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(回答先: 心、精神、感情といったものを、なぜ受け継がせる必要があるのですか? 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 10 月 21 日 00:01:49)
いったいどこにレスつけたらいいのか、もうわからん。o○
BBマークさん、自分でも何を言いたいのか、わかっとらんのとちやう?
出口を見失った思考が、頭の中でグルグル回転してるだけみたい。
死生観というものは、みんな一人一人、独自のものを持っている。
そこには日本人の死生観という共通点も見出せるかもしれないが、基本的に我々はどんな死生観を持とうが自由であり、自分の死生観というものは誰にも侵されることのない聖域だ。
これが正しいとかあれは間違いだという、他律的な評価の介在できない領域にある。
俺は本質的な自由の概念というものは、ここにあると思っている。
>結局、俺にもわからないし、誰にもわからないだろう。それはわかってる・・・。それは・・・。
>生きることに意味もないし、死ぬことにも意味はないだろう。そしてそこには「善悪」もない。
自己完結しているなら結構だが、「あんたもそうだろう」といった意味合いを含んでいるのなら問題だ。
生きることにも死ぬことにも意味を見出せず、善悪もないと判断するのはBBマークさんの勝手だが、「他の人はそうは思っていない」ことを認識することが最も重要だ。
自分がそう思い他人もそうだろうと決めつけることは、他者の命と尊厳を軽視することに繋がる。
生や死を自らのうちにある重さで「客観的に」評価しようとする行為は、人類愛の対極にあるものだろう。
人類が犯すありとあらゆる愚行と悲劇は、すべてここから始まる。
生や死だけではない。
老人を「産業廃棄物」と呼ぶ連中に、俺が強烈な憤りを覚えるのもこれが理由だ。
生きて、そしていずれ死んでゆく人間にとって、老いは避けられないものだ。
「老い」を醜いものと考え、「人は産業廃棄物化する」と捉えることは勝手だが、その考えは「自身の老い」に対する評価に留めておいてもらいたい。
他者の「老い」を貶め、「産業廃棄物」呼ばわりする権利など、この地球上の誰も持ってはいないのだ。