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(回答先: Re: 無内容ですが・・・ 投稿者 一鍼多助 日時 2005 年 10 月 24 日 23:12:32)
>以上とりとめもないことを書きました。
>内容が全くないのですが、
>もともと私自身に内容がないのでお許しあれ。
日本的な「謙遜」の美徳を否定するものではありませんが、一鍼多助さんの場合は甚だしすぎる。(爆)
無内容どころか、どしんと「魂にこたえる」ご投稿を拝読致しました。
一鍼多助さんがご自身の心情を吐露された文章を読むにつけ、小生が感じたことは、一鍼多助さんは実に「完成された」人格をお持ちの方なのだなあということです。
これは「完璧な人間」という意味ではなく(そんな人間はいない)、むしろ「瑕疵がない」と表現したほうが適切かもしれません。
「真直ぐに伸びた竹」を彷彿とさせます。
以上を申し上げた上で、「小生への反論」についてなのですが、ここには一鍼多助さんが「青竹が伸びるように育った」が故に見落とされていることがあるのです。
中西氏を「わかっていない」と仰られていますが、実はわかっていないのは一鍼多助さんの方だということです。
またこの「(一鍼多助さんが)わかっていない」部分については、たぶん日本中の殆どの大人が「わかっていない」部分と符合することでしょう。
ただこの「わかっていない=見えていない」理由(原因)が、一般の大人と一鍼多助さんとでは根本的に違うのです。
▼
生そのものを色褪せたと感じたり、無意味と感じたりするのは「青年期」特有の心性ではないでしょうか。
成熟した年齢になってもこの心性を持っているのは、詩人や芸術家などに代表される特別に過敏な感性を持っている人か、自殺直前の人ではないか。
しかし、どちらにしてもこの感性の持ち主は、生きることが苦しい。
青年期に関しては私の記憶に残っている言葉に(誰が言ったのか全く憶えていない)「青年期はただそれだけで病気である」だったと思いますが、そのようなものがあります。
青年期は誰も苦しんでいるのではないでしょうか。
それは地中に埋もれた種子が芽を出し、土の重みを押しのけて、地上の太陽を求めている状態に似ていると思います。もがいているのです。
自分を確立するために、もがきまわっているのです。
そして、生きる価値や、生の充実感を求めたり、それが不可能だと知ると、生の色褪せを感じたり、絶望したりします。
そして、この過程で様々な失敗を繰り返しますが、自我の確立の為には必要不可欠のものでしょう
だから青年期には人生に対していろいろな否定的なフレーズが出てきても全く自然だと思います。
またどんな社会を用意しても青年期にとっては、満たされることはないと思います。
それは、社会と自分の内面の関わり方であるが、内面が充足されることはないからです。
しかし、自分を確立しやすい家庭や社会を作ってやる責任が大人にはあると思います。
▲
以上はもう、まったくもってその通りであり、反論の余地は全くありません。
ですが、中西氏や中西氏の文章の感想を述べた女性、そして小生が言いたいことというのは、そういうこととは根本的に次元が違うことなのです。
その「一般の大人や一鍼多助さんが見えない部分」を説明するのは、容易なことではありません。
説明するといっても、いったい何処から始めたらよいのかすらわからない。
順序としてはひとまず「日本人論」から始めるべきなのでしょうが、これとて歴史や精神風土といった膨大なデータを必要とすることであり、一から始めたら何年かかるかわからない。
ですからここでは、あくまで「お考えいただく為のヒント」をご提示するに留めます。
さて、一鍼多助さんは心理学にご興味ございますでしょうか?
心理学といってもその裾野は広く、一口に「これが心理学」と申せるものではございませんが、これは理論体系別に四つに分けられております。
行動心理学、分析心理学、人間性心理学、トランスパーソナル心理学の四つです。
もちろん「心理学第四の潮流」と呼ばれるトランスパーソナル心理学が最も新しい心理学理論なのですが、この中に「プロセス指向心理学」というのがあります。
創始者はアーノルド・ミンデル。
プロセス指向心理学(プロセスワーク)の理論体系をご説明するのが目的ではないので詳しいことは割愛しますが、この心理学は極めて実践的で、心理療法の特色を強く持っております。
コーマワークと言って、その手法をもって昏睡状態の人々とのコミュニケーションを実践し、大変な成果をあげたりしております。
ところでこのプロセスワークというのは、「対象に寄り添う」ことが原則となります。
例えばその対象がテロリストであれば、テロリストに寄り添うことが必要になるわけですね。
これは我々が一般的に認識しているところの「相手の立場に立って考える」といった行為を思い出していただくとわかりやすい。
我々がテロリストについて語る時、必ず「許し難い」とか「人でなし」といった「対立」が起こりますが、プロセスワークでは決してこの「対立」が起こりません。
自分を対象、つまり自分をテロリストに置き換えて考えてみるわけですね。
で、話を戻しますが、中西氏の香田さんについてのコラムや、そのコラムの感想を書いた女性の「対象(香田さん)への認識」というのが、たぶん無意識的にもこのプロセスワーク的なアプローチを含んでいるのが読み取れるのです。
ここのところが一鍼多助さんとは180度違うところです。
香田さんについて考える時、一鍼多助さんはまず「ご自身」に寄り添われました。
正確には「ご自身の若い頃」に寄り添われて考えられ、次に香田さんを「若者」という匿名的かつ一般的な概念に置き換えられた。(概念を対象とされた)
このプロセスの違い、おわかりになりますか?
上記のお二人は「香田さんの目」を通して語っておられるが、一鍼多助さんは「ご自身の目」を通して語っておられるとも言えます。
一鍼多助さん的な見方が(一般的に)間違っているとは言いませんが、少なくともプロセスワーク的には正しくないのです。
↓ ↓ ↓
>青年期に関しては私の記憶に残っている言葉に(誰が言ったのか全く憶えていない)
>「青年期はただそれだけで病気である」だったと思いますが、そのようなものがあります。
>青年期は誰も苦しんでいるのではないでしょうか。
引用を多くするとクドくなるのでこれ以上しませんが、ご投稿の随所にこれが見て取れます。(一貫している。)
もし一鍼多助さんが小生の親父で、何かの折こういった理屈で諭されたとしたら、若い小生は憤然としてこう怒鳴り返すでしょう。
「親父は俺のこと、何もわかっていない!」と。
小生は最初に、一鍼多助さんは「瑕疵」のない方だと申し上げました。
一鍼多助さんのふだんのご投稿からその「心象風景」を垣間見ると、スラリと伸びた一本の青竹とか、原野に一本だけ立つ白樺とか、そんなものが見えます。
言葉にすると、「孤高」「清潔」かな?
だがこの「瑕疵のなさ」というのは同時に、場合によっては危険なこともあるんですね。
一鍼多助さんは日本人には珍しく、「判断基準が自分の内にある」方で、これは尊敬に値します。
だがこの「瑕疵のない」一鍼多助さんによって「相対化された対象(相手)」の立場にたって考えてみれば、かなり辛いものがあるのではないかと思うのです。
以上、これは一鍼多助さんに向けた、極めて個人的かつ主観的なメッセージです。
他の誰に対して言っているものではないことを申し上げておきます。
>ただこの「わかっていない=見えていない」理由(原因)が、一般の大人と一鍼多助さんとでは根本的に違うのです。
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これについては、また機会を改めて。