★阿修羅♪ > アジア3 > 390.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
2005/12/12
http://www.janjan.jp/living/0512/0512106206/1.php?PHPSESSID=226e06ae3792cff5d78f1a3d10969f56
--------------------------------------------------------------------------------
12月10日(土)に東京・永田町の社会文化会館で、南京大虐殺の生存者による証言会があった。
南京大虐殺について
南京大虐殺については、すでに何度も話してきたが、日中戦争の最中、1937年12月から1月にかけて、当時の中国の首都南京とその周辺で数十万人単位の人々が旧日本軍により虐殺された事件だ。虐殺された人々の中には、投降した兵士、女性、子供などの一般市民も含まれる。中には、便衣兵(平服を着替えたゲリラ兵)と間違えられ殺された市民もいた。
南京虐殺の歴史的背景をスライドで解説。
殺戮とともに日本兵による性暴力も頻繁に行われ、中には性病で死んだ女性もいた程だ。この事件を巡っては、「つくる会の教科書」はもとより、様々な書籍や雑誌で「まぼろし説」が流布されているが、それは事実誤認と憶測によって創りあげられたものであることは以前の記事で説明した。ほとんどは非専門家による情報源を明示せず、都合のいい部分だけを強調したイデオロギーと歴史認識を混同した結論ありきの代物である。
通訳者と陳広順さん
記事を書くと決まって気付いたことは、繰り返しのように「まぼろし説」を唱える人がいる一方、なぜ、こんな大虐殺が起きたのかという質問をする人々も意外に多い。理由は大きく2つある。1つは、大部隊を短期間に出兵させたため、物資などの補給が追いつかず、兵士自らが占領地で略奪をしてまでも食料などを調達しなければならなくなり市民に被害を与える結果になったことと、もう1つは、激戦と軍隊内での厳しい階級制度から主に下級兵士達が人間性を失い弱い市民を自らの欲求不満のはけ口にせざる得なくなる状況に陥ったことだ。南京に限らず、現代の戦場でも起こっている現象である。
陳秀華さんと中国青年報の記者、載袁支さん
証言集会の案内は、埼玉新聞と毎日新聞の地方版で取り上げられたため、多くの人々が集まっていた。まず、南京大虐殺に至るまでの歴史的背景と、最近発見された旧日本軍陸軍第百一師団所属の元兵士・故今村守之氏が残した日中戦争の生々しい記録写真を主催者である「ノーモア南京」の会の人が説明。日本刀で中国人が殺される直前の姿など含まれており、写真は戦場の生々しい光景を物語っていた。
周辺地域の被害について
その後、中国から新聞記者の載袁支さんが講演。南京大虐殺に関しては、南京市内でのことはかなり研究されてきたものの、周辺地域の被害についての研究は十分でないことから、最近ようやく周辺地域の住民からの聞き取り調査により、実態が、まざまざと分かってきたことなどを報告した。
載さんが調査した湖山村というところでは、61人の村民が虐殺され、その中には三歳の子供も含まれていたと語った。また、日本兵は村民の衣服に糞や尿をかけるなどの嫌がらせをして苦しめたということが分かった。このことは、イラクにおいて米兵がしている行為に非常に似通っており、古今東西、戦場における蛮行のパターンというものが変わらないことを知らしめた。
二人の生存者が問いかけるもの
次に、中国の南京から来られた2人の生存者による証言が始まった。最初に話をしたのは、陳広順(85歳)という方で、目の前で自分の村人が虐殺されるのを目撃したことを事細かに涙ながらに語った。日本軍が自分の家に押し入り、食料を奪った上、奪った食料を自分に運ばせたこと、23人もの村民が校庭に集めさせられ機関銃で撃ち殺されたかと思うと、その後に、銃剣で倒れた人々を息の根を絶つため刺していったこと。
数ヶ月経って、村人の埋葬をしようとしたが、腐乱してぼろぼろに崩れてしまい、その上、村が焼き尽くされたため、棺桶を作ることさえままならなかったこと。自分は運良く助かったものの、その記憶が決して脳裏から離れず、これまでつらい思いをしてきたこと。まるで、それが68年もの昔とは思えないほどに刻銘に語り続けた。
次に話したのは、陳秀華さん(77歳)という女性で、母親が目の前で殺され、自らも被弾したことなどを語った。日本兵から身を隠すため便所の穴に潜ったこと。母が死んだことで兄弟で3日3晩泣き崩れたこと。大黒柱だった母を失ったため、苦しい生活を強いられ、13歳の時に労働力として嫁入りしたことなどを語り、語る中で、陳秀華さんは日本軍のことを「鬼」とか「奴ら」という風に呼んだ。陳秀華さんにとっては、「日本」という言葉だけでも、憎しみがこもるほどで、日本に来て証言をすることはとても辛く勇気のいることであったことを知らされた。
未来の我々の位置づけ
証言会が終わり、会場を出た私には、平和な日本の首都の姿があった。近くに国会議事堂があり、この一帯は、静かで銀杏の街路樹が並び、さっきまでの証言で聞いた世界とは正反対の様相が印象的であった。
だが、正反対のようで無関係ではない。日本の国会議事堂こそ、軍部と共にかつての侵略戦争を押し進め、証言に立った人々のような被害者を生み出したところである。その上、60年間に及び、その責任を曖昧にし続け、苦しみを癒すどころか、両国民の間の溝を広げるばかりとなった。そして、これは日本と中国の問題だけではないほど深刻なことである。
アメリカの大学に留学したことのある筆者は、大学で取った歴史の講義で、日本人であるがため講師から叱責を浴びた経験がある。それは、たまたま、その時、日本の閣僚の一人が「南京虐殺はなかった」と発言し、アメリカでも報道されたからだった。日本人はいつまで自らの歴史を曖昧にし続けるのかと問われた。ごまかしても駄目なのである。世界が知っているのだから。
過去のことに決着をつけるということは、未来の我々の位置づけをすることでもある。平和は祈っているだけでは維持できるものではない。平和が崩される時が、どんな時であったかを知らなければならない。そして二度と同じ過ちを繰り返さないことを自信を持って言える私たちにならなければいけないのだ。
そんな意識を全ての国民が共有できればいいのだがと、帰り道つくづく思った。
◇