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(回答先: 単純に考えれば良いのです。 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 10 月 28 日 22:53:24)
「新自由主義」といい「ポスト・モダン」といい「生活世界」といい、あなたは、その内容をきちんと定義しないまま自分の気分で言葉を使っているだけです。
>「あっしら」さんは、無理に、小難しい理屈を捏ねて、「彼ら」が登場する蜃気楼のよ>うな議論をされますが、これこそ、ポスト・モダンが嫌う「壮大な装置の幻影」です。
この間のやり取りでは、“彼ら”はまったく対象になっていません。
あなたの説明内容を問題視ししているだけです。
そうであるのに、このようなスリカエを行うことでもわかるあなたの思考力は、他の投稿者や“国民”を馬鹿呼ばわりしたり愚民視できるほどのものではないでしょと揶揄しているのです。
しかし、ここを確認すればわかるはずと対応したにもかかわらず、あなたがさらに説明を求めてきたのでわざわざ説明したのに、「無理に、小難しい理屈を捏ねて」とは、あなたの心性を見事に現すものですね。
“彼ら”の話はまったく無関係で、あなたが固有名詞とともに提示した内容が間違っていることを説明したものですよ。
古典派・マルクス・ケインズ・新古典派のどれが正しいとかどれが好きかという話ではなく、それぞれの理論が、どのような価値観を基礎とし、どのような経済社会像を描き、その経済社会がどのような論理で動くと説明しているかという“事実”をめぐってやり取りをしているのです。
>「資本論」と「ケインズ」流は、金融資本という、数えられる支配層と、無数の非支
>配層を想定しています。
単純に考えるのはけっこうですが、虚偽ないし錯誤(「自分の思い込み」)をあまり垂れ流さないほうがいいですよ。
ヒルファーディングはともかく、マルクス「資本論」は、無数の産業資本(家)をメインの対象とし、金融資本(家)は利潤の分配を受ける存在として付け足し的に扱っています。
ケインズの理論も、産業資本の供給活動が低迷する要因を分析したものであり、限られた金融資本(家)を想定して説いたものではありません。
あなたが「こう思う」や「かくあるべき」の論を自分の考えとして書くことにはまったく問題ありませんが、ひとの名前を持ち出してこう言ったと言うときは、「あなたの思い込み」レベルの内容ではまずいのです。
思い込みは避けられないことですが、ここまでやり取りしたのに、自分がイメージしている(思い込んでいる)ものをそのひとが提示した考え(理論)だと主張するあなたは“言論犯罪者”です。
今度こそ、あなたの“信仰”(思い込み)ではなく、「「資本論」と「ケインズ」流は、金融資本という、数えられる支配層と、無数の非支配層を想定しています」と言える根拠を示してくださいね。
>古典派は、「市場」の理想性を、楽天的に捉えています。
>新古典派と言われる人脈も、基本的に、市場が多数当事者間の対等な競争によって成
>り立っている、という理想を掲げています。
古典派は「市場」の機能を楽天的に見ているというのなら同意しますが、市場に理想性を見ているわけではありません。
諸個人の自由な経済活動にこそ理想性を抱き、そうであっても、社会にカオスをもたらすわけではなく、「市場」の機能により社会にとっても好ましいものになるという考えです。
自由な経済活動はときには行き過ぎや歪みをもたらすが、市場の持つ機能が十全に発揮されるならば、その歯止めや修復はできるというのが、古典派の基本的立場なのです。
ケインズは、国民経済には諸個人の自由な経済活動だけでは回復・修復できない隘路があるとし、その隘路を解決する方法として政府による有効需要の創出を提示したのです。
>新自由主義も、「市場」の優位性、多数性、自由性、平等性、透明性、機会の均等性
>等を重視し、基本的に、「理想」「市場」を仮定しています。
マルクスはそれらを空虚なものとして批判していますが、ケインズは、諸個人の自由な経済活動(=その結節点が「市場」)の「優位性、多数性、自由性、平等性、透明性、機会の均等性等を重視」していますよ。
ケインズは、「市場」の自律的回復機能の“絶対性”を否定しているだけの話です。
最初のころに書きましたが、「新自由主義」者が優勢を占めている米国の財政が均衡していますか?
財政が均衡しておらず、赤字財政を続けているのなら、口先でどんな説明をしようとも、経済論理としてはケインズ流の「有効需要の創出」政策を実施していることになります。
>この基本的なコンテキストからの、「マルクスとケインズ」の同根論です。
上述したように、トンチンカンなあなたの思い込みでしかない内容が根拠になるはずもないでしょう。