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(回答先: 「生きる意味について」・・あっしらさんとBBマークさんの対話についての雑感 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 10 月 30 日 04:17:20)
>たぶん、BBマークさんは、科学的思考に冒されているのだろう。
俺はたけ(tk)さんが、これを読む限りでは仏教的思考に冒されているとのではないかと思っております。いや、仏教的思考ではなく、信仰的(宗教的)思考でした。
『ブッダも「これは苦しみである。これは苦しみの原因である」と唱えよと言っている。』
『「南無阿弥陀仏(阿弥陀さん、頼んまっせ)」と唱えればOKなのだそうです。』
『それはよろしくない。ちゃんとした仏教の本でも読みましょう。』
なんかは、まさしく、そう。
そして、なぜ俺が科学的思考に冒されているのかの、説明にもなっていません。
「なぜ?」と問うのは哲学にも禅にも見られますが。
また、『「生命が存在すること」を前提にして』いるからというのが理由でしたら、議論などしないほうがいいです。思考や言葉は存在の中にあるものだから。
さらに言うなら、俺は「生命は存在はしているが、それは実在ではないのだろうな」とは思っております。
>(1)「今が楽しくない」という状況から抜けるには、「楽しくない状況」という外部的
>な原因を徹底的に認識することが一つの方法だろう。パンドラの箱から楽しくない原因
>をすべて放り投げてしまえば、希望が見えてくるかもしれない。ブッダも「これは苦し
>みである。これは苦しみの原因である」と唱えよと言っている。
「楽しくない状況」という外部的な原因を徹底的に認識するなら、「楽しい状況」というのも、外部的な原因を徹底的に認識することはしないのですか?パンドラの箱から楽しくない原因をすべて放り投げるなら、希望や「楽しい状況」も全て放り投げますよ、俺は。盲目的には、“生きよう”としてはいないんでね。
また、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』と唱えよと言っている。』って、その言葉自体を唱えることが求められているわけではないし、また「苦しみ」の原因を見極めて、「苦」を「楽」にしろということでもないと思います。
原始仏教を読めというあなたは、釈迦の言う「苦諦(くたい)」の意味を理解できていますか?
>(2)自分の身体の中には「生きる意味」を知っているモノがあるので、それに尋ねて
>みるのもよい。たけ(tk)はそれを《息しつつあるモノ》と呼んでいる。
そうですか、色々と名付けて見て下さい。
で、あなたは尋ねた結果、どういう「生きる意味」を教えてもらいましたか?そして、なぜそのように生きなければならないかを考えましたか?
(まあ、その答えに、今はあまり興味もありませんが・・・。)
また、あなたは“それ”を理解できていそうで、何の理解にも至っていないと俺は思っています。
>(3)「人事を尽くして天命を待つ」というコトバを、たけ(tk)は、(a)自分が勝手に「生
>きる意味」を決めて、何かやってみる、(b)何かやると状況のほうから反応がある。(c)
>その反応の中から次にやるべき天命が見えてくる。というように理解しています。
そう、そうしてあなたはひたすら動き回って“生きて”いくことになるでしょう。「これは天命だ!」「次も天命だ!」と叫んで。
>「認識限界がある」ということを知る必要があると思います。
知っていますよ。
>あっしらさんのいう「我が身(身体)を含めた自己」についてはまだ、適切な用語が見
>つかっていないのですが、「他者との相対関係における我が身(身体)を含めた全体性と
>しての自己」を《私》という《》付きの用語で呼んでいます。
それは、ただの“自己同一化”現象ですよ。まあ、どうとでも名付けてもらってもいいですが。
>何故自分が「生きているという確信」を持ちたいのか、その原因を探ってみてはいかがでしょうか?
>また『生きているという確信』のイメージとはどんなものであるのか、明確にしてみて
>はいかがでしょうか?
これを書いているあなたはどうなのですか?
>これは、あっしらさんのふざけ過ぎ。達観しているヒトが「達観する必要もない」と言っても説得力がない。
あなたの理解レベルでなら、そう思っても仕方はありません。
>それはよろしくない。ちゃんとした仏教の本でも読みましょう。できるだけ生身のブッ
>ダの言葉に近いもの、原始仏典がよろしいでしょう。
それはどういう意図で言っているのでしょうか?
原始仏典を読んで「死後の世界や、輪廻転生」が素晴らしいものだと知れ!という意味なのか?「死後の世界や、輪廻転生」からとっとと脱出しろ!という意味なのか?「死後の世界や、輪廻転生」を知って「生きる意味」を見出せ!という意味なのか?
>人間は達観するのは無理だ、というのが他力本願の達観です。阿弥陀仏は「すべてのヒ>トをブッダ並みにする」という本願を成就したので、「南無阿弥陀仏(阿弥陀さん、頼ん>まっせ)」と唱えればOKなのだそうです。
大乗仏教でしょ。キリスト教の「信ずるものは救われん」にも似て、とにかく信仰的な解釈だと俺は思っております。
で、何回唱えればブッダ並になるんでしたっけ。(笑)
>「楽観的にこの状況を受け入れ」る必要は全くないでしょう。「この状況」というのが自
>分の思いこみに過ぎないのではないかと疑ってみましょう。
あなたは、あまりにも上っ面過ぎて・・・、まだ正直な自分の感覚を口にするあっしらさんの方が、好感が持て、そして説得力もでるというものだと俺は思います。
>たけ(tk)はあまり死を恐怖することがないです。
“死”を想像できないだけか、盲目的になっているだけか、ただ死後の世界に期待しているだけか、仏教等で「死を怖がるでない」と言われ、格好付けて書いているだけなのではないですか?
>「思念できなくなる状況」は毎晩眠ったときにはそうなっているし・・
ただ眠っている時の記憶が、ないだけでしょ。
>自分が死んでも誰かの記憶には残っているだろう(記憶されるのは、じつは、あまりい
>い気分はしないのだが・・)。
>自分が身近な死者たちの記憶をたどるとき、記憶の中の死者たちは彼ら自身の死を恐れ
>ているようには感じない。
>たぶん、自分も死んだ後に、他者の記憶の中で暖かく彼らを見守ることができるのでは
>ないか、と感じているからです。(これは、日本の民俗宗教の祖霊観)。
記憶なんて、一時的なはかないものです。
また、その記憶に拘っているものが、死を恐れていないとは思えませんが・・・。