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(回答先: 「人間」の中に「わたし」を含めないでよかったらどんなにいいだろうと思いますね。 投稿者 乱 日時 2005 年 10 月 03 日 23:28:38)
乱さん、こんにちは、初めまして、横レスにて失礼します。
デラシネ氏には割り込みをお詫びします。
さて、どうやら人間界では少数の富裕者(蓄財者)を除けば誰もが何事も前倒しにしてやらなければ立ち行かないようです。金利圧力を宿根とする経済成長必然論の信奉がそれをよく物語っていますし、そうした人間活動の在り様は自転車操業にも喩えられます。兎に角そのようなメカニズムを我々人間が創り上げてしまったと云う事実を受け入れざるを得ないと考えています。
姥捨て山政策や収容所政策が老人問題の解決策としてどの程度有効かどうか、私は推断できかねますが、それでも我々はソフト・ランディングを基軸に、且つ老人問題の抜本的な対策を考えて行かねばならないとは思っています。けれども、乱さんが指摘されているように徒に長寿を礼賛するような欺瞞的風潮が蔓延していくと、世代的(時代的)解消論にも逆行してますますこの問題を複雑にしかねないかも知れません。しかしまた、年寄りはいたわるものだという風潮や老人は老人でそれを甘受しないと云った心意気(気骨)が反映されるような社会であってしかるべきだと考えます。
解剖学者の三木成夫はその著書『胎児の世界』(中公新書1983)で『生物の二大本能として「個体維持」と「種族保存」があげられる。いうまでもなく、前者は、せっせと食べてからだを養っていくことであり、後者は、骨身を削ってただひたすら次代をつくっていくことである。』(160p)と記していますが、私は、社会的存在価値と云った人間界に特有で補完的な実相を除けば、生物としての人類の存在理由は「種族保存」に収斂すると考えています。そして、極大雑把に言えば、生殖機能の生理学的な停止期に関係なく、本来的な存在理由の有効期限(子供を産んで満22歳まで養育する期間)は男女共に[55+3]歳位ではないかと推算しています。ですから、それ以降は新たに存在理由(実質的には社会的価値)を創っていく必要があるでしょう。
それは同時に新たなるMoratorium(猶予期間)の到来を意味することになるのかも知れません。すなわち、当人にとっては最早その後には何もない、単に死に至るまでの正しく空虚な待機の時間です。世俗的な定年には少し間がありますが、既に私も新たな存在価値を探求すべき時期に突入していると自覚しています。個人的な希望を含めて唯一決めていることは、蓄財を考えずに必要最小限の生活をするために死の直前まで働くというものです。その間に新たな存在価値を創り出すことができるかどうか定かではありませんが、存在理由の残滓に纏わりつかれているうちはそのようにして遣り過ごすしか他に方法はないのではと思っています。
ささやかな提言として、国民年金の破綻防止にどの程度寄与するか推定は困難ですが、例えば年金に頼らずとも暮らしていける有産者にたいしては政府顕彰を引き換えに年金授受の辞退の促進や、壮健者には年金給付を半額位にしても年齢や体力に見合った仕事を提供することによって生産の現場に居ながら老後を過ごせるようにする等の方策の導入も検討すべき課題でしょう。
親となるべき人間の意識上に表出するか、あるいは潜在意識として内在しているかは別にして、我々が「種族保存」を託されて生まれ出ずるのは否定でき得ない宿命のようなものでしょう。しかし、何時の頃か「種族保存」は背後に追いやられて「個体維持」至上主義に転換してしまうことが多いようです。それが、人間界を複雑怪奇にしている元凶にもなっていると想われます。ただし、それを明快に分別して一挙に解決へと導けるような手立てを見つけ出すことは容易ではないでしょう。
事は急を告げているこの問題を包括的に処理していくにはどのようにしたらよいのか、誰がその当事者意識と能力を有するのか、全く見えてはきません。結い目も考えずに急ぎ御縄を断ってしまうようなハード・ランディングか、それとも飽くまでもじっくりと命の綾を解いていくようなソフト・ランディングか、人其々の現状の境遇や立場によって目指すものは違ってくることでしょう。そして、真剣に自身の老後と社会との整合性を模索していくならば、何れにしても個々の修養やチャレンジが必要になるのは避けられないと思われますし、多分そうしているうちに何度目かのMoratoriumに終わりが告げられることになるのではないでしょうか。
また、会いましょう。