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(回答先: Re: 興味深い“コミュニケーション” 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 10 月 31 日 01:38:44)
http://www.phenomenology-japan.com/
上記サイトの“現象学の刷新をめざして”を読んでいて、西氏と竹田氏のこんなやりとり。
竹田 いつも言ってることなんだけど、わたしの場合は、まず民族問題というのがあった。
そこでは「同化」か「民族」かだとか、「北」か「南」か……昔は北支持と韓国支持というのがはっきり分かれていたのだけれど……
「社会主義」か「民主主義」かというように、二つの対立する考えが強固に主張し合って、お互いに一歩も譲らない。
それからまた、大学ではいろいろな政治セクトがあって、みんな色とりどりのヘルメットをかぶって、それぞれ自分のセクトの考え方がもっとも正しくて、あとはひどく間違っていると主張し合っていた。
しかも、ただ間違っているというだけではなく、「ヤツらは反革命で、殲滅しなければならない」というようなことをビラに書いて配っているんですね。
でも、実際に書いてある内容を読みくらべてみると、どこが違うんだかほとんどわからない。
不思議だったのは、二十歳そこそこの学生が、たまたま自分にやってきた考えを強く信じて、他の人間の考えを徹底的に間違っていると、強固に思い込んでいることでしたね。
(中略)
要するに、すべての人間が大なり小なり自分の考えこそ正しい、と考えて生きている。
そして、そんな具合に、それぞれの考えがせめぎあっているということ自体が世界のありようだ。
主観そのものから抜け出して客観的たろうとしても、絶対的な客観の立場ということはありえない。
独我論を抜け出るために、客観的なものを外側に想定して、そこに身を置くような考えは無効としか言えない。
それぞれが自分の主観の中で世界を構成しているということ、またそこから絶対的に抜け出ることができるような立場はありえない、ということを前提として、それぞれの主観が、互いの共通了解を生じさせるその原理はないだろうか。
それがあれば、そこから間主観的な共通了解の可能性の原理も出てくる。
現象学はそういう考えであって、思考の歴史のなかでまったくユニークなものですね。
それからまた、そういう考えだけが、いわゆる「客観性」という局面が成立していることの理由を、とてもよく説明する。
現象学が提示しているのは、そういう主観―客観という概念についての本質的な構造の解明ですね。
でも、現象学が認識問題をそういう構造の解明によって解いたということも、ほとんど言われてこなかったし、いまもそんな風には理解されていないんですね。
西 いまの話を聞いているうちに思い出したんだけれども、ぼくも学生時代、左翼の人たちが言うような、社会のさまざまな不正や矛盾を正したい、正しい世の中にしたいという考えに惹かれていたんです。
進歩的知識人の一人になりたいなあと漠然と思っていた。
でもだんだんと、「左翼の人たちは、現実に世の中をよくするというよりも、自分が正義の人だということを主張したいがためにいろいろなことを主張したり運動したりしているだけではないか」というような思いがやってきた。
(中略)
いまの竹田さんの話にも似ているんですけど、「社会」というものは結局は「触れられない」ものですよね。
あの人はこのように天下国家を語る。こちらの左翼の人は世界はこうなっているものだと語る。さらに向こうの人は社会はこうあるべきだというようなことを語っている。
そして、それぞれが自分の意見の正しさを主張し合っている。でも、だれも「社会という客観」に直接触ることなどできはしない。
だとするならば、それぞれが好き勝手に言っているだけだ、という結論になってくる。
それで、もう自分は社会について語るのは一切やめた、という気分になっていた時期があります。
(後略)
武田 「主観」と「客観」はどうすれば一致するのかという「認識問題」が哲学ではずっと続いてきた。
近代哲学では、デカルトからヘーゲルまで。これが近代哲学の中心問題だった。
ニーチェは、これをはじめて「力の思想」として、わたしの言葉では「欲望相関的」な構図で考えようとした。
しかし時間が足りずに全体としては絶対主義の相対化という側面を強く押し出したまま終わってしまった。
ポストモダン思想はニーチェのそこに強くインスパイアされたんですね。ヘーゲル→ニーチェ→ポストモダン思想および分析哲学は、認識論における現代思想の主流です。
ところがフッサールは、「主観」「客観」という分割の理由それ自体をもう一度問い直した。
認識論的には、あらゆる世界像は実存的「主観」の中で現れる。しかしここにすでに、世界の主観的な像と客観的な像が二重に含まれている。
あとは、それらがときに対立的に現れるその理由を解明すればいい。
そういうことをはっきり示している。
この言い方を理解したときに、わたしは「認識問題」はこれでもう解けた、「認識問題」はもう終わったと思ったんですね。
現代哲学では、この認識論の難問をまだ延々続けているけどね。
そういうことを少しずつ主張してきたんだけど、まあ、言い方が悪いのか、あるいはわたしが根本的に間違っているのかのどちらかで(笑)、なかなか簡単にはいかない。
どんなふうに言えばうまく通っていくかまだ試行錯誤中という感じなんですが……
(後略)
まあ、ほんの一部の抜粋なんで、全体通して読んでもらわんと正確な意味は把握できないだろうけど、現象学では「認識」について、こんな見方をしているんだと・・。
小生としてはまず個々人それぞれを「小さなパラダイム」と位置づけ、「認識」の違いは“パラダイム同士の衝突”であり、クーンの言及するところの“通約不可能”がここにも存在するのであろうと理解していた。
また日常の現場においては度々言及している「外的コントロール」でもって、相手を力と策略でもって捻じ伏せてやろうとする心理に支配されてしまう。
たぶんそれも間違いではないのだろうが、現象学で言う“主観―客観という概念についての本質的な構造の解明”という視点は極めて(小生にとって)新鮮であった。
“間主観的な共通了解の可能性の原理”という概念も面白い。
では具体的にどういうことなのかを問われても困るが。(爆)
話が大幅に脱線した。
話をもとに戻して、実はこれまた奇妙な話だと小生が思ったことは、例えば小生とたけ(tk)さんなどはお互い同じようなフイールドに興味があっても、それじゃあってんで言語化レベルにおける対話を試みると、完璧にお互い“通約不可能”だということがわかるだろう。
完璧というのも、ちょっと言いすぎだろうが。
興味のあるフイールドを同じくしている我々は、絶対にどこかで“共通了解”に至れる筈なんだけどね・・。
翻ってあっしらさん。
あっしらさんは政治・経済についての膨大な知識と深い洞察力をお持ちで、またご自身の理論をほぼ完璧に(ご自身の中で)統合されているようだ。
それで小生、政治・経済については全くの音痴で、そもそも興味すらなく勉強もしたことないのだけれど(爆)、なぜか不思議とあっしらさんの展開されている難解な説明が多少なりとも理解できてしまう。
もちろんこの「理解」は言語化以前の理解であって、それでは自分が理解したところのものを言語化してみろと言われても到底不可能なのだが、やはり「理解できたものは理解できた」としか表現しようがない。
このへんの感覚というのは、例えば語学の勉強の為に外国へ留学し、そこで言葉のシャワーを浴びたことのある人だったらわかるのではなかろうか。
だいたい6ヶ月くらいたった頃、突然そこの言葉が“なんとなくわかるようになる”感覚に似ている。
この、「なんで政治経済の知識のない俺にわかるんだろう?」を真剣に考えてみて、最終的に到達した仮説が「文脈」だ。
また、改めて「メディア・リテラシー」というものを考察してみると、やはりそこには「文脈」という概念がデンと横たわっている。
文脈というのは人の思想の底を流れる地下水脈、堂々たる大河ではなかろうか。
また相互のコミュニケーション、共通了解というものも、この水脈において成されるのではないかと思った次第。
で、「だから何なんだ!」と問われても、「 いや別に・・(^^; 」としか言いようがない。(爆)
ただ、あまたの「不毛」とも思える議論を前に、その不毛さの所在というか、「共通了解に至らない、そもそもの問題点」をちょっと確認したかったのみ。
まァぶっちゃけた話、もちろん俺自身も含めて、我々ってホンマ救い難いアホっすね。
口では「戦争反対!」などと叫んではいても、日常においてちょっと人と意見が食い違えば、途端に顔中口にして怒鳴りだしたりする。
戦争ってのはこのず〜〜〜〜っと先の延長線上にあるんだけど、人々が日常におけるオノレの「小さい怒り」すらもコントロールできなくて、なんで人類レベルの巨大な怒りたる「戦争」を抑止できようものか。
きっとガンジーさんなんかは、そのへんのことがわかっていたのではなかろうか。
・・・と、まあ、お後がよろしいようで。
たけ(tk)さんには、小生の戯言におつきあいいただいて感謝。
今後ともいろいろご教授くだされ。m(_ _)m