★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ42 > 464.html
 ★阿修羅♪
藤原 正彦 著、「国家の品格」 欧米支配下の野卑な世界にあって、「孤高の日本」でなければいけません。
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/464.html
投稿者 TORA 日時 2005 年 12 月 24 日 14:54:21: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu109.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
--------------------------------------------------------------------------------
藤原 正彦 著、「国家の品格」 欧米支配下の野卑な
世界にあって、「孤高の日本」でなければいけません。

2005年12月24日 土曜日

◆藤原 正彦 著、「国家の品格」 新潮新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106101416/503-8810764-8749562

三十歳前後の頃、アメリカの大学で三年間ほど教えていました。以心伝心、あうんの呼吸、腹芸、長幼、義理、貸し借り、などがものを言う日本に比べ、論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ杜会が、とても爽快に思えました。向こうでは誰もが、物事の決め方はそれ以外にないと信じているので、議論に負けても勝っても、根に持つようなことはありません。人種のるつぼと言われるアメリカでは、国家を統一するには、すべての人種に共通のもの、論理に従うしかないのです。

爽快さを知った私は、帰国後もアメリカ流を通しました。議論に勝っても負けても恨みっこなし、ということで、教授会などでは自分の意見を強く主張し、反対意見に容赦ない批判を加えました。改革につぐ改革を声高に唱えました。アメリカでは改革は常に善だったからです。結局、私の言い分は通らず、会議で浮いてしまうことが重なりました。

数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはさほどのことでもない、と考えるようになりました。数学者のはしくれである私が、論理の力を疑うようになったのです。そして、「情緒」とか「形」というものの意義を考えるようになりました。

そんな頃、四十代前半でしたが、イギリスのケンブリッジ大学で一年ほど暮らすことになりました。そこの人々は、ディナーをニュートンの頃と同じ部屋で、同じように黒いマントをまとって薄暗いロウソクのもとで食べることに喜びを見出すほど伝統を重んじていました。論理を強く主張する人は煙たがられていました。以心伝心や腹芸さえありました。

同じアングロサクソンとは言っても、アメリカとはまったく違う国柄だったのです。そこでは論理などより、慣習や伝統、個人的には誠実さやユーモアの方が重んうさんじられていました。改革に情熱を燃やす人も少しはいましたが、「胡散臭い人」と見られているように感じました。紳士たちはそのような人を「ユーモアに欠けた人」などと遠回しに評したりします。

イギリスから帰国後、私の中で論理の地位が大きく低下し、情緒とか形がますます大きくなりました。ここで言う情緒とは、喜怒哀楽のような誰でも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神からくる行動基準です。

ともに日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきものでした。これらは昭和の初め頃から少しずっ失われてきましたが、終戦で手酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました。なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです。

経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。金銭至上主義に取り懸かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。

戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の「情緒と形」をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。

日本はこうして国柄を失いました。「国家の品格」をなくしてしまったのです。現在すうせい進行中のグローバル化とは、世界を均質にするものです。日本人はこの世界の趨勢に敢然と闘いを挑むべきと思います。普通の国となってはいけないのです。欧米支配下の野卑な世界にあって、「孤高の日本」でなければいけません。

「孤高の日本」を取り戻し、世界に範を垂れることこそが、日本の果たしうる、人類への世界史的貢献と思うのです。本書は講演記録をもとに、それに大幅に筆を加えたものです。話し言葉に品が欠けていたため、ほとんどすべての文章に筆を入れる羽目になりました。晶格なき筆者による品格ある国家論、という極めて珍しい書となり一ました。

二〇〇五年十月 藤原正彦 (P3−P6)


◆トツプ・エリートの会話のネタ

世界のトップ・エリートというのは、そういうことをいきなり訊いてくるのです。イギリスの歴史やシェイクスピアについては決して訊いてこない。日本の文学や歴史についての、非常に具体的な質問をぶつけてくる。だから、日本人としての教養をきちんと身につけていないと、会話がはずまない。

日本のある商杜マンからこんな話を聞きました。ロンドン駐在の商杜マンが、あるお得意さんの家に夕食に呼ばれた。そこでいきなり、こう訊かれたそうです。「縄文式土器と弥生式土器はどう違うんだ」唖然としていると、「元冠というのは二度あった。最初のと後のとでは、何がどう違ったんだ?」そう訊かれたそうです。

その人が言うには、イギリス人には人を試すという陰険なところがあって、こういう質問に答えられないと、もう次から呼んでくれないそうです。「この人は文化の分からないつまらない人だ」となる。すると商談も進まなくなってしまうらしい。

◆英語よりも、中身を

今の七十歳以上の日本人で、英語をうまく話せる人はあまり多くない。海外へ行った彼らの多くは仕方なく、にこやかに微笑んでいました。だから欧米の人たちは、「日本人は何か胸の底に深い物を持っているらしい」と思ってくれました。

ところが最近の若い人たちは、内容は何もないのに英語はペラペラしゃべるから、日本人の中身が空っぼであることがすっかりバレてしまいました。内容がないのに英語だ,つまけは上手いという人間は、日本のイメージを傷つけ、深い内容を持ちながら英語は話せないという大勢の日本人を、無邪気ながら冒漬しているのです。「内容ナシ英語ペラペラ」は海外では黙っていて欲しいくらいです。

初等教育で、英語についやす時間はありません。とにかく国語です。一生懸命本を読ませ、日本の歴史や伝統文化を教え込む。活字文化を復活させ、読書文化を復活させる。それにより内容を作る。遠回りでも、これが国際人をつくるための最もよい方法です。

◆受けるのはワンステップの論理だけ

国民に受けるのは、「国際化だから英語」といった、いちばん分かり易いワンステツプの論理だけです。ある大新聞の世論調査によると、小学校で英語を教えることを、八六%の国民が支持しているといいます。こうやって国民が国を滅ぼしていくのです。

中央教育審議会も文部科学省も教育学者も、いい加減に考えているわけではない。一生懸命、何度も何度も討議して、誠心誠意考え抜き、その末に小学校での英語などという馬鹿げた結論にたどり着いたのです。

審議会なんかに出てくる人たちは、ある意味で日本の知性を代表するような人たちでしょう。本当にそうであるかどうかはともかく。その人たちが、「国際化に対応するにはどうしたらよいか」ということを、論理的に考えた結果がこれです。

こんな例を出さなくても、人間が戦争を繰り返していることを見れば論理の限界なんて明らかでしょう。古今東西あらゆる時代のあらゆる場所で戦争をして、すべての人が「こんなバカバカしいことはない」と涙ながらに反省して、そしてまた戦争を繰り返してきました。どの戦争にも当事者双方に論理がありました。戦争が紛争解決の最善の手段であるかどうかは、いつも的確には判定できなかったのです。

論理的に得られた結論は盤石ではないのです。いったん論理が通るやホッとして、往々にして他のもっと大切なものを忘れたり、他の解決法に目がいかなくなったりするのです。論理は魔物と言えるでしょう。

◆A最も重要なことは論理で説明できない

論理だけでは破綻する第二の理由は、人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明できないということです。もし、人問にとって最も重要なことが、すべて論理で説明できるならば、論理だけを教えていれば事足りそうです。ところがそうではない。論理的には説明出来ないけれども、非常に重要なことというのが山ほどあります。

別の言葉で言うと、「論理は世界をカバーしない」ということです。数学のように論理だけで構築されているような分野でも、論理ですべてに決着をつけることは出来ないのです。

この事実は数学的にも証明されています。一九三一年にオーストリアの数学者クルト.ゲーデルが「不完全性定理」というものを証明しました。

不完全性定理というのは、大ざっぱに言うと、どんなに立派な公理系があっても、その中に、正しいか正しくないかを論理的に判定出来ない命題が存在する、ということです。正しいか誤りかを論理的に判定出来ないことが、完全無欠と思われていた数学においてさえある、ということをゲーデルは証明したのです。

この不完全性定理が証明されるまで、古今東西の数学者は、こと数学に限れば、どんな命題でも正しいか誤りかのどちらか一つであり、どちらであるかいつかは判定できる、と信じ切っていた。ところがゲーデルはその前提を覆したのです。人間の頭が悪いから判定出来ないのではない。論理に頼っていては永久に判定出来ない、ということがある。それを証明してしまったのです。

◆人殺しは悪いこと?

不完全性定理は数学にとどまらず、哲学などにも大きなインパクトを与えました。アリストテレスの時代から、数学においても哲学においても「A」または「ノツトA」というふうに決まっていた。一プラス一は二か、そうでないかに決まっている。三角形の内角の和は百八十度か、そうでないかに決まっている、と。そしてどちらが正しいか今は決められなくとも、いつかは必ず論理的に決めることができる、と信じていた。ところが「どちらとも永遠に決められないものがある」ということが、数学的に証明されてしまったのです。

数学の世界でさえも、論理では説明できないことがある。まして一般の世界では、論理で説明できないことの方が普通です。

例えば、「人を殺してはいけない」ということだって、論理では説明出来ません。十年ほど前にこんなことがありました。日教組の教研集会で、傍聴していた高校生が会の最後の方になって、「先生、なんで人を殺しちゃいけないんですか」と質問した。そこにいた先生たちは、誰一人それを論理的に説明出来なかった。びっくりした文部省が、「人を殺してはいけない論理的理由をパンフレットに作成中」と新聞に書いてありました。読んで笑ってしまいました。

人を殺していけない論理的理由なんて何ひとつない。私に一時間くれれば、人を殺しても良い理由を五十ぐらいは発見出来ます。人を殺してはいけない理由も同じくらい見つけられます。論理的というだけなら、良い理由も悪い理由もいくらでもある。

人を殺していけないのは、「駄目だから駄目」ということに尽きます。「以上、終わり」です。論理ではありません。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明出来ないのです。(P41−P47)


(私のコメント)
学校も冬休みに入り、会社などもクリスマスから正月休みになって、ニュースも冬枯れになりますが、せちがらいニュースを解説しているとだんだん記事も品格が落ちてきてしまいます。マスコミはもっとましな記事を書いてくれれば「株式日記」も品よくしていられるのですが、外国からの圧力や政界からの圧力で報道すべき事がなかなか報道されない。だから「きっこの日記」のようなブログが注目を集めたりするようになるのだ。

私は「きっこの日記」のような情報網がないから、既に公開されたニュースやサイトなどから材料を拾ってきて評論しているのですが、冬休みはネタ枯れなので本や映画などの紹介などしていこうかとおもいます。クリスマスから正月にかけてはボーナスやお年玉などで本や映画などを見る機会も多いかと思いますので、面白いと思ったら買って読んでみてください。

「国家の品格」という本はベストセラーにもなっていますが、大変読みやすく、最近の日本はこれでいいのかと言う疑問に一つの答えを出している。アメリカなどでは論理的に正しい事は正しいと言うことですが、それほど論理に頼りすぎると、間違っている事でも論理的に正しければ間違っていない事になり、論理は絶対ではない。

たとえば人殺しとか売春などはなぜしてはいけないか、論理的に説明も出来ればいいのでしょうが、倫理やモラルなどは論理の世界とはまったく別の世界の話だ。倫理やモラルと言う出発点が異なれば、殺人も正当化できるし、売春だって正当化できる。裁判などでも優秀な弁護士がつけば殺人犯でも無罪にする事ができるのがアメリカの正体だ。

一般的に議論などでどちらが正しいかなどと結論がつく事は少なく、具体的な結果が出てきて始めてどちらが正しかったか分かる事が多い。殺人にしても裁判で完璧な論理で無罪にする事ができても、倫理やモラルでは悪いことは悪いのであり論理の世界とは別の事だ。大規模な殺人行為である戦争だって双方に正当な理由があり、どちらが正しいかは勝った方が決める。これも論理とは別の世界の話だ。

だから論理が万能であり議論で全てが決着付けられるという常識は間違っている。完璧な論理で成り立った理論も出発点がおかしければとんでもない事も起きてしまうのであり、アメリカに留学してアメリカ流の自己主張と自分の論理を押し通すやり方は間違っている。

アメリカは多民族国家だから民族による倫理やモラルの違いはあり、どれが正しいかなど決められないから、国家をまとめるには論理で決着を付けなければなりませんが、日本などでは倫理やモラルなどは長い歴史で定められたものがある。アメリカにはそれがないから論理で決着を付けようとする。

アメリカのこのような野蛮なやり方は世界共通なものではなく、歴史と伝統のある国では倫理やモラルが一応あるから、同じアングロサクソンでもイギリスなどでは論理などよりも習慣や伝統などのほうが重んじられている。しかし日本はアメリカとの戦争で敗れたから、日本の伝統や習慣は悪いものとされて、戦後はアメリカ流の論理が幅を利かせている。

このように戦前の伝統や習慣が廃れてしまえば国家としての品格が失われて、金銭的な価値観が大手を振るうようになり、ホリエモンのような人物をマスコミは持てはやすようになってしまう。それは正しい事なのか、「国家の品格」という本を読んで考えてみて欲しい。アメリカかぶれの人にはぜひ読んで欲しい本だ。

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ       HOME > Ψ空耳の丘Ψ42掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。