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インド社会政策の実施に立ちはだかる壁
ジョツナ・サクセナ(Jyotsna Saksena)
フランス国立東洋言語文明研究所教員、パリ
訳・ジャヤラット好子
http://www.diplo.jp/articles05/0511-2.html
インドのシン首相は、国営企業バーラト重電機公社(BHEL)の株式10%の売却を最終的に取り止めた。2004年5月に発足した国民会議派主導の少数与党政権に閣外協力する左派諸党から(1)、激しい突き上げに遭ったからだ。また同様に、業績絶好調の公営企業群、いわゆるナワラトナの資本公開を中止すると左翼戦線に伝えた。
この決定の意味は、統一進歩連合(UPA)による連立政権と左翼戦線が交わした全国共通最小限綱領(NCMP)への重大な違反となる計画が、これによって放棄されたということだ。2005年6月の民営化計画の発表後、綱領に署名した政党間の調整委員会から離脱していた左派諸党は、この10月になって委員会に復帰した。
この綱領には、6つの大原則が示されている。あらゆる原理主義と闘い、政教分離の確立によって社会的な調和を推進すること。雇用促進のために少なくとも年間7%から8%の経済成長を確保すること。農民と労働者、なかでもインフォーマル部門における福祉を改善すること。女性の権利を強固にすること。「下位カースト」や「その他の後進階級」、部族民および少数派宗教徒に対し、教育と雇用における機会の平等を保障すること。国内のあらゆる生産力の活性化と良質の統治を可能にすること。これらの原則のそれぞれに関し、取るべき施策が詳述されている。
現政権は、原油価格の上昇や津波被害があったなかで6.9%の成長を実現したと胸を張る。NCMPの実施のために2500億ルピー(約6500億円)の追加予算、すなわち農村開発予算の47%積み増し(2004会計年度当初予算比)、福祉事業予算の49%積み増しを計上したと強調する。シン首相は政権2年目を迎えるにあたって、320億ユーロ規模の「農村開発大計画」を発表した。首相に批判的な人々は、さまざまなニーズに加え、NCMPが掲げる目標に照らしてみても、まだ予算が足りないと嘆く。
NCMP実施の難しさを何よりも示すのが、農村部の各世帯に年間最低100日間の労働日数を保証するという約束だ。雇用保障法(EGA)と呼ばれる意欲的なこの施策は、政権発足から100日以内に実施されるはずのところ、期限を1年過ぎた2005年8月25日にようやく法案の可決を見た。しかし、法案成立までの経緯から窺えるのは、むしろ議会多数派内部の緊張関係である。当初の法案に規定されていた内容は、NCMP実施のために設置された国家諮問評議会の勧告とはかけ離れていたからだ。つまり、対象が貧困ライン以下の世帯に限定され、最低賃金も定められていなかった。地域単位の就労プログラムを政府の意向しだいで取り止めることができ、最初に587県のうち150県で開始したあと、後日に対象地域を拡大する義務もないと記されていた。
しかし、この及び腰の法案でさえ、2004年12月に国会に提出された際に、国民議会(下院)の常任委員会による審議から先に進まなかった。2005年5月に大規模な民衆デモが起きてようやく(2)、農村開発委員会が政府法案の積極的な修正を勧告したのである。
新法は、農村部の各世帯に絶対的な最低所得を保障し、一日60ルピー(約155円)の法定最低賃金を定め(3)、このプログラムを5年間でインド全土の農村に拡大することを政府に義務付けている。原則的に、受益者の30%は女性でなければならない。また、プログラムの運営は地元の選出団体に委ねられる。その反面、所得保障を個人単位に広げるべきだという委員会勧告は採り入れられず、一世帯につき一人に対する保障しか規定されていない。
数字の辻褄合わせ
さらに、今のところ財源の確保にはまったく目処が付いていない。専門家の見積もりによれば、EGAには毎年46億5000万〜83億6000万ユーロが必要であるという。ところが、2004会計年度において、EGAの前身たる「労働の対価としての食糧援助(フード・フォア・ワーク)」プログラムの予算が3億3440万ユーロだったのに対し、2005年度でも10億ユーロに増えたにすぎない(4)。2005年度における農村雇用促進のための予算全体をとっても見込み額は16億7000万ユーロ(前年度は10億ユーロ)にすぎず、EGAだけの必要金額にもほど遠い。
財源確保の問題は、優先度が高いはずの他の分野にも及んでいる。たとえば、保健分野の今年度予算は18億9000万ユーロ(昨年度は15億6000万ユーロ)であるが、NCMPに従うなら、これを現行議会の任期末までに国内総生産(GDP)の2〜3%に引き上げなければならない。2005年度の予算編成の基礎となったGDPの予測額と掛け合わせれば、金額にして年間130億〜195億ユーロに相当する。また、初等教育分野の予算は14億4000万ユーロあまりにすぎず、学校給食の予算6億1300万ユーロを加算しても、議会の任期末までにGDPの6%に持っていく目標とはやはりかけ離れている。
いまだ不充分なものでしかない上記の予算金額でさえ、数字の辻褄合わせがなければ実現できなかった。それもそのはずなのだ。経済面と税制面で自由主義路線に大きく舵を切っている現行政府は、減税と財政赤字削減を同時に進めようとしている。企業への課税率を35%から30%に引き下げ、ほとんどの事業者にサービス税を免除、さらに所得税も下げるという予算が組まれている。
インド国内で贅沢品とみなされる商品(エアコン、タイヤなど)に対する付加価値税(VAT)も、24%から16%に減税された。多数の製品にかかる関税も同様で、最大税率が20%から15%、一部製品については15%から10%、さらには5%に引き下げられた(5)。諸税がGDPに占める割合はたかだか9.8%にすぎなかったにもかかわらず、である。その一方で、インド人民党(BJP)連立政権が退場となる直前に可決され、統一進歩連合によって2004年7月に施行された「財政責任と予算管理に関する法律」によれば、2008会計年度までに財政赤字を削減し、GDPの3%以内に抑えなければならない。企業や高所得世帯に気前良く減税を施しながら、徹底して赤字削減を進めるという状況下で、どうやってNCMPの財源を一部なりと捻出できるというのだろうか。
数字の辻褄合わせとは要するに、いくつものテクニックを使って不足を隠蔽するということだ。昔からありがちな手法として、政府は会計年度末に歳出を調整できるだろうと当て込んで、歳入予想額について楽観的すぎる数字を挙げる。このテクニックがNCMPの計画に使われていないという保証はない。
政府はまた、予算以外の手段も積極活用ということで、支出の一部を公法人に移管した。たとえば、インド食糧公社(FCI)は「労働の対価としての食糧援助」プログラムに対し、金額にして9億3017万ユーロに相当する5000万トンの食糧を供給する義務を負う(このおかげで財務相はプログラムの予算額が実質的には19億3000万ユーロ規模に達すると主張できた)。ところが、この移管によってFCI自体の赤字は悪化してしまい、今のところ補助金で補填されている。将来、補助金は削減すべしという自由主義の教義のもと、FCIがきれいさっぱり解体されることにならないとも限らない。経済学者のプラバト・パトナイクは次のように指摘する。「公法人を通じて(・・・)財政赤字が拡大したとしても、それと並行して公法人の保護策が取られれば問題ではない。しかし、そうした策が取られるとは言い切れない(6)」
さらに、赤字の一部を州政府に移管するという手段もある。これまで州政府の計画の資金は中央政府の国債によって調達していたが、今後は各州が市場から直接借り入れを行う。投資の規模は各州の資金調達能力しだいとなり、大部分が州の所轄となっている農業部門への打撃は大きい。中央政府の予算における農業関連予算の規模を見れば、影響の大きさのほどがわかるだろう。大幅な増額(昨年度の8億5660万ユーロに対して今年度は11億5000万ユーロ)だとはいえ、ほとんど取るに足りない数値でしかない。
異論はあれど
こうした計算上のトリックは、政府が自由主義的な改革とNCMPの約束事項の(少なくとも部分的な)実施を同時に進め、「公平感のある経済成長」を推進するのに成功したという錯覚を与えるかもしれない。しかし、それで人目をくらますことはできない。
政府と反自由主義的な批判勢力との間に、見解の不一致が広がっている。それは、最近ブレーキがかけられた公共事業民営化の問題だけでなく、外国からの直接投資の問題にも関わっている。財務相が国会に提出した経済報告では、この分野の奨励策の強化が勧告されていた。左派勢力はこれに一義的な反対は唱えていないが、生産力向上、雇用創出、そして技術進歩への寄与といった点に配慮した投資規制を求めている。外国投資の上限が、保険業(26%だったのが49%へ)や銀行業(法案は準備中)のような部門で引き上げられている現状は、とてもそうは言えない。労働市場の柔軟化を推進するという法案は、これまでも最低限の保証さえなかっただけに、さらに激しく批判されている。
昨年の成長率が工業分野では8%以上だったのに対して、農業分野では1.1%でしかない。この農業分野に関して財務相の報告書は、市場の規制緩和を強調し、補助金で成り立っている農業から、世界貿易機関(WTO)の方向性に適った「国際競争力のある農業」への変革に着手すべきだと勧告している。
こうした政府方針に対する異論に加え、象徴的な意味を持つ別の施策が進んでいないという不満もある。それらの施策の実施には財源面での手当ても不要で、政治的な意志さえあれば足りる。国会および州議会で女性議員の比率を最低33%以上にすること、下位のカーストを雇用面で優遇する「前向きの差別」政策を民間部門に拡大すること、森林地域に暮らす部族の権利を法制化すること、などである。これに比べて、医薬品に関する特許法が変更された際は、2005年3月に法案が可決される以前に2004年12月に政令によって決定されるという早業だった。
シン首相は内閣の政策に対して諸派の合意を得ようとしているが、とくに労働市場の規制緩和をはじめ、全面的な合意を得るには至っていない。首相に言わせれば、こうした事情が改革を遅らせ、経済成長と開発プロジェクトの進捗を妨げている(7)。インド左派共産党のプラカシュ・カラート書記長の意見は逆で、現在の線でいけば、政府が検討中の年金基金民営化や銀行規制法の変更といった法案の採決の際、左翼戦線としては反対に回らざるを得ないという(8)。
しかしながら、警鐘を鳴らしている人々は、政権の打倒を望んでいるわけではない。第一に、反自由主義的な確固たる代替策を示せるような第三の勢力がない現状で、政権の打倒に動いてもインド人民党を利するだけになってしまう。第二に、統一進歩連合は、基本的自由権や国家レベルの政教分離の面では総じて成果を上げている。テロ防止法は廃止され、ヒンドゥー民族主義イデオロギーに強く染まった教科書は回収された。第三に、パキスタンと中国に対する政府の対外政策は賛同を呼んでいる。ただ最近では、9月24日に国際原子力機関(IAEA)でイラン非難決議に賛成票を投じたことで国内に重大な緊張が生じ、左翼戦線はこれを米国の圧力下で独立外交を放棄したものだと述べた。そして第四の最大の要因は、たとえ部分的で不完全であるとはいえ、NCMPの実施そのものが、前政権の政策に比べれば一つの前進だということなのである。
(1) 543議席のうち、国民会議派の率いる政党連合は217議席を獲得した。インド人民党の率いる政党連合は185議席、左翼戦線は59議席である。
(2) 150以上の市民団体、左派政党および組合が「就労権のための行脚」を全国的に組織した。
(3) 最低賃金は州によって異なるが、一日60ルピー(約155円)未満であってはならない。
(4) 予算に関する数字はすべて、2月28日の国民議会でのチタムバラム財務相の答弁による(http://www.finmin.nic.in)。
(5) クリストフ・ジャフルロ「グローバル化に慎重なインド」(ル・モンド・ディプロマティーク2004年1月号)参照。
(6) Frontline, Vol.22, No.6, Chennai, 12-25 March 2005.
(7) ザ・ヒンドゥー紙(ニューデリー)2005年8月26日付に再掲されたマッキンゼー・クォータリー誌のインタビューより。
(8) Frontline, Vol. 22, No.12, Chennai, 4-17 June 2005.
(2005年11月号)
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