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(回答先: Re: 不健康版での終末医療に関するご意見への私見 投稿者 一鍼多助 日時 2005 年 10 月 16 日 01:14:43)
問題の本質は、「財政危機」連呼で正当化された、ごまかし統計に基づく医療費抑制の方便に過ぎない、という認識は、皆さん、一致されていらっしゃると理解しています。
終末医療の当事者ではない私の出る幕ではない、と思ったんですが、(今でもそう思う)他の方が触れられていないことに、気になることがあって、述べさせてください。
医療を行う者と、患者さんー当事者以外の周りの人との間には、ものの見え方に、違いがあるます。それを経験や学習というですから、ないと困るんですが、自分自身の情緒的な反応を押さえ込んで、求められる必要な行為を正確に行なおうとするものです。一方、非医療従事者では、どうしても情緒的な面が強く出ます。といって、言葉がわるければ、それが、身内に対する正常な感情であり、限界でもあります。肉親の手術には、平常心でおれるか自信が無いので、自分では手術しない、と仰った方もいます。学会でも尊敬される、熟練した先生だったのに、こう仰ったことは、強く印象に残りました。逆に「母親の手術をこの前しました、」と言って飄々としておられる方もあり、いろいろですが。
例えば、吸飲をするのに、傍目に「患者が苦しそうに体を揺すった」ことを見ている家族。
それをしなければ、気道が詰まって、後で苦しい思いをしたり、血液中の酸素分圧が下がって、悪い影響が出ることは医療者にとっては、自明なので、避けて通れないことなので、看護師さんは頑張って行なうでしょう。
多分、この情景に一般の人が抱かれる思いの背後にあるのは、「疎外感」かもしれません。自分が何とかしてあげたいのに何とも出来ないもどかしさ。聞いていれらないほどの苦しそうな咳を、横に立ってみていなければならない辛さ。見た目に苦しそうな咳き込みを起こすことなく吸引できれば、それにこしたことはないでしょうが、それが避けて通れないことであれば、次善の策として、看護婦さんが手を添えて、家族の方と一緒に、吸引して差し上げる、というのは、いかがですか?一緒にやってみてください。当事者になってみるのは、絶対いいことだ、と思います。そのうち、自信がついて、自宅療養もできるかもしれません。
以前、橋(大脳と脊髄の間)出血でほぼ全身麻痺にある義理の母親を自宅で15年ぐらい介護されていた方のお宅に、定期的に通っていたことがあります。その際、家族の方が、ご自分で気管切開孔から定期的に吸引されているのを何度も見ました。案外、上手にされるもんですよ。ちょっと、学習したら、できると思います。必要最低限の技術は必要ですが、こうすれば、家族が、医療から疎外される、または、疎外されていると感じることはないでしょう?(しかし、家庭で全て見ることを終わりのない毎日、来る日も、来る日も行なうのは、ほんっとに大変です。全部投げ打って、一心同体になって生きがいにしても、肉体的に続きません。)
感じ方の越え難さ、ということでは、外科手術でも、よく経験されます。
手術のライヴを家族に見せるのですが、事前に説明した内容でも、「痛そう、怖い、キモチワルイ、わからない。」で、正視出来ずに終わってしまう家族もあります。それが、後の患者の機能回復に直結すると、頭では分っているにも関らず、です。(手術中、患者が痛みを訴えるようでは、医療行為がまっとうできませんから、麻酔などの処置を充分に行なっていることは、当然の前提です。逆にいうと、痛みなどの患者の苦痛を誰よりも、患者さんを除いて、誰よりも真摯に受け止めているのは当の医療行為者である、ということに他ならないのですが。)医療関係者はそこに医療行為を見ますが、そうでない方はスプラッターをみる。経験と学習を積んだ人間と、未経験な人間とで見え方が違うのは、当たり前です。医療従事者は、正常な恐れを克服するために、勉強と経験をつむのですから。医者でも、生りたてのときは、こわいもんです。
医療行為とは、何らかの侵襲に他ならないのですが、(注射一つとっても、そうですね。)侵襲のデメリットを越えるメリットがあるから、それを意を強くして行なえるんです。そのプレッシャーを跳ね返すためには、それなりのバックボーンが要ります。それを、表面的にしか捉えられないことは、しょうがないですが、日常の延長にない(有資格者による医療行為でなく、人に侵襲を加えたら、違法です。)行為を判断するのに、日常の感覚だけでは、片手落ちです。
医療を行う側としては、想像力で、もし仮に、目の前の患者さんが自分の親だったら、自分はどう対応するだろう、出来るだけ、そのときのように、相手の(身体だけでない)痛み、それを見守る家族の痛みを感じられるようでありたい、とは思います。
終末医療というのには、いろんな力関係が働いて、半端じゃないでしょうね。最後の最後になって、「充分なことをしてください」とかいう親戚が現れたり。そういう人は、自分をアピールしたがるので困ります。家族も、普段、医療以外のことで「出来る限りのこと」をしていれば、死ぬ間際になってどうこう言うこともないでしょうに、「できるだけの事をしてください」と仰る方があったり。ようするに、「俺はこれだけしたぞ」という親戚中へのアピールだったりするのです。元気な内に、もっと会いに来てあげてほしいのに。元気な内にしてあげたら、本人はもっと嬉しかったろうに。
ろうそくの灯が消えるように消えていく命なら、家庭だけで見取ることもできるかもしれませんが、当人が苦しそうにする、家人では対処できないことがおこる、となると、家庭内に収めるのにはムリがあります。先ほどの例の家族では、所謂終末医療ではなく、状態の安定した患者さんでしたが。それでも、医療機関の隣に引越しし、息子さんは離婚し、お嫁さんが全てこの方を中心にした生活をされていました。一方で、老人病院といわれるような病棟に何年も入院しておられる方もあります。それでも、何週かに一度、必ず、息子さんがお見舞いに来られるのは、立派なほうです。一ヶ月に一回とか、そんな方もありますし、誰も、、、というときも。入院先が家から近いときは、近所に住む親の世話を焼く、という風情で夕食ごとに、介助に来てはるお嫁さんや息子さんを見かけることもあります。窓から差し込む日の光のなかで、眠り姫のように眠っておられる患者さんたち、、、手を握ると、握り返したり、瞼を触ると、しかめっ面をしたりするお顔を診に、往診に通ってました。死期が近づいたら、移動する擬似家庭のような空間を病院に持たすことが望までしょうね。これはホスピスですね、その勤務体験が私にはありません。
私、内科医ではありませんで、延命の話は得意ではありません。
救急医療を行っています。良く、電話で済まそうとされる方があるのですが、申し訳ないですが、何もグッズがない、という条件で、付着侵入した異物、薬品を洗うこと以外、家庭でできることはほぼゼロ、です。(診断できてないんだから、何かすること事態、危険この上ないです。または、やっても大勢に影響ない範囲に止まります。毒にも、薬にもならない、ということです。)死ぬ病気ではない、と分っていても、痛みがちょっとあるだけで、人間、普段と別人になってしまいます。まず、痛みをとってあげて、患者さんが一息つくだけで、普段の自分を取り戻すことが出来ますが、痛みに襲われ、一人で居ればいるほど、不安と恐怖が募ってきて、特に夜間になると、正常な精神活動は出来なくなります。周りの人間も、輪を掛けてオタオタしますので、受付してる内にこっちも怒鳴られたりします(私が医者に見えないのかもしれません)。普段は、いい人なんでしょうにね。
死が近づいてくると実感されるようになると、みな、死について口にしなくなるといいます。はよ、死にたいわア、といってる間は、死なない証拠。その人にとって、死が遠い存在であることを、意味します。なかなか、人間、簡単に死なれへん。自分で動けないと、ウンコもオシッコも人の手が必要ですが、そのような寝たきりの方でも、病院である程度、体力を回復したら、家庭で介護できると考えられる方(しっかりした主婦が家にいてはるとできる。)は自宅で過ごされる方が、増えているようにおもいます。悪くなったら、搬送入院して、また、マシになったら、自宅にかえる、というフレキシブルな方が、増えているように、思います。