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(回答先: 死を遠ざけたのではなく、生が色褪せてしまった結果ではないでしょうか? 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 16 日 12:58:27)
世の中が、やけに、明るいだけのプラスチックの入れ物のようになってしまった、
世が軽くなり、そして、人の「死」が、軽いところは、人の「生」も、薄っぺらなのかもしれない、
希望の星は、雲間に隠れ、「帰るべき土」さえ多くの場所では、灰色のコンクリートに変わっている、
いま、多くの人は、生きる実感を手づかみできぬまま、「デラシネ」(根無し草)のような生を歩んでいるといっては言いすぎだろうか
僕らの生は、一面では、ベルトコンベアに乗せられた、砂利石のたとえが似つかわしい、お互いに、傷つけあい、こずきあいながら、終点を目指す、中には、はじかれて、途中ベルトから出て行ってしまうものもいる、そして、何時その終点につくのか誰も知らない
そして、またある一面では、僕らの生は、悠々たる、神秘の大河の一滴でもある 注1)
僕は、その両面性を意識したい
もはや、「普通の神経」では、新聞なぞ読めない、
ぼくは、現代人を「消費するオペレーター」と思うことがある、
(生きるのに、「考える」必要なんてない、モノを買って、電子デバイスを器用に扱えればいい、そしてそれが、世を仕切るものの利益に合致する)
携帯、MP3プレーヤーを、興じる姿を見るにつけ、「遊ばれている」「あやしてもらってる」という言葉が頭に浮かぶ
それとも、「環境適応」した、「未来人の原型」がそこにいるのだろうか
世に、これ見よがしの、お手軽な、まがい物の「充実感」が溢れている
ディスプレイ上の「ゲームの兵士」が、自分の魂が乗り移ってしまう姿に、
時に新聞を賑わす、いかがわしい宗教もどきの団体の「善男善女」の会員姿がダブってしまう、
本当の充実感は、充実感らしからぬヌーボーとした「顔」してるのかもしれない、
そして、それは、日々の暮らしの中で、ひょっこり顔を出しては、また消えてしまう、、?、
人は、それを自分で見つける以外「術」を持たない