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北朝鮮の深奥を考える! 米国の属国に成り下がった小泉政権に金正日が頭を下げることなど絶対にあり得ない 【行政調査新聞】
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 2 月 10 日 12:54:55: ogcGl0q1DMbpk
 

2005年11月15日

北朝鮮の深奥を考える!
  ――大東亜戦争を継続する国家――
2代目首領・金正日の正体を角度を変えて眺めてみよう。

http://www.gyouseinews.com/international/nov2005/001.html

1年ぶりの日朝交渉、収穫はゼロ

 さる11月3日、4日、北京で1年ぶりとなる日朝政府間交渉が開かれた。日本側は拉致問題、核・ミサイル等の安全保障問題、国交正常化の3点を重点協議として交渉に臨んだが、いずれについても明確な進展はなかった。北朝鮮側は「過去の清算」を前面に出してきたと伝えられるが、収穫としては両国とも「国交正常化交渉再開にとって有益」(宋日昊ソンイルホ外務省アジア局副局長)といったところだった。

 総選挙での小泉圧勝後、外交問題の最大課題であった日朝協議が進んだウラには、これまで田中均審議官が秘密交渉のパイプ役と重宝してきた“ミスターX”に代わり、斎木昭隆(外務省アジア局副局長)が金正哲(金正日の三男)側近とされる“ミスターY”をパイプ役にしたからだとの説も流れている。

 日朝政府間交渉の前には、曽我ひとみさんの夫ジェンキンス氏が自伝『告白』を出版。この書でジェンキンス氏はタイやルーマニア人が拉致されている事実を記述。タイ国政府は外相が北朝鮮大使館を訪れて事実関係の調査を本格化させるなど、関係各国の間でも拉致問題が重要視されはじめている。また韓国の拉致被害者の会「拉北者家族の会」(代表=崔成竜)は「横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュンとは偽名で、彼女の夫は韓国から拉致されたイ・ミンギョ氏だと思われる」との情報を流している。

 11月8日に北京空港を発ち平壌に戻る直前に、宋日昊副局長は、「次回の日朝協議について12月開催を検討する」と述べた。

 翌9日から11日まで北京の釣魚台国賓館で第5回六者協議が再開された。

 今回の六者協議には、日米韓3国の共同提案として「核廃棄行程表」作りが協議されることになっていたが、日米間の調整がつかず先送りされてしまった。米国のヒル首席代表(国務次官補)は、「北朝鮮がNPTへの復帰とIAEAの査察受け入れを果たした後でないと、軽水炉提供を議論できない」としているのに対し、北朝鮮側は「軽水炉の提供なしに、核放棄はできない」と、意見は対立したままだ。議長国・中国の武大偉(外務次官)は11日午後に、「早期に検証可能な朝鮮半島の非核化を目指す」とする声明と、5項目からなる共同声明を発表して六者協議は「休会」となった。

 日本を含めた米・中・露・韓の5カ国が北朝鮮のわがままに翻弄された感じがする。

 11月18日から韓国の釜山でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が開かれるため、六者協議は初めから3日間しか余裕がなかったのである。問題は年内に再開される予定の六者協議で北朝鮮がどのように歩み寄り、5カ国がどう立ち回り、どのような共同声明が発表されるかである。

 いったい北朝鮮は何を考えているのか――。正直なところ、世界中の政府首脳は金正日の思惑を理解できずにいる。かつてこの国を「悪の枢軸」と呼んだ米国ブッシュ政権にしても、自分の掌の中に入ったかと思えばまたスルリと抜け出してしまう北朝鮮に対し、歯ぎしりしていることだろう。

 北朝鮮・金正日王朝とは何なのか? 残念ながら正確に把握することは不可能だ。世界中のあらゆる諜報機関、あらゆるメディアが束になっても理解できない北朝鮮・金正日王朝の実像。――その実像に迫るためには、これまで世界中が行ってきた分析や世界の常識から一旦外れて、まったく別の視点から北朝鮮・金正日に迫ってみるしかない。


中朝蜜月は真実か

 六者協議の開催を直前に控えた10月末、中国の胡錦濤国家首席が北朝鮮を公式訪問した。胡錦濤と金正日の会談内容はもちろん極秘だが、中国側が巨額の長期経済援助を表明したとか、金正日が後継者を説明したとか伝えられている。朝鮮中央放送は、両首脳が二人だけの単独会談を行ったことを明らかにしたうえで、「すべての問題での見解の一致をみた」(10月28日)と放送し、その蜜月ぶりを内外に誇示した。

 じっさい、歓迎宴での親密ぶりはたいへんなものだった。金正日は胡錦濤に、「最も尊い国賓」と最大級の賛辞を贈り、「わが国が厳しい試練を経たこの10年余、変わらない信義と友愛の情で物心両面の支援を誠意の限り贈ってくれた」と謝意を述べたほど。胡錦濤もこれに応えて、「中朝親善強化はわれわれの確固不動の戦略的方針」と言明。国際舞台での協力について、「共同の利益の守護で意見が一致した」と語っている。

 中国と北朝鮮の蜜月ぶりについて韓国では、「中国が投資などで北朝鮮の安定化を図り、核問題の緊張を緩和し、地域安保を主導しようとしている」との見方が一般的だ。それだけでなく、衆院選で圧勝した小泉政権が米国と一体化をますます強化していることに対する焦燥を、中国はたしかに持っている。強化された日米同盟に抗するためにも、中国は北朝鮮をうまく操らなければならない。

 だが、中国と北朝鮮の間には、歴史認識――「渤海国」を中心とした軋みが数年も続いている。そこには、経済(カネ)の問題より遥かに重要な領土の問題が存在しているのだ。

(中国と北朝鮮の歴史認識――「渤海国」をめぐる話題に関しては本紙2004年2月21日号『東アジアに迫る激変!中国は、朝鮮半島は、そして日本は?』に簡単に記述されています。ぜひご参照ください)

 中国は2002年(平成14年)7月に、中国社会科学院の内部に「中国辺疆史地研究中心」を立ち上げ、5年間 200億元(約2900億円)を投入すると発表している。この莫大な時間とカネはすべて、渤海を中国の一地方史に繰り入れる理論作りのために費やされるものだ。


古代朝鮮史

 中国と北朝鮮の軋みの代表例とされる「渤海国」。渤海という国は高句麗の民が興した国家である。渤海を理解するためには朝鮮半島史の解説から始めなければならない。

 今から2000年も昔、紀元前後の頃、半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの国と、北部に中国の郡県である楽浪郡が存在した。その後、4世紀から7世紀にかけて三韓時代となる。三韓とは、高句麗・新羅・百済の3つの国と任那(加羅)、耽羅が存在した。

 (耽羅とは現・済州島。5世紀には百済に服属。任那は日本や中国の呼び名。韓国では加羅または伽耶と呼ぶ。任那には大和政権の出張府があったというのが通説。韓国側は任那の属国であった大和が独立して日本になったと主張している)

 この三韓時代の3つの国、高句麗・百済・新羅の民族について眺めてみよう。

 新羅はモンゴロイドで、使用言語は古代朝鮮語だった。このことから新羅の民が原朝鮮族だったとの推測が一般的だ。

 いっぽう高句麗・百済の民は北方からやって来た扶余系ツングースの民であった。大和民族の親戚筋にあたる民である。彼らはまず中国の出先機関だった楽浪郡を滅ぼし、朝鮮半島北部から中国大陸東北部(旧満洲)にかけてを高句麗が、半島南部を百済が制圧した。高句麗・百済の民は言語、文化、習俗、歴史を共有していたが、それは新羅のものとはまったく異質だった。

 百済は倭(日本)と盟友国であり、また百済と高句麗も同族関係にある。そこで、高句麗・百済・倭の3国連合と新羅は絶えず反目しあい、小競り合いを繰り返していた。

 4世紀末に高句麗は好太王の時代を迎える。好太王の在位は 391年〜 412年。広開土王(領土を広げた王)とも称される通り、この時代に高句麗の領土は拡大された。北西に進出した高句麗は旧満洲全域からモンゴルにまでをその勢力下に置き、モンゴル系の契丹族とも手を結ぶ。さらに南進も繰り返し、ついには同盟国の百済と衝突。百済と盟友関係を結んでいた倭(日本)は対高句麗戦に参戦した。この事実は鴨緑江岸(現吉林省輯安県)に立つ「好太王碑」に記されている。

 巨大帝国・高句麗は、たびたび中国を脅かし、6世紀末( 598年)には隋に対し本格戦を仕掛けている。だが7世紀に入ると隋が勢力を拡大。周辺諸国を制圧平定した隋の煬帝は、ついに長年の仇敵である北夷・高句麗を叩くべく大軍勢を仕立てて敵地に向かう。 611年のことだ。だがこの遠征戦は失敗。続いて翌 612年、隋による第二次高句麗遠征戦が仕掛けられたが、これもまた失敗。最後に隋は 614年に、総勢 200万人の大軍団を率いて高句麗に挑む。しかし高句麗軍は勇猛果敢だった。隋の大軍は次々と撃破され、また包囲殲滅されてしまった。隋による第三次高句麗遠征戦では、200万人の軍勢のうち生きて戻ったのはわずか2000余人だったと記録されている。

 3度にわたる高句麗遠征に失敗した隋は、国力が疲弊し、第三次高句麗遠征戦の4年後、滅亡してしまった。隋に代わって中国を制圧・統一したのは唐である。

 朝鮮半島では4世紀に辰韓を引き継ぐ形で表れた新羅が国力を伸ばし、第23代の王・法興王(在位 514〜 540年)の代には国家体制が整い、急激な発展をみせていた。新羅の拡大を危惧した百済は、高句麗と同盟を結び新羅を攻めるようになる。そこで新羅は唐に救援を求めたのだ。

 当時の唐の皇帝は2代目・太宗。太宗は新羅からの救援要請を重要視したわけではなかった。それでも新羅に恩を売るように高句麗を叩こうとする。それはあたかも隋の遺志に魅かれるようなものだった。唐の皇帝・太宗は 644年に第一次高句麗遠征戦、翌 645年に第二次遠征戦、 647年に第三次遠征戦を繰り返すが、その度に撃退され敗走を重ねるばかりだった。中国の歴史上ベスト3に入るとされる太宗も、中国大陸の統一はできたものの高句麗には勝つことができなかったのだ。

 だが、隋、唐との度重なる戦争で高句麗も疲弊していた。

 隋以来の長年の宿敵・高句麗を討つために、唐は最後には本格的に新羅と手を結ぶ。そして唐・新羅連合軍は背後の圧力を取り除くために、まず百済に侵入した。660年のことである。当時、倭(日本)は百済と同盟を結んでいたので、直ちに半島に軍隊を出撃させる。そして 663年、有名な白村江の戦いで、倭・百済連合水軍が、敗けるはずのない戦に大敗を喫してしまう。この戦に敗けたことで倭は半島から撤退を余技なくされた。

 百済を倒し、倭を半島から排除した唐だったが、すぐに高句麗に攻め入ったわけではない。高句麗の脅威は、なお唐を脅かしたままだった。

 名皇帝・太宗の後を継いだ唐の3代皇帝・高宗は優柔不断な人物だったが、太宗が基礎固めをした唐の国を何とか無事に治めることができた。そして皇帝に即位して17年目の 666年、新羅と組んで高句麗との戦争を開始する。そして 668年、唐・新羅の連合軍は高句麗を挟撃してこれを滅ぼしてしまった。

 高句麗が滅亡したところで、新羅は朝鮮半島全土を支配することになった。

 北朝鮮の金正日はこの歴史に注目し、新羅を猛烈に非難している。

 新羅は外国勢力である唐を引き入れ、偉大な祖先の国を滅ぼした。卑劣な事大主義外交の極みであると。

 金正日がなぜ今日、新羅をこれほど非難しているのかを熟慮する必要がある。


渤海国の出現

 唐の皇帝・高宗は宿敵・高句麗を滅ぼしたものの、この強敵が復活することを極端に恐れた。そこで高句麗の王族、王族に繋がる一切の民を虜囚として、営州(現・遼寧省朝陽市)に強制移住させ、高句麗の再興の目を絶った。

 ところが28年後の 696年5月、多数の高句麗人を強制移住させていた営州で、契丹人である李尽忠が反乱(孫万栄之乱)を起こす。この反乱には契丹人だけではなく、強制移住させられていた北方少数民族や高句麗の遺臣も加わっていた。

 反乱に慌てた唐は、大軍勢を反乱軍鎮圧部隊として営州に派遣する。鎮圧軍は契丹人、靺鞨族(まつかつ=北方ツングース系少数民族)など北方民族を制圧したが、高句麗や靺鞨をまとめて反乱を首謀した首領・乞乞仲象(こつこつちゅうしょう=後の大祚栄)の討伐に失敗してしまう。――高句麗遺臣たちにとって、唐の軍勢との戦いに勝利することは、それほど難しいことではなかったのだ。

 乞乞仲象は高句麗遺臣たちと共に営州を逃れ、遼河を越えてさらに東に向かう。唐の軍勢が彼らを追討してきたが、遼河越えでこれを迎撃して殲滅。その後、中国東北部(現在の吉林省延辺州朝鮮族自治区敦化市付近)に移動し、ここに敖東(ごうとう)城を都とする「震国」を建国したのだ。 698年のことである。

 唐の皇帝・高宗は高句麗の強さを理解していた。少数ながら勇猛果敢で智略に富み、数倍、数十倍の数を誇る唐の大軍と対峙しても絶対に引くことのない高句麗の末裔たち。その高句麗の末裔が作る震国を征討するよりも、彼らに独立を認め、懐柔するほうが得策だ――。

 生まれたばかりの国家・震国もまた、唐との全面戦争を望んではいなかった。唐の高宗の求めに応じ、属国として朝貢することを了承したのだ。震国誕生から15年後の713年、唐は大祚栄(乞乞仲象)を渤海国王に任命し、国号も震国から「渤海国」と称するようになったのである。

 金正日や北朝鮮政権中枢の一部が、中国に対して剥き出しの嫌悪感を露にすることがある。また、中国に対して嫌がらせや反抗的な態度を見せつけることが度々ある。その態度は、大国中国に対して余りにも大胆、あまりにも無礼に思える。今回の六者協議で中国の武大偉外務次官が提案した議長声明に対しても、北朝鮮は尊大とも思える対応しか採らなかった。

 北朝鮮の祖先である高句麗、それを引き継いだ渤海国は、低俗で野蛮な中国文明に苦しめられ、また中国を何度も何度も撃退した。中国に対する生理的嫌悪感を持ちつづけ、そして中国に対する自信を漲らせているのが金正日一族なのだ。

 そしてまた、中国にとって東夷の属国のような存在である高句麗、渤海に、何度も何度も手痛い敗北を喫したということは、拭いようのない歴史の汚点であり、このうえない屈辱なのだ。長引く六者協議だけではなく、これまで度々、北京政府が北朝鮮・金正日王朝の扱いに手こずっているのは、過去のこうした歴史をどこかで引きづっているからだ。金正日の反抗的な態度に対し、列車爆破事件などで威嚇をしてみせながら、どこか及び腰なところがあるのは、北朝鮮は制御できないという歴史コンプレックスがあるとさえ考えられる。DNAの奥深くに残された恐怖心と言っても良いのかもしれない。


渤海国と日本の関係

 渤海の初代国王・大祚栄が亡くなったのは 718年。日本では『古事記』( 712年)『日本書紀』( 720年)が成立した頃である。

 大祚栄の後を継いだのは長男の大武芸(武王)だった。大武芸は高句麗の勇猛果敢ぶりを一身に集約したような巨人で、旧高句麗民族だけではなくツングース系靺鞨族のすべてを支配下に入れようと武略を進めた。当然ながら渤海の版図は拡大され、国家はますます隆盛をきわめるようになる。だが、辺境の靺鞨族のなかには渤海に服従しない民たちも存在した。とくに強力だったのが、現中国東北部からロシア南部にあたる地域を治めていた黒水靺鞨だった。彼らは松花江より北方を地盤としていた。ちなみに松花江とは黒龍江(アムール川)の支流で、古代中国では黒水と呼ばれる。

 渤海に従わない黒水靺鞨は、唐にとっては貴重な存在である。これを取り込もうとする動きが活発化する。そうしたなか、黒水靺鞨の大首領・倪属利稽(げいぞくりけい)が唐の都(洛陽)を訪れたのを機に、唐は倪属利稽を外臣とし、黒水靺鞨の地を唐の一部の「渤利州」として倪属利稽に治めさせたのだ。さらに倪属利稽に続いて越喜靺鞨、鉄利靺鞨、払涅靺鞨といった北方ツングース少数民族も続々と入唐。ついに726年、唐は靺鞨族一帯の地を「黒水州」という大きな属州にまとめ、渤海に対する圧力を高めていった。

 唐と結んで渤海を脅かす黒水靺鞨(黒水州)に対し、好戦的で野心家だった2代渤海王・大武芸が黙っているわけはなかった。

 黒水州誕生の翌年、すなわち神亀4年( 727年)12月末、平城京(奈良)に貂の毛皮など豪華絢爛な土産を持参した渤海国の使節がやってきて、ときの帝・第45代聖武天皇に国書(親書)を手渡している。国書の内容は以下の通りだ。

 「武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好。」

 渤海と日本(大和政権)との関係はその後 200年にも及び(延長7年 930年1月まで)、37回もの使節が来朝している。この関係は明らかに軍事同盟だったが、大国・日本に属国・渤海が朝貢してきたことに対し、大和政権側も大喜びだったようだ。(大王天朝受命=日本の天帝から支配権を授与された渤海という意味。)

 だがこの国書で最も注目すべきは、その直後にある「本枝百世」。これは日本と渤海はかつて1つの国だったという表現。つまり「扶餘」という原初的国家が存在し、それが「高句麗+南扶餘」に分裂、高句麗が渤海となり、南扶餘が百済と日本になったという表現なのだ。この表現の解釈法によっては、大和政権は朝鮮半島出自と読み取ることも可能。韓国系の学者などが大喜びして引用することもあるが、少なくとも韓国の祖先にあたる新羅とは無関係だ。ちなみに日本人と渤海人は、中央アジア起源の天孫族の末裔という意味では間違いなく兄弟民族である。

 そして渤海国王・大武芸は国書の最後にこう記している。「永敦隣好」――日本と渤海は未来永劫、隣国として兄弟国として仲良くやっていこうと。


東亜大乱

 渤海が平城京の聖武天皇に初の国書を手渡した翌年、大武芸は唐と組んで渤海を脅かす黒水靺鞨の掃討を弟の大門芸に命じる。ところが勇猛果敢で好戦的な兄と違って、弟・大門芸は臆病であり、巨大国家・唐に恐れをなしていた。兄の命令に従わず、挙げ句に唐に亡命してしまう。さらには唐の玄宗皇帝に、兄に代わって自分を渤海の国王に任命するよう請願する。

 唐、黒水州の脅威など大武芸には通用しない。大和政権と同盟を結んだ6年後、弟・大門芸の亡命から5年後の 732年、渤海は南下して唐の領土・山東半島を攻める。唐の玄宗は山東に侵出してきた渤海軍掃討のために大門芸を派遣するいっぽう、新羅軍を動かして側面から攻撃を開始した。だが、平壌まで上った新羅軍は大雪に遭遇して進軍を諦めてしまう。
  翌 733年、渤海・契丹同盟軍は馬都山に唐軍を攻め、さらに刺客を放って弟・大門芸を暗殺しようとしたのだ。

 大武芸と大門芸の兄弟喧嘩が東アジア全域に波乱を呼び起こそうとした。

 これを異常事態と考えた唐の玄宗は、最終的に国書を以て兄弟の道を説いた。玄宗の国書を見た大武芸もやっと平常心を取り戻し、 735年に弟・大門芸を許し唐と和解する。

 しかしこの間の武略により渤海の評価は高まった。

 王位継承について唐の介入などを絶対に許さず、周辺諸国と違って独自の年号を使用し、また日本(大和政権)と同盟を結ぶなど、北東アジアの要衝国家としての地位を揺るぎないものに仕上げたのだ。

 かつて金正日は『三国統一問題を再検討するについて』という論文を発表している(1960年10月29日)が、このとき以来今日まで、金正日は「渤海こそわが先祖」と憧れを隠さない。「力には力を。強硬には超強硬で対応!」という、現在の北朝鮮恫喝外交は、まさに最大限に国益を引き出す手段なのだ。いや、そればかりではない。国民の不満を逸らせ、偉大なる首領様を神格化させる最高の手法であることを、金正日は理解している。

 渤海国の2代目国王は勇猛果敢、好戦的な野心家・大武芸だった。そして北朝鮮2代目最高指導者・金正日は大武芸に憧れ、性格も似ているところが多々見られる。――金正日と北朝鮮当局が、渤海国の歴史全般を深く研究していることは知られているが、彼らは大武芸を「理想の指導者像」と見なしているのではないだろうか。

 超大国・米国、隣国である巨大国家・中国。これらを相手に回し、無謀とも思える強硬姿勢を貫き通し、欧米思想を撥ね返してアジア文化を死守する北朝鮮。現在の北朝鮮体制の基礎を作った金日成の片腕・金策が旧日本軍の明石機関に通じていたとの噂は、研究が進につれ真実味を増してきている。それは即ち、北朝鮮がなお、中国、米国を相手に大東亜戦争を貫徹していると考えることも可能なのだ。

 世界中の研究者たちが不思議に思っている、金正日の日本文化好み。なぜあれほど日本文化に憧れるのか――。その謎解きは北朝鮮成立の基礎固めをした金策という人物と、金策の背後関係にあるのではないだろうか。

 この脈絡で読み取るならば、米国の属国に成り下がった小泉政権に金正日が頭を下げることなど絶対にあり得ないという結論になる。

 北朝鮮事情を読み取る際に、以上の視点を加味してみると、これまでとは違った東亜情勢が見てとれるのではないか。

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