にある〈社会〉の存続に向けて動機づけられる。それが必然的ではないのは百も承知だ。だから僕は〈世界〉と接触しつつ、徹底的に〈社会〉を汚れて生きる」──。
■ところが、皮肉にも、こうした回答自体、既にニーチェ──とりわけ『ツァラツストラはかく語りき』(1883年)の「三たび山を降りる」の比喩──において語られている。〈世界〉接触者が〈社会〉の汚れにまみれて良いどころか、むしろ強力に推奨されているのだ。
■即ちニーチェは〈社会〉まみれの実践者ワーグナーを肯定する理論枠組を保有していた。だが、ニーチェ自身は単なる理論者だった。ディオニソス的なものを賞揚するニーチェは、しかし〈社会〉をディオニソス的に生きる者を見てシュリンクした。実践者たり得なかった。
■だからワーグナーを羨み、かつ疎ましがった。そして、そんな自分を、最大限嫌悪した。こうした哲学史を踏まえつつ、次回はパク・チャヌクの復讐三部作を切り口に、〈社会〉におけるディオニソス性──悪趣味──をめぐる表現史を、ソポクレスに遡って一瞥する。
【以下次号】