★阿修羅♪ > 議論22 > 182.html
 ★阿修羅♪
解説:宮崎学『近代の奈落』〜亜細亜的相互扶助の可能性を論じる〜(MIYADAI.com)
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/182.html
投稿者 まさちゃん 日時 2005 年 10 月 19 日 14:28:56: Sn9PPGX/.xYlo
 

解説:宮崎学『近代の奈落』〜亜細亜的相互扶助の可能性を論じる〜
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=309


【差別を巡る社会学の偏り】
■過去から現在に渡って社会システムは間断なく差別を再生産している。差別は、特定の社会システムだけが再生産するのか。社会システムなるもの一般が再生産するのか。前者であれば社会システムの改変が課題となり、後者であれば無害化や極小化が課題となろう。
■社会学者として、差別に関わる社会学研究の歴史を述べるべきだろう。一九六〇年代の公民権運動の時代を経て暫くの間、社会学にはリベラルの風が吹いた。パーソンズ流の構造機能主義理論に対して、ミクロな対人関係における意味形成を扱う諸理論が勃興した。
■シュッツ流の現象学的社会学しかり。ブルーマー流の象徴的相互作用論しかり。バーガー流の現実構成論しかり。ガーフィンケル流のエスノメソドロジーしかり。ゴフマン流の役割演技論しかり。これらの影響を受けたルーマン流の社会システム理論しかり──。
■とりわけ象徴的相互作用論の流れに属するH・S・ベッカーが『アウトサイダーズ』で提唱したラベリング理論は、さしたる根拠のないラベル貼りが、ラベルを貼られた人の体験や行為を方向づけ、それがラベル貼りを強化する、というメカニズムを、明らかにした。
■エスノメソドロジーの分野では、フェミニズムとも結びつく形で、差別の達成と維持に関わるミクロなメカニズムについての研究が多数登場した。それとは別に日本の社会学会には同和問題研究のフィールドワークの歴史があるが、社会学理論との結びつきは弱い。
■概して社会学の差別研究は、ミクロなコミュニケーション理論か、理論と関連の薄いフィールドワークに偏る。八〇年代以降、網野善彦氏が中世研究を押し進めたのに伴って、若い社会学者の中でも、中世に関心を持ち、そこから差別に関心を寄せる者が増えてきた。
■そこで当然クローズアップされるのが、天皇制の歴史的変遷と、差別との結びつきだ。歴史研究の中で様々な事実が明らかになってきたが、こうした歴史学の成果をマクロな社会理論に結びつけるような社会学の業績は、いまだに殆ど存在しないというのが、現状だ。
■そのため、天皇制と差別との結びつきが、日本固有の問題なのか、インターナショナルに比較可能な普遍的問題なのかが、いまだ討究されていない。聖俗理論で知られるデュルケームを嚆矢とする宗教社会学の伝統を有するにしては、いささか不可解という他はない。

【松本治一郎と玄洋社】
■差別は特殊な社会システムが孕む問題か、社会システム一般が孕む問題か。かかる二項図式には懐かしい匂いがする。かつて水平社の内部でも、差別問題が「階級を廃絶しない社会」固有の問題だとするマルクス主義者をどう評価するかで、揉めたことがあるからだ。
■階級社会だから差別が起こるとするボル派と、差別には階級社会に還元できない普遍要素が孕まれるとするアナ派の対立だ。〈解放の父〉松本治一郎(1887-1966)と玄洋社(1881-1945)の関係を想起するまでもなく、水平社運動は階級運動には還元できない。
■本書にもある通り、福岡生まれの松本治一郎は二十歳直前に中国の大連に渡り、三年間の大陸浪人を経験する。同時期、玄洋社の頭山満、平岡浩太郎、宮崎滔天らは孫文の中国革命同盟会に集っていたが、福岡で生まれた玄洋社には被差別部落民も加わっていた。
■宮崎学氏は《治一郎には「政治思想としての大亜細亜主義」は見られない。だが「心情としての大亜細亜主義」への共鳴があったのではないか》(本書41頁)とする。このあたりの事情を、「民族」という言葉を手掛かりにして、明らかにすることができるだろう。
■敗戦後、日本共産党の運動が激化したとき、共産党が広めたのが「民族」という言葉だ。同時代の水平社運動を見ると、松本冶一郎をはじめとする先達たちも「民族」という言葉を使っている。大和民族のことではない。意外にも部落民のことを「民族」と呼んでいた。
■「民族」という言葉は、民族派右翼という呼称があるものの、元々右翼の概念ではなく、階級概念にとってノイジーな要素に注目しつつ階級概念に吸収しようとする左翼の概念だ。右翼がこの概念を使うとき、階級廃絶では必ずしも解放されない者たちという含意になる。
■松本が民族概念を被差別部落民に適用するときも、当然ながら部落解放が階級廃絶に還元できないという含意を持つ。一九四八年に参議院副議長になった松本治一郎が天皇拝謁を拒否した「カニの横這い事件」で、玄洋社が彼を庇護うのも、故なきことではないのだ。

【20世紀前半の日本の思想的配置】
■それを理解すべく、20世紀前半の日本の思想的配置を、二軸を掛け合わせた四象限図式に位置づけよう。第一軸は、国内批判をするのか、列強批判をするのか、という対立。第二軸は、解放主体が労働者というカテゴリーで足りるのか、足りないのか、という対立。
■第二軸から言うと、労働者というカテゴリーで足りるというのが共産党。水平社の中でも、共産党に倣って「反差別闘争は階級闘争に吸収されるべきだ」とするボル派と、民族概念の使用に見るように「階級闘争に還元できない要素がある」とするアナ派が対立した。
■「国内批判か列強批判か」の軸と「解放主体は労働者で足りるか否か」の軸の二軸を掛け合わせると、当時の解放的関心の全般をマッピングできる。「解放主体は労働者で足りる」とする日本共産党の内部は、国内批判と列強批判といずれを優先するかで、分裂する。
■国内批判(階級闘争)はとりあえず棚上げにして反米ナショナリズムを利用した列強批判(民族闘争)を主軸に据える所感派と、コミンテルンに従って国内批判(階級闘争)を主軸に据えようとする国際派が対立し、六全協までは短期的には所感派が主流になった。
■ところが60年代の高度経済成長を挟んで列強批判(民族闘争)が衰微。松本健一の「19
64年革命説」ではないが、日本は亜細亜の一部という感受性よりも、西側の一部だとする感受性が優位するようになるにつれ、民族概念は(左右を問わず)用済みになっていく。
■亜細亜主義者もこの図式に位置づけられる。亜細亜主義者は「解放の主体が労働者カテゴリーで足りる」とは考えない。明治以来「解放の主体は民族ないし亜細亜でなければならない」と考えてきた連中だからだ。彼らも「国内批判−列強批判」軸に沿って分岐する。
■例えば、大久保利通の如き「単純欧化主義者」を、「列強から日本を守ると称しつつ私服を肥やすだけの売国奴」として批判したのが西郷隆盛。甲申事変の挫折で征韓論が潰えて以降の西郷は、まずは国内問題(階級問題)を解決せねばならないと思うようになった。
■岡倉天心の議論は異なる。単に近代化するのみでは欧米と同じ「平らな場所」になるから、単純欧化を超えた「文化的同一性」の護持が重要と見る。三島由紀夫の「文化防衛論」のルーツだと言える。但し「文化的同一性」の範囲はオープンに開かれているのが特徴だ。
■亜細亜主義にも、西郷隆盛の如く「国家防衛のための近代化を主張して私服を肥やす売国奴を批判する」国内批判的な系列と、岡倉天心の如く「単に近代化するのみではノッペラボーになるからオルタナティブな近代を目指す」列強批判的な系列が、あるのである。
■時代が下って昭和期になるが、辛亥革命へと連なることで国内の国賊分子を一掃せんとした北一輝は、西郷隆盛的な系列に属すると言えるし、イスラーム的なものの実現によって西欧近代とは異なる近代を企図した大川周明は、岡倉天心的な系列に属すると言えよう。
■しばしば北一輝と大川周明を比較して大川の瀰漫性を批判する物言いを目にするが、これら両者のラディカルさが違うからというより、今述べたように、国内の維新革命を企図する北と、世界的な近代化の方向転換を企図する大川の、企図に違いに基づくものだろう。


【「士農工商穢多非人」という通念の誤り】
■玄洋社や大陸浪人たちの志向は北一輝よりも大川周明に近く、西郷隆盛よりも岡倉天心に近い。彼らにとっては「亜細亜的」も「日本的」もネタであり、国境を越えた視点に立ち、「欧米列強的な近代化の中に解消されてはならない何かがある」との問題意識を持つ。
■本書にも描かれる通り、被差別部落のルーツには水軍を含めた海の民の系列──トランスポーテーション(交通)に関わる人々──が含まれる。「解放がプロレタリア範疇に縛りつけられていてはならない」とする水平社の人々が、玄洋社に近接するのは自然なのだ。
■そこでは「プロレタリア解放に還元できない何かが、被差別部落解放には在る」という構えと、「欧米列強的近代化に還元できない何かが、日本のあるべき近代化には在る」という構えが、重ね焼きになる。因みに宮崎学氏がこうした立場に立つことは論を俟たない。
■西郷隆盛や岡倉天心が認識する通り、亜細亜の近代化には「欧米列強に対抗するための欧米化」という逆説が孕まれる。1926年の孫文神戸講演にも関わるが、欧米化が「欧米列強化=覇道」に帰着するのか「亜細亜の護持=王道」に帰着するのかは、元々微妙なのだ。
■微妙さは、平明に言えば「平らになることに抗う」志向があるか否かに関連する。近代化が単純欧化なら「平らになる」。被差別部落解放が一般労働者化なら「平らになる」。亜細亜主義者にとっての単純欧化と、被差別民にとっての一般労働者化は、パラレルだ。
■被差別民の一般労働者化を志向する──部落解放を労働者解放に還元する──マルクス主義の「平らにする」立場は、差別問題を「士農工商穢多非人」という具合に、貴賤問題として把握する。即ち、士農工商の一段下にある身分として穢多非人を把握するのである。
■だが今日の社会システム理論の観点からは、こうした見解は受け入れ難い。二つ問題がある。第一に、身分の貴賤は、特権──広くは行為選択肢──の多寡として把握されるが、(非人は別にして)穢多は斃牛馬の処理を、役(えき)として特権的に独占したからだ。
■第二に、もっと重要なことは、被差別部落に対する差別が、貴賤カテゴリーでなく、聖穢カテゴリーであることが見逃されていることだ。四つ足を殺すから祟りが来るとか穢れているという観念は、他国の奴隷制度にも農奴制度にも存在しないことに注目するべきだ。
■江戸時代の被差別民は、中世のカワタからの流れを引く穢多と、逃亡農民など流動性の高い非人が区別された。穢多は斃牛馬を処理する特権を与えられたが、実際の解体処理は、穢多を統領として組織された非人がした。代表的な統領が、歴代の浅草弾左衛門である。
■浅草弾左衛門とは襲名される役職だ。「弾」とは糾弾の弾で、被差別部落内での揉め事の裁きを意味した。幕府から皮革などの専売権を得て、権力と財力を振って大きな屋敷に住み、また文化面でも被差別部落民らの芸能の仕事の元締めのようなことまでもしていた。
■弾左衛門に限らず、穢多の統領は、下級武士どころか、領主や代官や庄屋にまで金銭を貸していて、裕福だった。そこでは、宮崎学氏が言うようにに、聖穢カテゴリーに基づく差別と、経済的特権の付与とが、「役(えき)」をめぐってバーター取り引きされていた。
■明治維新以降、皮革産業は、軍需物資の中核を占めることで、殖産興業的な大量生産システムに組み込まれ、穢多から特権が奪われていく。食肉も同様だ。明治の近代化は、被差別民にとって、特権が喪失して差別だけが残るという、酷薄な事態の広がりを意味した。
■そうした状況を背景に、被差別部落を「生活(者)の底辺」として貴賤カテゴリーベースで把握するマルクス主義の階級闘争史観が広がる。かくして被差別部落内部に、特権剥奪による零落を埋め合せようとする新興産業家を、敵視するような分裂が持ち込まれる。
■穢多の統領に残りの穢多や非人がぶら下がって生きるという「弱者の相互扶助」を壊す近代化という歴史的背景があってこそ、「差別カテゴリーと階級カテゴリーとどちらが優位なのか」をめぐるアナ派とボル派の対立が、戦後の水平社運動でも問題化したのである。

【貴賤カテゴリーと聖穢カテゴリーの差異】
■マルクス主義歴史学者のように「士農工商穢多非人」と単に並べる訳にいかないという聖穢カテゴリーと貴賤カテゴリーの微妙な遣い分けに見られる、被差別民に関わる近世の巧妙な支配体制は、社会システム理論的には、社会進化をめぐる普遍的な問題を示唆する。
■被差別部落問題は、とりわけ平安末期以降にとりわけ高まった「聖穢」を巡る土俗信仰的感受性が関わる。単なる身分の「貴賤」に還元できない。即ち「財の再配分」や「特権の付与」によって解消できないアスペクトを持つ。この土俗信仰的感受性は今でも身近だ。
■今も数多の御供養や物忌みの発想がある。「聖なるものと穢れたるもの」という土俗的感受性が我々の日常を現在も規定する。これが差別問題と結びつく。即ち「御大尽だけど穢れている」という感受性。これを問題化しない限り、被差別民を巡る議論は片手落ちだ。
■とりわけ特措法による補完措置によって階級的「貴賤」の問題がかなり改善されてきた今日、被差別民を巡る議論は「貴賎」の問題というより「聖穢」の問題として再浮上せざるを得ない。「貴賤」はともかく「聖穢」については階級闘争史観ではどうにもならない。
■「貴賤」ならざる「聖穢」は、経済的格差ではなく宗教的コスモロジーの問題だ。だからこそタブーが問題になる。2005年4月、ハンナンの浅田元社長が逮捕されたが、背後にある被差別民の「弱者の相互扶助」の伝統がマスコミで取り沙汰されることはあり得ない。
■芸能界を含めて今も色濃く芸能の世界に残る各種の「掟」も、芸能レポーターらが数多のスキャンダルを暴露するように見えつつ、決して触れられない。芸能史は平安から江戸期にかけての河原者の歴史としては語れても、今日の話に繋げることは絶対に許されない。
■一般にタブーを巡る問題は、まさにそれがタブーであるがゆえに言及できないという「鍵のかかった箱の中の鍵」問題を構成する。個別の猥褻規制の是非を「猥褻物」の閲覧自体が違法たるがゆえに検討できないという「表現の自由」侵害のパラドクスと完全に同型だ。
■かかるパラドクスが、後述する通り数多のパラドクスを数珠繋ぎに生み出す。それに鑑みれば、被差別民解放を国内的階級批判に還元可能とするボル派(共産党)的発想よりも、困難を見据えた上での自力更正に飽くまで固執するアナ派的な立場が学問的に支持される。
■階級の発生が差別を生んだとするボル派の立場は、差別を特殊な社会システム(階級のある社会)の問題だとする。社会を変えれば差別は消えるという。他方、水平社宣言を尊重するアナ派は、階級がどうなろうが永続する共同体メカニズムの問題として理解する。
■階級関係は、支配被支配メカニズムに属する。聖穢カテゴリーは、(少なくともルーツにおいては)共同体メカニズムに属する。貴賤カテゴリーは、支配被支配メカニズムと共同体メカニズムの双方に属する。学校でのイジメの構造が、イメージメイキングになる。
■番長が子分をイジメるのは、支配被支配メカニズムの貴賤カテゴリーだ。誰かを任意に切り離してイジメてコチラ側にいる安心や結束を獲得するのは、共同体メカニズムの貴賤カテゴリーだ。エンガチョを切ってイジメるのは、共同体メカニズムの聖穢カテゴリーだ。
■ボル派のように支配被支配メカニズムを解除すれば差別が消えるというのは、支配被支配メカニズムに属する貴賤カテゴリーに限られる。同じ貴賤カテゴリーでも共同体メカニズムに属するものや、そもそも共同体メカニズムに属する聖穢カテゴリーは、解除不能だ。

【階層的社会の権力工学として利用された「聖穢」】
■繰り返すと、「貴賎」の一部は階級(支配被支配)問題に還元できるが、「貴賤」の残りと「聖穢」は階級問題には還元できない。別言すれば、階級(支配被支配)問題は、専ら「貴賤」だが、共同体的な身分問題は、「貴賤」と「聖穢」の両方にまたがるものだ。
■それを理解するには社会進化の知識が要る。部族共同体段階の原初的社会では、リソース配分は親族原理に従い、権力的な支配被支配関係は周辺的だ。かかる社会段階では、共同体内部には専ら聖穢カテゴリーが支配し、貴賤カテゴリーは内外差異に充当されるだけ。
■階層分化が進んだ高文化社会になると、貴賤カテゴリーが内外差異のみならず内部の差異化に用いられるようになり、貴賤カテゴリーと聖穢カテゴリーの「重ね焼き」が生じる。即ち、「聖性」が正統性をめぐる権力源泉として政治的に利用されるようになるのである。
■日本の場合、飛鳥時代の継体帝前後に大きな断絶がある。それまでは氏族社会で、部族共同体が鱗状に分布するセグメンタル(環節的)な社会構成だ。それが朝廷へと集権化する過程で、氏族間に階層が導入されてハイラーキカル(階層的)な社会構成へと変化した。
■その際、仏教導入を梃子に氏族を階層的に配列した「貴賤」観念と、階層以前の「聖穢」観念が政治的に結合される。「聖なるもの」は階層頂点たるミカドに配当され、かつてミカドと同格だった各部族のシャーマンは階層末端に配当されて「穢れたるもの」となった。
■社会の混乱期にはかかる社会的記憶が召喚される。頂点たる「聖なる」ミカドと末端たる「穢れたる」被差別民が「聖性」において通底する回路が呼出される。南北朝時代に後醍醐天皇が悪党と呼ばれる修験道を自分の権力のために使ったことはよく知られていよう。
■注目すべきは、この種の展開は日本だけでなくどの社会にも存在した普遍的メカニズムであることだ。階層的分化が生じていない部族共同体段階(原初的社会)には必ず「聖なるもの/俗なるもの/穢なるもの」の三分法があり、その多くはシャーマニズムを有する。
■シャーマンは聖なる存在というより「聖なるもの」を媒介する依り代に過ぎない。即ち「聖穢」は時間空間的なカテゴリーであり、人に固定的に貼り付けられなかった。それが階層的社会になると「聖なるもの」がピラミッド型の頂点たる人に配当されるようになる。
■そこで問題になるのが、各部族で聖性を呼び出すシャーマンとして機能してきた者たち。呼び出される聖性が、階層頂点の聖性と如何なる関係にあるのかが、大問題になる。日本では彼らはまず陰陽寮に隔離、ミカドの聖性に抵触しない範囲で暦を読む仕事などをした。
■階層的な権力支配が完全に貫徹可能な段階になると、集権的支配の補完ツールとして利用可能な範囲で存在を許された旧シャーマンは、用済みになって階層性の最下に叩き落とされる。かくして階層頂点に聖なるミカド、底辺に穢なる被差別民が存在する構造になる。
■そこでは、非階層的な環節的社会における「聖穢」観念が、階層的社会における「貴賤」の身分観念と重ねられ、単なる時間空間観念というより、人に貼り付けられるものとなる。
インドの不可触賤民にせよ、欧州のロマにせよ、どこでも似たようなことが起こっている。
■即ち、かつてはシャーマニスティックに重宝された土俗の聖性が、人に貼り付けられた穢性へと叩き落とされ、普段(ケ)は忌避されつつ、祭事(ハレ)の際にのみ共同体を穢れ(ケの枯れた状態)から回復させる無害化された聖性として、召喚されるようになる。
■周知の通り、12世紀の叙任権闘争から17世紀のウェストファリア体制に至るプロセスで、西ローマ帝国の範域は聖俗二世界論を達成、階層頂点が聖性を帯びるのは禁じられた。東ローマ帝国の範域は、階層頂点が聖性を帯びる伝統が続き、後の「東側」社会を準備した。
■日本はどうか。鎌倉幕府以降、階層頂点とミカドの聖性は分離されたが、ミカドの聖性はその時々の事実的な階層頂点を正統化する役目を担わされた。維新以降も、頂点(君主)が俗人たる西欧的立憲君主制と違い、日本では頂点(天皇)が聖性を担わされ続けてきた。

【西光万吉の天皇主義に見られる普遍的な捩れ】
■敗戦後、コミンテルンの27テーゼや32テーゼに従って天皇制打倒を主張したのは──共産党の国際派と連動したのは──ボル派だった。西光万吉を持ち出す迄もなく、アナ派は天皇に連なることで自らを鼓舞しようとした。実はそこに本質的な捩れが見出せるだろう。
■前述の通り、アナ派は、階級問題に解消できない土俗的コスモロジー──生活における穢れ観──の問題を提起する視角を有していた。穢れ観を社会から払拭しようとするなら、論理的には「穢れたるもの」の反対側にある「聖なるもの」をも払拭しなければならない。
■つまり天皇制を打倒しなければならないのはむしろアナ派なのだ。「聖なるもの」を撃たずして「穢れたるもの」を救済できない。だが「穢れたるもの」たる被差別民は元来「聖なるもの」の近くにいた。天皇を、肯定的自己規定に結合するのも、筋が通っているのだ。
■だが中世以降、統治権力は統治の事実性を天皇の聖性を使って正統化してきた。錦旗が揚がった途端に鳥羽伏見の戦いは決した。かかる統治権力が統治の便宜ゆえに貴賤カテゴリーと聖穢カテゴリーを結合し、頂点に聖性、末端に穢性を配当して、差別を温存した。
■自らを鼓舞するものへのコミットメントが、自らを差別するものの温存に繋がるという逆説。これはアナ派に固有のものというより、水平社宣言に出発点から潜在的に書き込まれていた逆説である。被差別民の解放を企図する際に、避けて通れない鬼門だと言えよう。
■鬼門を如何に通過すべきか。初期の水平社運動を率いた西光万吉は、一時共産党員になるものの、3・15弾圧で入獄して天皇主義者に転向する。彼は、天皇制は母権制社会で誕生したので、再び天皇制の初源における母権制社会に戻れば差別がなくなると主張した。
■先に紹介した通り、原初的社会には人に貼り付けられる聖穢カテゴリーはないので、主張は正しい。だが歴史的経緯としては正しくても、貴賤カテゴリーと聖穢カテゴリーを結合する高文化社会的図式を奇妙に引き摺る日本の近代社会では、実効的な処方箋ではない。
■原天皇制と近代天皇制とは異なる。近代天皇制には「縦の力を降ろす装置」としての側面と「忘却と融和の装置」としての側面がある。前者の側面は、古来の聖穢図式を呼び出して人々を鼓舞するもので、原天皇制のみならず原初的社会に普通に見られる普遍装置だ。
■「忘却と融和の装置」の側面は、幕府史を踏まえて岩倉使節団系が考案した。第一に、本来はバラバラのムラに所属する田吾作らを、天皇の祝福で均しく横並び化する。第二に、田吾作が田吾作の言うことを聞かないのを、「陛下の意思」を経由して聞くようにさせる。
■西光万吉の母権制社会論は、近代天皇制が原天皇制の原理を超えた支配メカニズムである点を見逃す。近代天皇制の下で聖性を愛でれば、それは必ず貴賤ハイラーキーの頂点を愛でることに繋がり、論理必然的に貴賤ハイラーキーの末端への差別を翼賛してしまう。
■この逆説は、後期南朝以降2・26事件に至るまで、繰返し顕在化してきた。実存次元では、弱者の自己鼓舞として役立つ「縦の力を降ろす装置」としての天皇制の呼び出しが、社会次元では、既に階層的に構成された社会の統治テクノロジーを正当化してしまうのだ。
■因みに宮崎学氏は、差別を階級問題に還元するボル派自身、天皇翼賛に転向した西光万吉を穢れと見做し、非転向を貫いた自らに聖性を見做す態度に、囚われているとする。ことほどさように聖穢カテゴリーの使用(による差別)は我々のいわば「業」かもしれない。

【「貴賤」と「聖穢」の重ね焼きを解除せよ】
■それを踏まえて、処方箋を考えたい。まず、共同体メカニズムは我々を永久に拘束する。例えば、外部に敵を作って不確かな内部の糾合を図るというポリス時代の昔から知られる貴賤カテゴリーの使用は、昨今の先進国にも内政外交の別を問わず、標準的に見出される。
■次に、先に「我々」の業かも知れぬと述べたが、聖穢カテゴリーの使用は、「我々」の範囲をどう膨縮するせよ、日本的ないし亜細亜的なパトリと結合している。我々が「匂いのある場所」たるパトリを護持せんとすれば、聖穢カテゴリーを単に敵視しては済まない。
■しかし、高文化社会の統治戦略に見るような聖穢カテゴリーと貴賤カテゴリーの「重ね焼き」は、聖穢カテゴリーを人に永久に貼り付けて差別する振舞いを帰結する。しかるに高文化社会を終えて近代社会を生き得る我々にとって、この「重ね焼き」は必然的でない。
■前述の通り、環節的に分化したな原初的社会では「聖穢」と「貴賤」が結合していない。内(我々)が優れていて外(奴ら)が劣るという「貴賤」観念の内外差異的な使用は原初的社会にツキモノだが、共同体内では「聖穢」は時空カテゴリーで貴賤とは無関連だった。
■共同体メカニズムとしての貴賤カテゴリーは永久になくならない。亜細亜的なパトリの構成部品たる聖穢カテゴリー──縦の力に感染する祭り的作法──は無闇になくすべきではない。私の提案は、前述の社会進化史を踏まえ、問題の「重ね焼き」を解除することだ。
■とはいえ、問題は微妙である。日本型ファシズムが人種主義の傾きを持たなかった背景には、「貴賤」観念が「聖穢」観念に「重ね焼き」された分だけ、人種による能力的差異を云々する類の「貴賤」観念に寄りかからずに済んだ、という事情が控えているだろう。
■しかし、能力的差異に注目する人種主義(という貴賤カテゴリー)なら、科学データで反証してリアリティを解除できる可能性があるのに、聖穢カテゴリーは科学的反証とは無関連な宗教的コスモロジーの類で、リアリティ解除が困難だ、という側面があるのも事実。
■これも但し書が必要で、聖穢カテゴリーはいわば宗教的信念なので、社会内の宗教的な多様性の高い「近代成熟期=後期近代」には単なる主観性として相対化できるが、遺伝子学の如き能力差異の科学データに基づいた貴賤カテゴリーは、こうした相対化が難しい。
■とはいえ、能力差異に基づく貴賤カテゴリーなら、「何かの能力が劣っていても、同じ人間(!)なのだから差別するな」と、タブーなく議論の対象にできるが、聖穢カテゴリーだと、前述したように、差別構造への言及自体がタブー視されてしまう可能性もある。
■タブー視の問題は特に重大だ。欧米列強で民族差別や男女差別に言及したりするのと同様なおおっぴらな形では、被差別部落の問題は議論できない。議論できないと働きかけもできない。それだけでも「貴賤」と「聖穢」の「重ね焼き」を解除すべき理由になろう。
■「重ね焼き」の解除は論理的に二つの方向があり得る。一つは、「劣った者ほど聖なる存在」という具合に「たすき掛け」にする可能性。もう一つは、「聖穢」を人に貼り付けられるのではない──儀式によって反転可能な──時間空間的な観念へと引き戻す可能性。
■前者は、浅草弾左衛門における特権と差別のバーター取引の如き近世の前例があり、目立ちにくくなったとはいえ今日でも類似の形式を見出せる。だが、弾左衛門的バーターを被差別部落問題の解決だと考える者は稀だ。とするならば、可能性は後者にしかなかろう。

【パトリ護持と部落解放との微妙な関係】
■昨今は小説『陰陽師』が漫画化や映画化でヒットし、京極夏彦の小説も大流行だ。かつての占いブームを超えて、物忌みを許すかつての共同体的コスモロジーを召喚しようとする動きが確実にある。背景はノスタルジーブームと同じくアノミー(前提空洞化)である。
■近代成熟期になると、モノの豊かさが国民的目標たりえた「近代過渡期=前期近代」の単純さが消え、近代過渡期に辛うじて残存した共同体的コスモロジーも失われる。全てが方向性を失い、茫漠化したときに、光と闇を指し示しす共同体的コスモロジーは魅力的だ。
■平安末期の末法思想を持ち出すまでもなく、それは古くから反復利用されてきたメカニズムでもある。社会が流動的になり、不透明になるほど、「穢れたるもの」や「聖なるもの」への関心が高まり、「聖穢」によって自分を方向づけたり鼓舞したがる動きが拡がる。
■その意味で、現在はアイロニカルな状況だ。確かに部落差別をするために必要な知識すら風化していく流れは、部落解放運動への追い風に見える。でも「貴賤」観念に重ね焼きされがちな「聖穢」観念が若い人々に拡がる状況は、必ずしも追い風ばかりとは言えない。
■こうしたアイロニーには拡がりをもつ。昨今の環境問題は、近隣弱者の問題でなく、未来の子孫や遠隔の南側など不可視の他者の問題になった。コミュニタリアンが言うように、未来の子孫や遠隔の南側をも「我々」の一部とするような共同性樹立が必要かもしれない。
■実はこうした場面で、「罰があたる」という聖穢観念が、不可視の他者への侵害を抑制する動機になり得る。他方、日本仏教的な因果応報説ゆえに、罰があたり得る者を「穢れたるもの」として忌避するところから、斃牛馬の処理に携わる者への差別も生まれている。
■私は、「流動性からの収益」よりも「多様性の護持」を優先する亜細亜主義者で、かつ、公の名のもとにパトリを屠る統治権力への謀叛を肯定する極右に近い立場だが、そうした者たちが直面せずにはいられない重大なアイロニーが、こうした問題の周辺には散在する。
■生活に聖穢カテゴリーが大きな位置を占める亜細亜的なパトリの護持と、聖穢カテゴリーに基づく部落差別の撤廃を、どう両立させるか。パトリの護持が部落差別の温存に結びつかぬようにし、部落解放がパトリの解体に結びつかぬようにするには、どうしたらいいか。

【亜細亜的パトリと聖穢カテゴリーの結びつき】
■「部落解放がパトリの解体に結びつかぬようにするには、どうしたらいいか」という問題意識は本書を通底する。前述した特権と差別のバーター取引や、穢多の統領へのぶら下がりが不可能になった維新近代化以降、悲惨な被差別民への財の再配分は焦眉の急だった。
■同和対策事業特別措置法の2001年法期限化に関連するが、社会全体が豊かになり、特別措置による再配分が進むにつれて、前述した如く「聖穢カテゴリーの残存」が問題化されると同時に、皮肉なことに「被差別部落民の一般人化」の是非が問題化されるようになる。
■これは普遍的な問題だ。沖縄では、95年に米兵の少女レイプ事件で、県民感情を鎮めるための特措法ができ、多額の補助金と交付金が付けられた結果、中央の利権政治家のポッケが膨らみ、地域の利権ボスのポッケが膨らみ、それに県民がぶら下がる状況になった。
■農民を支援する圃場整備の土木事業が儲かるからと離農が進み、漁民を安全にする港湾整備の土木事業が儲かるからと離漁が進んだ。弱者が「手当てしろ」との当然の要求をした結果、集権的再配分システムに組み込まれ、地域の自立的相互扶助の美風は消えてゆく。
■自立的相互扶助の解体と、ジャスコ(大型スーパー)やホットスパ(コンビニ)の林立とが(悪)循環する結果、沖縄の風景は、離島を含めて急速に「本土並み化」しつつある。かつて「核抜き本土並み化」が悲願だったが、果たして「本土並み化」がいいのかどうか。
■弱者が「手当てしろ」と当然の要求をした結果、集権的再配分システムに組み込まれ、地域の自律的相互扶助の美風が失われ、他と入替え可能な「平らな場所」になる。沖縄に先立つ形で日本各地が廃藩置県以降──とりわけ列島改造論以降──経験してきたことだ。
■この問題に最も早く気付き、議論を重ねてきたのは、同対法下の被差別部落の人たちだった。これとほぼ同型的な議論が、「日本人化」が進み、一部自治体で公務員への就職も可能になった、在日の三世四世の間で交わされていることは、既によく知られているだろう。
■パトリオティズムの本義は、入替え可能な「平らな場所」における、入替え可能な「透明な存在」になることを、拒絶するところにある。不安と不信でおたおたするヘタレを量産しないためにも、人や場所の入替え可能化による過剰流動性を抑止する必要がある──。
■米国流グローバル化(ファストフード!)がもたらす過剰流動性に抗う運動が、スローフードやスローライフの名で呼ばれ、欧州主義の柱の一つを構成する。オルタナティブな近代を志向するこうした価値観は、様々な場所で述べた通り、亜細亜主義を嚆矢としよう。
■冒頭近くに述べた通り、亜細亜主義の価値観は、階級問題(支配被支配)の解決だけで人間が解放されるとは見做さない。先には貴賤なるざる聖穢に注目する立場だと述べたが、それは必ずしも否定的注目に限られないどころか、むしろ逆であり得ることに注意したい。
■「平らな場所」で「透明な存在」となることに抗って弱者の自立的相互扶助の美風を残そうとする、宮崎学氏が主張される昨今の被差別民的立論は、匂いのあるパトリを護持するべくオルタナティブな近代を推奨する亜細亜主義(や欧州主義)と、ここでも通底する。

【差別の忘却が解放ではない重大な理由】
■過剰流動性に棹さして「平らな場所」で「透明な存在」になることで、沖縄人も在日コリアンも被差別部落民も「本土並み化」し「一般人化」しよう。それだけでなく、差別被差別の源泉になる共同体的な記憶も風化しよう。それは、果たして差別問題の消滅なのか。
■知らないから差別しないということを以て、差別問題は消えたと考えるべきか。何かを知れば差別するはずだということを以て、差別問題は続くと考えるべきか。「同和教育をやって部落の存在を教えるからこそ差別が始まるのではないか」「イヤ違う」云々──。
■古くて新しい論争だ。私は後者の立場に立つ。無知を以て差別問題の解消と見做すのは、身体の外見だけで病気か否かを判断するヤブ医者と同じだ。共同体メカニズムとしての貴賤カテゴリーは永続するし、聖穢カテゴリーも簡単に消えぬ(消すべきか否かも不明)。
■部落問題を知らなければ部落差別ができない。確かにそうだ。でもその個人や社会が潜在的な差別的メンタリティを持たないことを意味しない。その個人や社会が、一朝ことあらば貴賤&聖穢カテゴリーの共同体メカニズム的な使用へと乗り出す可能性が絶たれない。
■それだけでない。部落差別が生きるか死ぬかの問題だった時代と違い、豊かな近代成熟期(後期近代)には、どの差別に注目するべきか自明でなくなる。男女差別、在日差別、部落差別…、解決の優先順位はどうか。担保されるべきはどの範囲の人々の平等なのか。
■特定の差別問題のみを無反省に取り沙汰するのも、日本国籍者や日本居住者の内側だけでの平等を主張するのも、脳天気なエゴイズムを帰結しがちだ。国内の組織労働者の幸せを主張する組合系左翼が、未組織労働者や国外へのシワ寄せに鈍感なのと同じ構図である。
■ダーティーワークほど手当てを要する。それが「人の道」であり、アダム・スミスの「同感論」からロールズの「無知のベール」論に至る近代リベラリズムの本義である。だが分断統治のガバナンスによって、同感可能性を絶った所に差別構造が人為的に持ち込まれる。
■かくして、社会に不可欠なダーティーワークを外国人に割り当てて置きながら、彼らを手当てするどころか、「劣っている(貴賤)」「穢れている(聖穢)」と後知恵的に手当て放棄を正当化するような、「ネオリベ」という名の恥辱にまみれた精神性が拡がり得る。

【被差別部落解放運動と亜細亜主義の結びつき】
■国家主義者の如きを右翼と呼ぶ出鱈目と同じで、ネオリベを右翼と呼ぶのも出鱈目だ。蓋然的には、集権的再配分に賛成するのが左翼で、反対するのが右翼だが、それは主知主義と主意主義の対立、ないし、それと結合するパトリ護持への意欲の有無から、派生する。
■そもそも右翼とは「神が不合理を意思する」と見做す主意主義の立場。神が不合理を意思するなら〈世界〉は理性の枠に収まらない。そう考える右翼は、「不条理を不安がって超越神やエクリチュール(自分に外在する真理)を頼る態度」を、依存的だとして退ける。
■代わりに右翼は、不条理を恐れず〈世界〉の根源的未規定性に開かれる。自分に外在する真理に依存せず、〈世界〉の根源的未規定性へのミメーシスから沸き出る力で前に進む。だから不安と不信でオタオタせず、内発性と信頼に基づいて前に進む態度を奨励するのだ。
■〈世界〉の根源的未規定性に開かれることから、固有名のありそうもなさにも開かれる。だから「平らな場所」で「入替え可能な存在」に堕するのを嫌う。〈世界〉の根源的未規定性や固有名のありそうもなさに閉ざされれば、ミメーシスによる内発性も消えてしまう。
■かかる内発性を護持すべく、右翼はローカルな自立的相互扶助(共同体的自己決定)を護持しようとする。それも、自分が属する共同体だけでなく、全ての共同体の共同体的自己決定を尊重しようとする。頭山満など初期の亜細亜主義者を見れば思い半ばに過ぎよう。
■これが「公の名のもとにパトリを屠るならば、国家と雖もこれを討つ態度」を帰結する。こうした態度を欠いたまま、国家の命令に思考停止で這い蹲る国家主義者も、優勝劣敗による自立的相互扶助の壊滅を放置するネオリベも、思想史的には右翼としての資格を欠く。
■ご本人が被差別部落出身者でありかつ亜細亜主義者である宮崎学氏によって書かれた本書は、パトリオットを国家主義者と等置して恥じぬ、あるいは、再配分(による共同体護持)を左翼的だと称して恥じぬ、自称「右」の出鱈目な思考を撃つ意味でも、貴重である。

解説:宮崎学 『近代の奈落』 〜亜細亜的相互扶助の可能性を論じる〜
「被差別民族とアジア主義(仮題)」(別冊歴史読...

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ       HOME > 議論22掲示板



  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。