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以下は、国立感染症研究所名誉所員の本庄重男氏が代表幹事を勤める、バイオハザード予防市民センターのニュースレター第31号(2005年3月) より引用
私は過去に、考古学や古代史という学問の重要性を漠然と考えることはあったが、取り立ててその分野の本を熱心かつ系統的に読んだことはなかった。巷間で名著といわれている考古学関係の本にたまたま眼を通すことがあっても、「成る程そうか」と著者の見解に納得するだけで、疑問を感ずるようなことはほとんど無かった。改めて言うまでもないことだが、およそ学問の世界で、ある学説に対し批判的視点を持ち異論を提出するには、それに関わる専門的総合知識や豊富な経験が無ければとてもできることではない。だから、私は考古学という学問領域に疑問を提起したことなど今日まで全く無い。とは言え、太平洋戦争中に叩き込まれた天皇中心の皇国史観やそれを支える数多くの神話のようなものを信ずることは到底できず、嫌悪し拒絶して今に至っている。
しかし近ごろ、政治権力により操作されている世相を見ると、またぞろ皇国史観もどきの歴史が復活しているなと痛感する。非科学的な神話信仰や天皇賛仰の復活に反対するのは、私たちのように戦時生活を体験した高齢世代にとっては、後続世代に対し負うべき義務でさえあると思う。そして、その義務を果たすには先ず何よりも、「正しい歴史」を正しく知らねばならない。もちろん、その「正しい歴史」には、ここで紹介する本が解き明かす古代史、「銅鐸民族の歴史」も含まれる。
さて、本書の著者臼田篤伸氏は、多忙な歯科医院を経営しておられ、加えて私たち市民センターの幹事もしておられる。それだけでなく、“ぬれマスク法”や“予防嚥下法”の提唱者として、厚生省や医師会のワクチン依存その他のインフルエンザ対策に対する厳しい批判を展開しておられる(私は、氏の数ある関連著書のひとつ“こんなに効くぞぬれマスク”<農文協刊>を当ニュースレター第5号、2000年2月に紹介した)。だが、それだけではない、今度は考古学の著述をものにされたのである。しかも、正統考古学者の牢固とした観念・学説を堂々と批判する著述である。標的を“銅鐸”だけに絞っているとは言え、実に壮大にして壮快な考古学の言挙げではないか。
全14章からなるこの本の第1章には、「アマチュアが声をあげる時がきた」という表題が付けられている。著者は、古代史と民族紛争は密接不可分であること、切磋琢磨しない分野は進歩から取り残されること、考古学は祭りごとに翻弄されていること、の三つの観点に立脚して、わが国の既成考古学者たちの学説と学会支配や世論支配に対する異議申し立てをし、今こそアマチュアが声を挙げようと呼び掛けている。文字通り真理のためには少しも逡巡せぬ気概である。
第2章は銅鐸そのものの解説の章で、銅鐸はノーベル賞を凌ぐ大発明であったと主張する。第3章では銅鐸の鋳造技法が論じられている。第4章は、わが国土からの銅鐸発見の歴史を扱っている。そして、出雲での大量発見が銅鐸の歴史を変えたと強調する。第5章では、考古学権威者が唱える“銅鐸の埋納”説により洗脳された多くの専門家たちや門外漢たちの提出した珍説の数々を列挙し徹底的に批判する。第6章は、銅鐸に刻まれた文様は情報伝達のサインであるとみる著者の意見を述べている。第7章では、銅鐸の形や文様の変化は理に叶った進化的発展だと主張する。第8章では、銅鐸が日本で独自に花ひらいたのは、それが日本の地形にマッチしていたが故であると説く。情報伝達が銅鐸の基本的役割であったとする著者の立場から考えた説である。第9章では、わが国に四大銅鐸圏があったとみる見解が披露されている。ここまでになると、とても「アマチュア理論」とは言えないように評者には思われる。第10章は、埋められた証拠は何もないことを発見現場の状況調査に依拠して詳述し、「埋納説」を批判する。第11章は「兵どもが夢の跡・二大青銅器圏」と題し、古代日本で頻発・躍動した民族紛争(主として大和王朝系と九州王朝系)の解説である。私の幼少年時代“万世一系で平和愛好の天皇”などと信じ込まされていたことの愚かしさを、この章で改めて確認した。第12章は、大和の銅鐸国家が神武東征により滅亡したことを述べている。次の第13章は、古代史における民族紛争に勝利した側には文字(漢字)文化があったことを力説する。「現代に残る銅鐸国家の影」と題する最終の第14章では、諏訪大社や出雲大社の事例が紹介されている。銅鐸民族の集落は有明海沿岸地域や宍道湖・中海・琵琶湖・浜名湖・諏訪湖等の湖周辺地域に沢山存在していた。この事実が第9章の四大銅鐸圏説の提唱の根拠になっているのだ。
合計135編にも及ぶ銅鐸関係の考古学専門書を読みこなしただけでなく、自分の脚で遺蹟を探索し、隠されていた多くの事実を発見し、それらをきちんと整理し、自らの秩序だった論理で古代の姿を明らかにした著者の努力と執念と独創性に、私は心の底から敬服した。この本は決して“アマチュア”の著作とは思われない。方法的にも内容的にもそしてまた理論構成上も専門家の著作として熟読されるべき本である。
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