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JMM [Japan Mail Media]  「スピルバーグの『ミュンヘン』」   冷泉彰彦 
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/553.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 1 月 01 日 02:10:07: ogcGl0q1DMbpk
 

                             2005年12月31日発行
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JMM [Japan Mail Media]                No.355 Saturday Edition
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                        http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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  ■ 『from 911/USAレポート』第231回
    「スピルバーグの『ミュンヘン』」

 ■ 冷泉彰彦   :作家(米国ニュージャージー州在住)

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 ■ 『from 911/USAレポート』第231回
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「スピルバーグの『ミュンヘン』」

 12月23日に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン
(原題は "Munich" ミュニック)』は監督の最高傑作であるだけでなく、2005年まで
の現時点で言えば、今世紀のハリウッド映画の中で、最も価値のある作品ではないか
と思います。

 既に報道されていると思いますが、映画は1972年のミュンヘン五輪開催中に起
きた、PLO(パレスチナ解放機構)の過激派グループ『黒い九月』によるイスラエ
ル選手村襲撃事件を扱っています。11人が人質となり、最終的に全員が死亡したこ
の事件は、全世界に衝撃を与えました。

 映画は、その事件の後日談を描いています。ショックを受けたイスラエル首相のゴ
ルダ・メイア女史は、秘密警察「モサド」の精鋭を集めます。そして、「いかなる文
明も、必要な場合には自分の価値観に背くような譲歩をしなくてはならないときもあ
る」というセリフと共に、秘密裏にPLO幹部11人の暗殺を命じます。その暗殺チ
ームのリーダーであった、アブナーという男が主人公で、エリック・バナが名演技を
見せています。

 映画ですから、ストーリーを詳しくはお話するのは控えますが、既に欧米のメディ
アには批評があふれていますし、予告編もネット上には出ていますから、概略をご紹
介することをお許し下さい。映画のメインストーリーは、主人公アブナーが、暗殺を
繰り返す中で、仲間を失い、無関係な人間の命も奪う中で精神的に追いつめられてい
く物語です。

 それと同時に、まるでドキュメンタリーのようなタッチで『黒い九月』の襲撃事件
の一部始終が、順次紹介されていきます。トレーナーにジャージという姿の犯人グル
ープが、堂々と選手村へ押し入り、何人かの人質を殺します。やがて逃走用に用意さ
れた飛行機やヘリにトリックがあることが露見したことから、警察との銃撃戦になり、
結果的に残りの人質を全員射殺するまでが克明に描かれていきます。

 これに、アブナーの家族のストーリーが重なっていきます。妻の妊娠、娘の誕生、
アメリカへの移住、自身の母親による精神的な救済、そうした家族のストーリーが、
アブナーという人物を立体的に描いてゆき、最終的にアブナーの精神の痛みを観客に
共有させようという、演出になっています。

 スピルバーグのメッセージは明白です。紛争はそれ自体が悪であり、その当事者の
どちらにも正義はない、ということでしょう。結末の近くになって、アブナーに「こ
んなことの果てに平和なんかあるはずがない」という決定的なセリフを言わせている
点から見ても、それは明らかです。

 では、ユダヤ系を代表する文化人であったスピルバーグは、パレスチナとの紛争に
呆れてイスラエルへの支持を止めたのでしょうか。そうではありません。この映画に
あるのは、これまでのスピルバーグ作品には全くなかったような、ユダヤの文化とイ
スラエルという土地への愛情の告白です。

 CGなどの最新技術をそっと使いながら、70年代のイスラエルの日常の風景を再
現しています。主人公は任務を続けるための隠密行動に疲れ果てるのですが、たまに
母国のロッド空港に戻ると安心するという様子が、自然に描かれます。そして、ユダ
ヤ系の独特の食卓、その豊かさと食物への感謝の思いなども印象的な映像で配置して
います。

 何よりも、ユダヤの女性像の描き方が尋常ではありません。これまでのスピルバー
グは、女性像の造形や、性愛描写に関しては極めて淡泊な監督でした。ですが、本作
ではそんな過去をかなぐり捨てるかのように、アブナー夫妻の濃密な性愛を描き、ア
ブナーの妻にはじけるような魅力を与えています。妻の役には、イスラエル人のアヤ
レット・ズラー(イスラエルのトップ女優だそうです)を当てているのですが、子を
産み子を育てる母性とエロティシズムの重なり合った素晴らしい存在感を見せていま
す。

 更に、アブナーの母親には、息子への理解者であると同時にイスラエル建国の証言
者として「誰が何と言おうと、この土地に来なければいけなかったの。どんな犠牲が
あったにしても、あるにしても地球上でここが私たちの土地なのだから」と言わせて
いるのです。清濁併せのむ政治家として描かれているメイア首相の造形にも、ある種
のユダヤの母性というテイストを加えています。

 もう一つの特徴は、暴力の表現です。スピルバーグといえば、『プライベート・ラ
イアン』の暴力描写が話題になりました。NC17(17歳未満お断り)という指定
になりそうなものを、R(17歳未満は保護者同伴)に止めるために監督自身が動い
たとか、色々なことが言われたものです。時代が更に緩くなったのでしょうか、今回
はNC17かという騒動はありませんでしたが、私にはこの『ミュンヘン』の暴力描
写は、『プライベート・ライアン』以上のように思われました。テロとは何か、テロ
による死とは何か、ということをリアリズムとして訴えたかったのでしょう。

 映画の最大のポイントは、イスラエル側とPLO側の間で完璧なバランスを取って
いることです。主人公アブナーを中心としたモサドの側を丁寧に描く一方で、PLO
の幹部たちの日常や家族を描き、若者には思いを語らせる、そんな中で感情移入させ
られた登場人物が残忍に殺されていくことで、観客はテロの応酬の恐ろしさを追体験
することになります。

 このバランス感覚というのは、映像としてもきめ細かく計算されています。冒頭に
紹介される『黒い九月』の凶行シーンでは、PLOの視点でカメラを回し、襲う側の
彼等の恐怖感を伝えるような仕掛けを交えているのはその一例でしょう。ありとあら
ゆる演出上の技術を使って、両者のどちらにも偏らないで、最終的には暴力の応酬そ
のもの、紛争そのものが悪だというメッセージを浮かび上がらせることに成功してい
ます。

 1972年の『黒い九月』の凶行は、最初はドキュメンタリー調なのですが、映画
が進行するにつけれアブナーの悪夢という形をとって行きます。その凶行のイメージ
は、アブナーのPLOへの怒りの源泉となるのですが、やがて精神が破綻してゆくと
共に、『黒い九月』事件という悪夢の意味は変化していきます。

 自分の殺人を報復行為として正当化するためには、事件の真相が悲惨なものであっ
た方が良かった、だが、悲惨な殺戮を想像すれば想像するほど自分の精神は痛んでい
く、悪夢はそんな方向へ進んでいきます。その凄惨な内面のドラマが、妻との激しい
抱擁のシーンに重なるのです。エロティシズムと暴力が、これほどの悲しみを伴って
重ねられた例は私は見たことがありません。これまでのスピルバーグ作品とは一線を
画すものだと思います。

 私は公開2日目のクリスマスイブの夕方に、近所のマーサー郡ハミルトン町のシネ
コンで見ました。イブの晩とあって、シネコンはガラガラでしたが、この『ミュンヘ
ン』のスクリーンだけは満席でした。イブの夕方に、こんな深刻な映画に足を運ぶの
はキリスト教徒ではないでしょう。風情からしても、観客のほとんどはユダヤ系だっ
たと思います。その回では、特にお年寄りの夫婦連れが目立っていました。

『マッチ・ポイント』という映画の良くできた予告編の最後に、監督がウディ・アレ
ンだと紹介された時に「ほう」という驚きの声が上がったことからも、それは明らか
でした。アレンは、スピルバーグとはまた別の意味で、ユダヤ系を代表する文化人だ
からです。

 途中までは、イスラエルの風情に見られる微笑ましいシーンなどで笑いが漏れたり、
PLOのテロの様子には息を潜める様子があったりという感じでした。ですが、中盤
に差し掛かって映画の視点が「イスラエルでもPLOでもない真ん中」だという覚悟
が明らかになり、それと共に主人公の精神が追いつめられていくと、観客席は重苦し
い沈黙に包まれました。

 映画の最後は、ブルックリン島のユダヤ系居住区から見た世界貿易センタービルの
「ツインタワー」の遠景で終わります。そのツインタワーのイメージには、主人公ア
ブナーがイスラエルの背を向けてアメリカに託した思いが託されています。同時に、
にもかかわらず、それから30年を経て、このツインタワーが新たな殺戮と報復の象
徴になった事実も静かに訴えています。セプテンバー・イレブンス以降の呪縛を解こ
うという、静かな、しかし印象的な映像です。

 そしてクレジットが流れるのですが、アメリカの映画館ではたいへんに異例なこと
に、席を立つ観客は限られていました。多くの人が、じっと座ってクレジットの流れ
るのを見ているのです。聞こえてきた彼等の会話を総合すると、作品への否定論はほ
とんどありませんでした。事実、映画の途中で怒って出ていった人は一人もいなかっ
たのです。ただ、「若い人に勧めて良いものか……」と悩む声はずいぶん聞こえまし
たが。

 プロの批評は真っ二つです。ロジャー・エバート、ジェームズ・バラディネリなど
の批評家は、スピルバーグの最高傑作という絶賛ですが、中には「スピルバーグは、
才能を失った」とか「ミュンヘン事件を正当化」「悪質なリベラルのプロパガンダ」
などという非難も出てきています。一般の反応でも、ヤフーの映画欄では247人の
投票の結果、平均はB+というのですが、中身を見るとA評価とD評価に分裂してい
ます。

 実際に、イスラエルからは「上映反対」の圧力もあったようです。その圧力に抗し
て、プロデューサーのキャサリン・ケネディは「スピルバーグには沈黙を守ってもら
い、とにかく早めに上映に漕ぎつけて観客の評価に委ねたい」という異例の声明を出
したりもしていました。

 もしかすると、スピルバーグ自身が経営陣に名を連ねていた「ドリームワークス社」
が経営破綻寸前になって、ユニバーサルに買収された背景には、この映画の存在もあっ
たのかもしれません。一般的な解説では、夏の『アイランド』の失敗(大失敗に違い
ありませんが)で経営が悪化したというのですが、ユニバーサルに救済された直後に、
この『ミュンヘン』が慌ただしく公開されたことから、何かあったのかもしれません。
逆を言えば、この映画の公開へ向けて周囲が企業の枠組みを変えるほどの情熱をもっ
て取り組んだということなのかもしれません。

 沈黙を守っているスピルバーグですが、タイム誌がこの映画に関して特集を組んだ
際には、インタビューに応じていました。そして「イスラエルとパレスチナの子供た
ちに、ビデオカメラを配る計画があるんです。それで、お互いの日常を撮影しても
らって、それを交換するんです。そうすれば、お互いが、どんな生活をしていて、何
を着たり、どんな音楽を聴いたりしているのかが分かるでしょう」などと語っていま
した。イスラエル=パレスチナの和解へ貢献しようと、この大監督は本気です。

 現時点では、まだ500館強の限定公開ですが、年明けからは1500館強の拡大
公開になり、1月の最終週からは全ヨーロッパ、そしてイスラエルでも公開になりま
す。どのような反響があるのでしょうか。動きがあれば、この欄でお話ししていきた
いと思います。イスラエルの反応は厳しいものが予想されます。アメリカでも穏健ユ
ダヤ系の超有名人が、メジャーなメディアでここまで踏み込んだ立場を表明したのは
初めてでしょう。様々な反響が出ると思います。アカデミー賞が簡単に取れるとは思
えません。

 日本では、難しい映画なので、アカデミー賞の発表後に話題作りをして公開するの
かと思っていましたら、イスラエル公開の翌週2月4日から公開されるそうです。配
給側も頑張っていると思います。日本という国にとって、イスラエルとPLOの問題
は決して遠い話ではありません。湾岸戦争への戦費支出、イラクへの自衛隊派遣とい
う形でこの地域に関与していること、アラブ諸国の石油資源に深く依存していること、
この『黒い九月』事件の直前には、連合赤軍のロッド空港乱射事件など日本人が直接
関与した歴史もあります。

 また、日本の観客はスピルバーグ監督の良き理解者として知られます。『AI』や
『マイノリティー・レポート』など、SFにしては難しすぎると本国アメリカでは歓
迎されなかった作品も、日本では大成功して結果的に監督を大きく支えてもいます。
その日本で、この『ミュンヘン』は、どのように見られるのでしょうか。幅広い議論
が起こることが期待されます。

 その日本では、いやアメリカでも、リベラリズムというものは、右派の人々から
「自虐」とか「反アメリカ」と言って非難されることがあります。どうして非難され
るのかというと、そう言われる言動の多くには「自分は国家に頼らなくても生きてい
ける」という自覚症状なき「奢り」が見え隠れするからです。ですが、この『ミュン
ヘン』におけるスピルバーグは違います。ユダヤ系という自分のアイデンティティに
誇りを持ち、そのユダヤの文化、イスラエルという土地への激しい愛を持つ、その愛
情のゆえに高い道義を求め、隣人との和解による現実的な生存をと主張しているので
す。そこには、反ユダヤや自虐の観点は絶無だと言って良いでしょう。

 過去のスピルバーグ作品には、人類を代表するかのような気負いが見られました。
ここには、そんな気負いはありません。ユダヤ系という自身の個人的な視点からの表
出に徹した結果、却って人類にとって普遍的なメッセージに到達したとも言えるので
はないでしょうか。辛い作品ですが、私はこの映画を見て、人間の社会に対して希望
を見る思いがしました。丁度、イスラエルでは、パレスチナとの和解へ向けての政界
再編が進んでいます。平和へ向けての静かな希望を感じながら、年の瀬を送ることが
できるのは何年ぶりでしょう。

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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家。米ラトガース大学講師。1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア
大学大学院(修士)卒。著書に『9・11(セプテンバー・イレブンス) あの日か
らアメリカ人の心はどう変わったか』(小学館)『メジャーリーグの愛され方』(N
HK出版)<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140881496/jmm05-22>

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                   melma! : 8,677部
                   発行部数:128,653部(8月1日現在)

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【編集】 村上龍
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