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菊と刀の弁証法
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投稿者 デラシネ 日時 2005 年 11 月 04 日 07:44:18: uiUTTMWMO8Vq6
 

http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/Kiku.htm

― 批判理論の方法による日本人論の試み ―

今 本 秀 爾


一 個人の意識に問うべき帰責問題としての集団病理

90年代に起きた日本におけるさまざまな社会的病理現象の数々 ― 薬害エイズ事件、オウム真理教事件、阪神・淡路大震災の被害、大手ゼネコン問題、相次ぐ大手銀行・証券会社の不祥事、総会屋問題、行政改革の難航、暴力団抗争、政治家のスキャンダル、学校での「いじめ」と体罰問題、「冤罪」問題、マスコミの報道体質をめぐる問題、未成年による凶悪犯罪の急増といったもの ― によって、政治・経済・通信・教育・治安などのあらゆる分野において、日本の社会システムの体質や構造が行きづまり、もはや限界に達していることが誰の目にも最早疑いないところとなった。

しかしながら、こうした一連の社会病理はすべて、首尾一貫して共通する実に明確な日本人固有の特徴に基づいていることが指摘できる。これまでそれは主に日本人の集団心理や行動様式についての文化論的な指摘が中心であり、大別すれば中根千枝の『タテ社会の人間関係』に代表される社会集団論的な構造分析か、あるいは土居健郎の『甘えの構造』にみられるような心理学的アプローチによるものが中心を占めていた。 だが社会構造ないしシステム的欠陥にすべての問題の帰責を負わせるのは、われわれ個人の自己責任を目に見えない抽象的な「システム」という概念に転嫁させることによって、かえって真摯な問題解決への努力をなおざりにさせるという懸念を免れえない。

21世紀を迎えるに当たって、われわれはむしろそうした病理を、日本人各個人の意識のあり方、価値観の歪みに帰するべき責任問題として、それぞれが日常生活の中で反省し、身に覚えのある自分の行動なり考え方を自ら律し改めるという方向で徹底化させねばならない。そこで今回は、とりわけドイツのフランクフルト学派が主唱した社会批判の方法論的モデルである、アドルノの否定的弁証法の論理を借用して、日本人のこの病理意識の特徴的原理とその問題点を分析し、それに代わるべき枠組みを提出するべく話をすすめることにしたい。この否定的弁証法とは端的にいえば、けっして同一性へと止揚され肯定的に結論づけることなく、仮借なき非同一性すなわちアンチテーゼの提示を繰り返すことによって、 問題の輪郭をできるかぎり客観的かつ鮮明に描き出そうとする試みである。

二 日本人の病理意識の批判的考察

(a)集団的エゴイズムの専制

日本人論や日本文化に関する議論がなされるとき、きまって日本人の集団主義的性格が問題とされ、「日本人には「個」の意識が確立していない」という議論がよく聞かれる。しかし現実にわれわれ自身の日常行動を考えれば、けっしてそうとはいえない。いったん会社や帰属のサークルを離れ、個人や気の合った仲間同士になれば、われわれは大抵他人の不利益や迷惑を顧みず勝手気ままに行動している。ところがいったん自分が特定の帰属集団に置かれるや否や、突如意識や態度が優等性的に豹変するのが普通である。しかしこれはどちらもエゴイズムの変形であることが明らかである。いわば前者は個人としてのエゴをむき出しにしている態度であり、後者は集団(組織)としてのエゴを代表しようとする態度にほかならないからである。

この2つのエゴイズムは、ともに日本人各人の「自分の身に危害が及ぶことを極度に恐れる」という被害者意識(ウォルフレン、土居健郎)に根ざすものである。個人は実質生活の上では現実的にそれぞれ切り離され独立しているが、日本人の意識には、精神的に孤立することが極度の不安と恐怖を引き起こすという精神状態が未だ顕著に存在しつづけているために、たとえば「酒盛り」「宴会」や「派閥作り」などが、合理的な議論ではなく精神的な連帯意識形成の場として必要とされる。しかしながらその結果、日本人は自己責任を極端に回避し、自己決定や自己決断を行う機会をことごとく避けることに専念してきた。そのために対外的には、つまり自分の帰属する集団の外部にいる人間に対しては、極めて遠慮深いよそよそしい態度をとることによって、相互干渉を遠ざける独自の観念ないし不文律(暗黙のルール)が発達し、ホンネとタテマエを意図的に区別する慣習が定着した。

だがその結果、二つの悪しき傾向が日本人の価値観として定着するに至った。
その一つは、自分の帰属集団ないしグループの外部に位置する人々ないし集団に対する徹底的な無関心ないしは無知という欠陥である。無関心や無知は、必然的に無責任や無感動を生み出すから、外部は徹底した外部環境、いわば関心外のどうでもよい未知の世界として、自由に想像される。帰属集団の精神的な連帯が強固であればあるほど、集団はセクト化し、固有のイデオロギーに支配され、異質な性格をもつ他者の受け入れを拒絶し、ますます自己閉鎖的な環境を形成することで、外部環境に対してウィルス的な自己増殖的活動を展開するようになる。

二点目は、あらゆる既成の不文律ないし社会通念が、公正さの原理に成り代わって、社会における万人がしたがうべき道徳的基準としてまかり通ってしまうことである。それは「道理」ないしは「大人(社会人)としての常識」といった名目のもとに正当化されているか、あるいは各人が何の疑いを抱くことなく、無意識の中に従っている当のものである。だがそこに存在しているのは、正義よりも集団内部の不利益を避けることを善とするべく強制される、抑圧的な道徳意識である。そこでは、たとえば集団の不文律に合わない個人の自発的言動は「裏切り行為」というレッテルを貼られることによって非難されるか、「老婆心からの忠告」によって事前に阻止される。 それゆえ組織内においていったん事が起きると、その当事者は問題を自分の手の内に抱え込み、外部に秘密が漏れないようにしようと隠し事を重ねつづけ、その結果罪が二重にも三重にも膨らんで、結局自暴自棄に至るという壊滅パターンを限りなく繰り返している。

(b)「同質化」の論理

その一方で、同属の集団内部においては、より権力のもつ人間の弱者に対する公私混同は平然とまかり通っている。「人権」という観念は西洋のオリジナルであり、あらゆる個人への集団的・権力的な暴力に対する個人の自由の保障を擁護する権利を指すものであるが、日本人のなかにはそれが意識としてすら定着していない。「人権」はあらゆる組織内でないがしろにされている。この人権概念に対して強調される共通の自明の観念が「人間みな平等である」という誤った平等主義に根ざす人間の個性の同質化の強要である。この同質化は、特定の集団内における協調性という名目において、個人の自由な思考や活動の自由を強制的に抑制する。しかも個人の内では他人には自分との平等を強要しようとする意識が自然と働く。これが集団での行動となると、とくに威力を発揮する。個人は無意識のうちに集団心理に訴えて、特定の個人を仲間外れとすることで心理的に追いつめ、相手の行動を抑制する傾向が顕著になる。それはプラスとマイナスの点で、二重に個人の言動を強制している。プラスの場合は、個人が独自の手腕や才能を自発的に発揮しようとする局面で生ずる。集団内においては、それは「ひとりよがり」「独善排他的」であると非難され、やめるように強制される。 マイナスの場合は、個人の犯した過ちや失敗はいかなる理由があっても厳しく咎められ、個人一人がすべての責任を負わされる、といった顕著な傾向である。「出る杭は打たれる」「郷に入れば郷に従え」「長いものに巻かれろ」といった数々の格言のとおり、日本のあらゆる組識なりグループ内においては、個人の異質な独自の考え方を主張したり、それに基づいて行動することの自由は極めてゼロに近い。場の雰囲気を乱すことは自戒させられるし、それでなくとも、存在感それ自体が異質な雰囲気を醸し出す個人に対し、「いじめ」のように集団による心理的な制裁が加えられる。こうした態度は、自分の身近に存在する他人の能力やバイタリティに対する過剰な「嫉妬(ルサンチマン)」の感情に基づいている。それゆえ「恥の文化」(ベネディクト)というよりは、日本人の固有の性格を「嫉妬の文化」と特徴づけたほうが、ここではその本質をむしろ明らかにすることができる。

(c)依存型コミュニケーションの強要

自らの力で判断・行動でき、誰の強制にもよらず意見を述べることのできる個人が前提となっているリベラルな社会の価値観においては、自己責任や自己決断に基づく行動が取れない人間こそが未成熟で大人げないとみなされるのだが、日本人の既成組織においては、その正反対にいたるところで上司やリーダーに判断を仰ぎ、司令や命令に忠実に従い実行することが、大人=社会人として一人前であるとみなされ、「信頼の置ける人間である」ことの前提条件としてコンセンサスが成立している。だがその結果、組織における既成のルールやシステムのあり方、コミュニケーションや職務遂行に疑問を投げかけ、改善すべく働きかけるための、個人の批判的意見が述べられる余地が皆無となるか、強制的に抑止されるにとどまる。こうした課題ないし職務遂行上の人間関係のルールにおける無批判的性格の強要は、「甘え」の心理(土居健郎)として指摘されるところの、未成熟な人間関係ないしは依存型コミュニケーションのあり方に端を発している。 ここで依存的と述べたのは、独立した個人が相互に依存的な関係を築くようなコミュニケーション形態とはまったく正反対の、より権力を行使できる側が、権力に従う側に対して一方的な依存関係を強いるという、一種の人権抑圧的な行為に根ざす強制的なコミュニケーション形態のことを指している。

三 日本人の意識変革に向けて ― 哲学的提言

ならばいったい、日本人のこのような病理的意識はいかにして変革可能なのだろうか。
それはたとえば集団的エゴイズムに対しては、個人の自己判断と自己責任に基づく自主的な行動を奨励し、誰のいかなる強制にもよらず、個人の行動のすべてに対して当人自身のみが前もって責任を引き受けようとする態度なり価値観を習慣化させる必要がある。同様に、異文化共存、マルチカルチュアリズムに関する議論が盛んになってきている今日、「集団いじめ」「個人差別」を本気でなくすためには、同質化の論理に対して個人の固有性・異質性を尊重し、互いにその価値を認め合い、知的な関心を向けるという「異質化」の論理が優先されねばならない。

さらに本質的な問題は、依存型コミュニケーションの根本的改革である。依存型コミュニケーションの総合的特徴とは、(1)合意を前提にして行われること、(2)批判や反論しないこと=人間の信頼性につながるという点、(3)正義や公正さの観念が欠如しており、 合理的な論拠に照らして意見や主張が承認されにくい点、といった点に見い出され、なかでも第3点目はその最も本質的な要因をなしている。個人間相互の日常的コミュニケーションにおいてでさえ、相手に対する感情的な要素が支配しており、話の内容や議論そのものの論理的展開それ自体を楽しむといった知的関心は皆無に近い。西欧人のコミュニケーションの基盤に存在する、この知的議論への関心は、次章で述べるように、自分(の意見)と相手(の意見)の他に、第3項である話題そのものの客観性・中立性が確保され、相互がそれに向けて互いの意見を吟味し合うといった習慣的性向に根ざしている。ところが日本人はそれが欠如しているために、問題自体である第3項の客観性は考慮されず、自分と相手の意見の正当性をめぐって感情的なやりとりが延々と継続されるだけで、合理的な論拠に照らして合意に至ることがほとんどない。合意は「一方の側の妥協」か「談合による満場一致」という形でのみ相互依存的に成立する。この第3項排除の意識構造が、日本人のコミュニケーションのあり方において致命的な欠陥となっているのである。
自分と相手との間に第3項的要素が存在しない場合、常に対話は2次元的レベルでやりとりされるため、相互の意見の上に新たな未知の結論や合意は成立しえない。そこではいわゆる水平的思考のみが支配し、一方か他方かの選択の余地しか想定されなくなる。倫理的問題ですら根拠が問われることなく「けんか両成敗」で決着させられるか、2人の間で正否が二者択一式に決められ、第3項である正義の基準が同等の価値をもって介入し、それに基づいて事態が公平に処理される可能性が極力締め出されるのである。 だがそれは、本質的に第3項としての超越的な基準(物自体、イデア、普遍的真理)をめざす垂直的な思考を築いてこなかった、日本人の「形而上学の不在ないし欠如」という伝統的な思考的欠陥に由来するのではないだろうか。
これに対して西欧哲学の伝統的なロゴス、弁証法的思考というものは、たとえば今日もディベートやディスカッションのような形で受け継がれてきている。日本の社会システムの根本的改革を提唱するのであれば、まずはこうした日本人に趨勢であるロジックの転換を徹底化させることによって、正義を基準とした人間関係や対話の実現から始めなければならないだろう。「啓蒙教育」はすでに古い言葉になってしまったが、今多くの日本人にとって真に必要なものは、まさに西欧的な意味での「哲学的啓蒙」であるといえないであろうか。

[参考文献・論文一覧]
・関曠野「なぜ日本は変わらないか ― ウォルフレンの日本権力論が提起したもの」 同編『ウォルフレンを読む』(1996年、窓社)所収
・井上達夫「天皇制を問う視角 ― 民主主義の限界とリベラリズム」
・井上・名和田・桂木編『共生への冒険』(1992年、毎日新聞社)所収
・R.ベネディクト/長谷川松治訳『菊と刀』(1972年、社会思想社)
・土居健郎『甘えの構造』(第3版、1991年、岩波書店)
・K.v.ウォルフレン/篠原勝訳『人間を幸福にしない日本というシステム』 (1994年、毎日新聞社)
・フランシス・フクヤマ/渡辺昇一訳『歴史の終わり 下』(1992年、三笠書房)

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