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「ユダヤ製国家日本」 ラビ・マーヴィン・トケイヤー (著) 我々ユダヤ人がもっとも感謝すべき人物は東條英機
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投稿者 TORA 日時 2006 年 2 月 15 日 14:59:35: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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「ユダヤ製国家日本」 ラビ・マーヴィン・トケイヤー (著)
我々ユダヤ人がもっとも感謝すべき人物は東條英機

2006年2月15日 水曜日

◆ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史 トケイヤー,ラビマーヴィン(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980365560

◆西洋諸国ではなく日本がユダヤ難民に扉を開いてくれた

関東軍司令部は一九三八(昭和十三)年一月に、「現下二於ケル対猶太民族施策要領」を定めていた。これは、東條参謀長が決裁したものであった。要領は日本がユダヤ人を差別しないことについて、「独逸其ノ他ノ列国二対シテハ我民族協和、八紘一宇ノ精神並二防共ノ大義二遵由スルヲ諒解セシメ誤解ナカラム」(第四項)と、述べていた。当時、日本とドイツは、防共協定を結んでいた。

東條と、樋口と、安江が二万人以上のユダヤ人難民を窮状から救ったのは、〃日本のシンドラー"として有名になった、杉原千畝リトアニア駐在領事代理が首都のカウナスで一九四〇(昭和十五)年七月から九月にかけて、"生命のビザ〃を発行して、六千人以上のユダヤ人難民を救った、その二年以上も前のことである。

三人の日本軍将校と、杉原が、ユダヤ人を救った時には、アメリカや、イギリスをはじめとする諸国が、ユダヤ人難民に対して扉を閉じていた。もし、このころにこれらの西洋諸国がユダヤ人難民を受け入れていたとしたら、その後、数百万人のユダヤ人が、ナチスによって虐殺される運命から逃れることができたことだろう。ところが、日本は扉を開いたのだった。

◆ドイツの抗議を一蹴した東條

オトポールに集結したユダヤ人難民の大多数が、ドイツ旅券を持っていた。旅券には赤い字で大きく、ユダヤ人の"J〃を示すゴム印が、押されていた。ドイツ政府はユダヤ人は子供にいたるまで、衣服にユダヤの象徴である、黄色の"ダビデの星〃の縫い取りをつけることを、義務づけていた。

難民たちはドイツから出国した時に、この屈辱的な縫い取りをいっせいにはぎ取って、捨てていた。すると、ドイツ外務省が日本政府に対して、大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行った。この抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ、すぐに伝えられた。すると、東條参謀長は難民を受け入れたのは、「当然なる人道上いつしゆうの配慮によって行ったものだ」として、一蹴した。

この時、東條参謀長が樋口に許可を与えなかったとすれば、ユダヤ人難民が救われることはなかった。

樋口は有能な軍人であり、その後、東京の参謀本部で部長などを歴任し、中将に昇進した。太平洋戦争の末期には、千島列島と北海道の防衡を担当する北部軍司令官となっていた。樋口がこのように軍人として順調に出世したのは、規則を忠実に守ったからだった。樋口がオトポールに殺到したユダヤ人難民を入境させるのに当たって、参謀長の許可を仰がないはずがなかった。

◆明治以来の日本も、西洋人によるおぞましい人種差別の対象

日本は明治に西洋の列強の威嚇のもとに、開国と近代化を強いられて以来、列強によって屈辱的な不平等条約を結ばされていた。幕末から海外を旅した日本人は、西洋の帝国主義諸国が同じアジアの民を、家畜同様に扱っていたのをみて、深く憤るとともに、人種平等の世界を創ることを、強く願った。日本が最後の不平等条約を改正することができたのは、日本が日露戦争に勝った後のことだった。

日本人も、傲る西洋人によるおぞましい人種差別の対象となっていた。日本が日露戦争に勝つと、その直後からアメリカのカリフォルニア州において日本人移民排斥運動が起こった。このことは、日本国民をいたく憤慨させた。

サンフランシスコ市は日露戦争が終わった翌年に、日本人児童の小学校就学を禁じて、全市の小学校から追放した。全市で二万人以上の小学生がいたなかで、日本人児童は僅か百人にみたなかった。

東條も、樋口も、日本人だったのだ。当時の日本人は、誰もが西洋の列強が公然ともと人種差別を行っていたのを、正義に悖るとみなしていた。東條や、樋口はこのような国民精神にもとづいて、ユダヤ人難民を救ったのだった。一日本人とユダヤ人は、正義をことさらに愛する民である。ここにも両民族のあいだに、もう一つの共通点がある。

◆東條の名が『ゴールデン・ブック』に載らなかった理由

だが、どうして東條英機の名が、『ゴールデン・ブック』に刻まれることがなかったのだろうか。東傑は最高責任者として、樋口や、安江とともに、称えられるべきだった。

しかし、『ゴールデン・ブック』に名を載せるためには、複数のユダヤ人か、あるいはユダヤ人団体が推薦する必要があった。そして、かなりの金額だった五十スターリング(イギリス)ポンドを、ユダヤ民族基金に寄付しなければならなかった。

樋口と安江は、ユダヤ人の逆境に同情して、好意を寄せていただけではなく、特務機関の幹部として、ハルビンのユダヤ民族協会と頻繁に接触していたから、ユダヤ人社会と個人的な交流があった。しかし、東條はオトポールのユダヤ人難民を救う鍵を握っており、その鍵を使って、難民を救うために、満州国の門扉を開いたものの、ユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかった。

その時にハルビンにあった極東ユダヤ民族協会の会長は、医師のアブラハム・カウフマン博士だった。ロシアのウラル地方のパウムの出身だったが、一九二一年に満州へ移ってきたのだった。

◆鍵を握るカウフマンを訪ねる

私はカウフマン博士の息子のセオドア・カウフマンと、親しくしている。セオドアは一九二四年にハルビンで生まれ、そこで育った。今日、八十歳になるがイスラエルのテル・アビブの郊外に住んでいる。

多くのユダヤ人が、ハルビンに住んでいた。第二次大戦後、ソ連軍が満州を占領した後に、ソ連はユダヤ人を嫌ったロシアと体質が変わらなかったからカウフマン一家は苦労したが、しばらく後にイスラェルに安住の地を見出した。

セオドア・カウフマンはテル・アビブの市庁に三十六年問勤めた。今日では、イグット・ヨッエイ・シン(中国在住体験者の会)の会長をつとめている。自宅には、数千枚にのぼる満州時代の写真が保存されている。樋口や、安江の姿もある。

私はイスラエルでセオドア・カウフマンと会って、「どうして東條が『ゴールデン・ブック』入りをしなかったのだろうか」と、たずねた。すると、カウフマンは「もし、東條参謀長が、父や、ユダヤ民族協会の幹部と会っていたとしたら、その名が樋口と安江とともに、一九四一年の夏に、問違いなく『ゴールデン・ブック』に刻まれたはずだ」と、語った。

もしも、そうなっていたとすれば、その後の東條の国際的なイメージが、大きく変わっていたにちがいない。東條は日本の敗戦後に、連合国が行った一方的な東京裁判によって、"A級戦犯"として絞首刑に処せられたが、全世界のユダヤ人たちから助命嘆願書が、マッカーサー元帥のもとに寄せられたことだったろう。そして連合国を、ひどく困惑させたにちがいない。(P44−P54)

◆アメリカの黒人差別がやんだのは日本がアジアを解放したため

当時、アメリカは国内で、黒人を法的に差別していた。黒人に対する差別は、当然のこととして、全国でひろく行われていた。野球はアメリカの国技であるが、黒人が野球選手となれるようになったのは、第二次大戦後のことである。第二次大戦によって日本がアジア諸民族を解放すると、アメリカも国内で黒人を差別することができなくなった。

今日では、西洋諸国において第二次大戦はアメリカや、イギリスをはじめとする「民主主義勢力」とドイツや、日本などの「ファシスト勢力」の戦いだったと信じられている。ドイツはソ連と同じファシスト国家だった。しかし、いったい国の内外で有色人種を差別して、人権を踏みにじっていたアメリカや、イギリスなどの連合諸国を「民主主義国」と呼ぶことができるものだろうか?

日本が第二次大戦を戦った結果として、数世紀にわたって白人の覇権支配のもとに置かれていたアジア・アフリカ諸民族が、鎖から解き放たれた。アジア・アフリカ諸民族は、はじめて陽光をみることができて、自由を回復した。

アメリカもそのために、黒人を差別し続けることが、できなくなったのだった。今日、タイガー・ウツズがゴルフ界のスーパースターとして活躍しているのも、第二次大戦が人種平等の世界をもたらしたからである。黒人がゴルフ競技や、テニスの選手権に参入できるようになったのも、日本の力によるものだった。

◆日本は人種平等の原則に基づいてユダヤ人を応援し続けてくれた!

日本は人種平等の原則に基づいて、ユダヤ民族を一貫して応援してきた。この記録は、日本の国の勲章である。

先の"バルフォア宣言"が発せられると、ベルサイユ講和会議で日本代表団の一員として加わっていた、珍田捨巳駐英大使が、「日本政府はユダヤ人が自分の国家をパレスチナに建設しようとするシオニストの願望を支持し、その要求が実現されることを望む」という書簡を発表している。 (P80−P81)

◆その時、アメリカは民主国家だったのだろうか

アメリカは日本を「民主化」することを大義名分として掲げて、強引に日本を改造することをはかった。これも、歴史の一幕の笑劇だったのかもしれない。
いったい、その時のアメリカは、民主国家だったのだろうか。

アメリカでは、黒人はアメリカ国籍を持つアメリカ人でありながら、一九六〇年代にキング師の公民権運動が歴史的な勝利を収めるまでは、アメリカの多くの州において、白人の洗面所や、便所をともに使うことが許されず、白人専用のバスに乗ることも、白人だけに限られた待合室や、食堂に入ることもできなかった。日本とアメリカのどちらが、「封建的」だったのだろうか。

二〇〇四年にニューヨーク大学出版局から、ノース・カロライナ大学のジェラルレイス・ウオード・ホーン教授による、『人種戦争1』と題する第二次世界大戦についての本が、出版された。この本は、いまや歴史によって埋め去られるようになっている真実に、光を投げかけている。この労作は、日本がアジアの民衆の広範な支持をえて、アジア・アフリカを解放したことを、証している。

著者はインドを一つの例にとって、かつてインド人は「イギリス人の奴隷でしかなかった」のだったと記し、したがって「白人はインド人が何をしても、礼をいうことすらなかった」と、述べている。

そして、白人による不条理な覇権に対する日本の戦いは、第一次大戦後のベルサイユ講和会議から始まったと、論じている。ベルサイユ会議はパリ会議としても知られているが、ここで今日の国際連合の前身となった国際連盟が、創設された。この時に、日本全権団が国際連盟規約のなかに、「人権平等の原則」を盛り込むことを、強く主張した。

ところが、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領が先頭に立って、イギリス、フランス、イタリアなど、アジア・アフリカにわたって植民地を支配していた列強を誘って、日本の提案を拒んだ。アメリカのウィルソン大統領はベルサイユ会議において、"諸民族"の「セルフ・ディターミネイション」(民族自決)の理想を主張した。そのことによって、歴史に名をのこしている。

第一次大戦後、「民族自決」は東ヨーロッパにおいて合い言葉となった。だが、世界の大半を占めるアジア・アフリカは除外された。ウィルソン大統領が提唱した「民族自決」は、白人の諸民族だけに限られていた。当時、アメリカは国内で、同じアメリカ人だった黒人を、法によって厳しく差別していたのだった。

ホーン教授はアメリカの黒人の多くが、「日本が傲るヨーロッパ人や、アメリカ人の命令に従うことを拒んだ、最初の有色人種であることを、大いに誇りにしていた」と、述べている。

教授によれば、一九四〇年代にアメリカ黒人運動のリーダーであった、W・E・B・デュボイスが、西洋の帝国主義について「ヒトラーが百年生きたとしても、それよりもはるかに大きな惨禍を人類におよぼした」と、説いていた。

そして、アメリカ人や、イギリス人が「日本人も、野蛮な劣等民族として見下していた」といい、アメリカは第二次大戦に当たって白人の部隊と、白人が同席してはならない黒人だけの部隊に差別して分けていたと、記している。

アメリカは白人至上主義のイギリスとともに、「民主主義」を旗印として、戦った。教授はそのかたわらで、人種平等の理想を求めて戦った日本が、ナチス・ドイツと同盟していたのは、歴史の大きな皮肉だったと、観察している。

◆日本が戦った結果、アジア・アフリカが解放されたのは歴史の事実

西洋諸国は第二次大戦前まで、あるいは大戦が終わるまで、アジア・アフリカの植民地の人々を劣等な人間として蔑んで、家畜と同様に扱っていた。

日本が先の大戦を戦った結果として、これらのすべての植民地が解放されて、人種平等の理想の正義の世界が、地上にあまねく招致された。これは、誰も否定することができない、歴史の事実である。

人種を肌の色や、宗教によって差別することは、それまで西洋諸国が日常的に行ってきたことだった。だが、今日ではまったく許されないことになっている。ユダヤ人も、人種平等が普遍的な規範となった世界の恩恵を、大いに蒙っている。

◆トケイヤー,ラビ・マーヴィン[トケイヤー,ラビマーヴィン][Tokayer,Rabbi Marvin]
1936年、ニューヨークに生まれたユダヤ人。イェシヴァ大学を卒業後、1968年に来日、日本ユダヤ教団のラビ(教師)となる。滞日十年。現在ニューヨーク州グレートネックに住む。古代日本と古代イスラエルの関わりについて論じた『ユダヤと日本・謎の古代史』(産能大学出版部刊、初版一九七五年)および『日本・ユダヤ封印の古代史』(徳間書店)は様々な本の中で引用され、古代史に興味ある者の間では必読書になった。そのほか、ユダヤ思想、教育論、日本人論等に関する多数の著書がある


(私のコメント)
私は日頃からどうして勝ち目のない戦争に日本が踏み込んだのかについて考えてきたのですが、当時の国民感情がどのようであったのかを考える必要があります。戦前に生まれ育った人は戦争に負けたショックで戦前の事は多くを語ろうとしませんが、アメリカにおける日本人への人種差別が大きな要素になったのだと考えるようになりました。

現在においてもアメリカの大都会では日本人だからといって差別される事はないでしょうが、BSEの疑いのある牛肉を平気で売りつけるようなアメリカ政府の態度には人種差別的なものを感じざるを得ません。アメリカでは特別に飼育された高級牛肉が売られており、それには天然飼料で飼育され、成長ホルモンなどの有害物質は使われていないもので、特権階級だけが食べている。

東條英機への歴史的評価についてはGHQによる歴史の改竄でヒトラーと並ぶ極悪人として日本の歴史教育がなされていますが、このことに関しても大東亜戦争の歴史的評価は後世の歴史家に任せるべきであると書いてきました。私自身は靖国問題などの時に大東亜戦争は人種差別撤廃と植民地解放のための戦争であったと書いてきた。

このような見解は私のような民族主義者の戯言に過ぎないのだろうか。「ユダヤ製国家日本」と言う本は、アメリカ生まれのユダヤ僧であるトケイヤー氏が書いたものですが、まったく私と同じ見解を書いている。アメリカではユダヤ人もいまだに目に見えない差別を受けており、戦前のアメリカは人種差別の中心的国家だったのだ。

アメリカの黒人やインディアンの人権が認められるようになったのも戦後の事であり、ブッシュ大統領が「日本を開放して自由と民主主義を根付かせた」と言う演説はお笑い種なのだ。もし日本が立ち上がらなければアメリカの黒人はいまだに公民権も無かったはずだ。パウエルやライスが国務長官になれたのも日本のおかげである。

東條英機の人物像については連隊長としては優秀な人物であったのだろう。しかし政治家としては素人であり歴史の流れに抗する事はできず、戦争指導もまずかった。また、当時の日本国民は敗戦の責任を東條英機に擦り付けたが、当時は政府や軍部よりも国民世論のほうが強硬であり、反戦運動などはほとんどなかった。なのに戦争に負けると180度態度が変わってしまった。

「ユダヤ製国家日本」という本には、東條英機に対する大胆な評価をしていますが、アメリカ人にも冷静な見方をする人が現れてきたのだろう。ホーン教授の見解も紹介されていますが、「株式日記」でもジョン・ダワー教授の本などを紹介してきましたが、大東亜戦争は人種解放戦争だったのだ。


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