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Re: 質問への回答と「生」&「死」について
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/217.html
投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 24 日 21:38:32: Nk.3rfti3Zsak
 

(回答先: 質問への回答と「生」&「死」について 投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 24 日 05:24:21)

>法的根拠があれば許容できます。


「なぜ「自殺」や「安楽死」も含め、法や社会は「死」というものを「悪」だとするのか?」という根本的な問いから出発しているので、法的根拠もクソもないような気がしますが・・・。法的根拠のない「自殺幇助」は、なぜ許容できるのでしょうか?


>医療従事者ではなく“他人”という一般論なので共感できる場合もありますが、“殺人行為”であり可罰対象にすべきだと思っています。


共感できる場合とはどんな場合ですか?俺は、法律が“正しい”とは思っていません。それは、ひとつの側面からみた価値判断に過ぎないと思っているだけです。


>>意志もあなたという自己にとっては外的要因のひとつと捉えることができる可能性はあり得ませんか?

>意志に限らず感覚や思念の内容は、自己の意識と外的世界との関わりで生成されるものだと思っています。
>意志そのものが外的要因だとは考えていません。


自己の意識と外的世界との関わりで生成されるものという理由が、自己にとっては外的要因ではないということにはならないというようにも思いますが・・・。例えば、子供も自己の意識と外的世界(妻)との関わりで生成されるものですが、これについてはどうでしょうか?

またあっしらさんは、他の応答も含め、「自己」とは意識や思念や記憶や意志を含め肉体までが自己だと認識しているようにも推測されますが、どうでしょう。
俺は、肉体も含め意志や感情や記憶等々まで「果たしてこれは俺なのか?」という疑問がよくおこります。「この疑問をしている者も俺なのか?」とも。
俺は、俺が観る世界しか把握できないわけであり、観る者が俺なら、俺は観られる者ではないと感じるだけです。意志や感情や記憶等々も、それらをしている自分を客観的に観ることができ、俺という自己はただそれらがそれをやっていることを観ているだけなのでは?と考えてしまいます。その時俺は、「意志」というものをただの外的要因としか把握していません。「意志」が介入して殺されるであろう俺は、ただの映画の中の主人公が殺されることに似ているような感じで、俺はそれをただ観ているだけ(というよりも観ているがあるだけ?)
ここでの俺の質問は、そういう可能性がないか?を意図して質問したものです。


>>価値判断を必要としている人に意味があるわけであり、すべての人に意味があるわけ
>>でも必要なことでもありません。

>価値判断は、必要といったものではなく、不断に行われているものだと思っています。
>(あの女を抱きたいとか、ブスな女だなといったものも価値判断です)


他者のことを正確には知り得ないので、価値判断を行っていない者がいるかどうかはわかりません(植物状態の人はどうなのでしょうか?)。
ただ俺の場合は、価値判断が不断で出てくるというよりも、価値判断を使っているという認識のほうが強いです。だから価値判断の必要がないと感じている物事は、「物事である」という価値判断を使う以外は、知ろうともしないし記憶に留めようとも思わないです。


>どう歪めているのでしょう?
>死を“予定”されたものと考えるのは、「明日がやってくる」とか「大人になる」といったものと同じレベルではないのですか?


「明日がやってくる」や「大人になる」は、「明日」や「大人」がどういうものか知っているから言うのではないでしょうか。「明日」や「大人」を体験する前に、なぜそれを知りえるのでしょう。それは「明日」や「大人」を、人から聞いたり見たりした記憶とその期待で歪めていることにはなりませんか?ということです。
で、「死」については、俺は『「死」は「死」である』と・・・。ただ、これすらも「死」を歪めている表現にはなるとは思ってはおります。言語とはそうしたものだと。


>「「死」に対する観念は、生きている状況から発生するもの」ということには異論はありませんが、
>「「生きている」という状況に対する観念」という説明はあまりにも抽象的なのでなんとも言えません。
>「「死」と同じ次元」の「死」は生物学的死のことですか?


例えば、「死は恐怖だ」とする観念は、一般的には「死」が怖いのではなく、「死」を迎えるにあたって、生きている肉体が激痛するかもしれないという「生きている」という状況に対する「恐怖」であって、「死」そのものではないはずです。だから「死」に関するどんな観念も、「死」そのものを語っているわけではなく「生きている」という状況に対するものだと思っているだけです。
「死と同じ次元」とは、ここでは生物学的「死」のことで、いいとは思います。


>「「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない」という死生観を持っている人もいるわけですから、その表明には価値判断があると言えます。


相手に思考を伝える為に文字で表現すれば、すべては価値判断にもなるとは思いますが、その意味あいで、俺はこれを用いたのではありません。正確に言うなら「死」も「生」もそれすらもない。ただ“それ”が起こるだけ。“それ”すらも価値判断であり、正確には何か“わからない”し、“わからない”もないという感じです。


>あまり意味のない価値判断と書いたのは、「生」の真っ只中にあるときに「「死」は「死」であり、「生」は「生」。
>それ以下でもそれ以上でもない」と考えても、自己にとって、一方は極めて蓋然性が高いが非現実で、
>一方は現実そのものという根底的な違いがあると考えるからです。


俺は、「死」が非現実なら、「生」も非現実だと思ってはおります。「生」も、人から「お前は生まれて来た」といわれた記憶に依存しているだけで、本当に生まれて来たのかは、わからないと思ってもおります。生まれて来たときの体験の記憶は俺には全くありませんから。


>「生」が遮断されるのが「死」であり、「生」にとって「死」は最後の瞬間のことでしかないと思っています。


遮断されるというのは、「生」が連続しているとした「生」に対する記憶がそう言わせるだけではないですか?
俺、たまに思うのですけど、「俺は、過去から今まで脈々と生きてきたというのは嘘で、俺の過去という記憶を持って、今生まれて(という表現もなんだけど)来たのではないか?」と。
で、このままだと俺はいつまで経っても生きているというのも確信できなくなってしまい、そうなると本当に死ぬのか?という疑問も確かに残ります。


>ひとは、「ただ生きていく」なかで不断に価値判断をしています。


なぜそう断言できるのかがわかりません。あなたが価値判断をして生きているのは、わかりましたが、人が価値判断をして生きているかどうかはわからないのではないかと。


>「死ぬ」ことを“イヤなこと”と思う人は多数派でも、“悪”だとする観念はそれほどの多数派ではないと思っています。
>(自殺も、キリスト教信仰者が多い国よりも日本は“寛容”に受け止める人が多いと思っています)


そうですか。俺は死を“悪”だとする観念を持っているであろう発言に対して、果たしてそうなのかと思っているだけです。「死を悪」だとする法律や、またそれに対する世間の同調に対して果たしてそうなのか?と思っているだけです。


>「生きる意味」を考えなくとも、濃淡はありながらもこの世で「生きていきたい」と思うだけで、
>「自殺」「安楽死」「殺人」等の「死」について考えることはできるんじゃないでしょうか。


なぜ「生きていきたい」のか?、その「生きていきたい」と思うのは誰か?何か?、等々のことを何も掘り下げもせず、ただ「生きていきたい」という考えに支配されているだけなら、「生きる意味」を考えなくとも、「死」について考え、自分なりの解答(観念)を形成できるのでしょうが、俺にはそれができなかったというだけです。


・・・

※他の要件で忙しくなりはじめましたので、応答ペースを落とすかもしれません。。。

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