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教育的に正しいアルジェリア戦争
モーリス・T・マスキノ(Maurice T. Maschino)
ジャーナリスト
http://www.diplo.jp/articles01/0102.htmlより
(抜粋転載貼付け開始)
>不可避の「遺憾」な「失態」もあったとはいえ、フランスは、人も知るように、道路、病院、学校など、支配下に置いたアルジェリアの民衆に、多くのものをもたらしたのだという観念が、歴史家や教師も含め、市民全般に根強く行き渡っている。
> 「たしかに、植民地化にはプラスの側面もありました」と、未来のエリートが集まるパリの2つの高校のひとつで、特別進学クラス(1)を教えるB.D.教授は言う。「とにかく、フランスはアルジェリアに近代的社会基盤、教育制度、図書館、コミュニティセンターなどを残したのです。1962年にアルジェリア人の学生は10%しかいなかったって? そりゃ少ないですよ、もちろん。でも、まるきりいないわけじゃない!」
> だから、アルジェリア戦争にかかずらうのを避ける教師が多いのは驚くにはあたらない。時間が足りず、カリキュラムが詰まっているという理由ではない(少なくとも、そればかりではない)。それは、あまり見つめたくない事柄だということだ。フランス軍が行った蛮行、歴代内閣の卑怯で曖昧な態度、左翼右翼をとわぬ諸党派の日和見的な態度にふれることに、気が重くなる教師が少なくないのである。「アルジェリア戦争は、アウシュヴィッツ以降の『あれを二度と繰り返してはならない』を出発点とする『正しい政治』の見取り図の中に、うまく位置づけられないのです」と、リュー視学総監は認める。結局のところ、どうもあまりこの時代の学習に時間をかけるのを望まない様子である。
(貼付終了)
ある意味インドはイギリスが作ったといえるのではないか?
↓
2 南アジア・東南アジアの植民地化
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/101-19asia5.htmlより
(抜粋貼付開始)
イギリスは、英語教育の実施・イギリス的司法制度の導入・近代的な地租制度の採用・道路網の整備・鉄道の敷設などある意味ではインドの近代化を進めたが、これらはいずれもインドの植民地化を進めるための政策だった。
イギリス人はインドを遅れた社会と考え、これらを文明化することが使命であると考え、カースト制や不可触選民の惨状・幼児婚・寡婦の殉死と再婚禁止の風習・インド女性の地位の低さなどインドの「憂うべき」インド問題をなくするためにはインド人の道徳・習慣・思考法をヨーロッパ流に変えていかなければならないと考えた。
(貼付終了)
ある意味、インドネシアの近代化はオランダが作ったといえるのではないか。↓
オランダ領東インドの完成(インドネシア歴史探訪)
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/indonesia/orandaryou_higasiindo_no_kansei.htmlより
(抜粋貼付開始)
> この間オランダは、コーヒー、砂糖、藍(あい)を中心とする「強制栽培制度」のおかげで「東インド」植民地から巨額の富を搾り取りました。
> この制度の暗黒面を強調し過ぎるのは正しくありません。商品作物の大規模導入が開発を促進し、米作の効率化をもたらした面もあり、ジャワ島の人口は同制度が行われた期間(1830〜1870)に700万から1600万へと倍増しました。
> しかし、それが一方ではジャワ島を一大国営プランテーションへと作り替え、食糧の需給バランスを崩しましたのも確かです。1843〜48年に中部ジャワ一帯を襲った飢饉はそれが原因と言われます。
> また、長期間の出張労働を伴う藍の栽培は、スンダ人の間に「結婚も、出産も、死もみな藍畑の上」という文句を流行らせました。
> この強制栽培制度に対し、オランダ本国からもさすがに非人道的だという声が上がり始めました。
> 特に、1855年からルバックの副理事官を勤めたエドゥアルト・ダウエス・デッケルが、「ムルタトゥーリ(ラテン語で「我苦しめり」)」の筆名で1860年に書いたドキュメンタリー小説『マックス・ハーフェラール』(4)は、世論に大きな影響を与えました。
> こうした運動や、成長してきたオランダ民間資本の要求で、強制栽培制度は1870年にほぼ廃止されるのです。
> 19世紀半ば以降、東インド政庁の政策は自由主義的になり、貨幣制度・金融制度を整備し、電信電話、鉄道、道路、港湾などのインフラ投資を増やして、投資を促しました。
> ヨーロッパの民間企業はこぞってジャワに進出し、特に製糖業はジャワの基幹産業に発達しました。
> 同時に統治機構の近代化も進められ、現地人官吏の登用も世襲から能力重視に変わりました。1864年に設けられた2種の官吏資格試験制度のうち、下級試験は欧亜混血及び現地人のためのものです。
> すでに1851年、師範学校(各地)と医学校(6)が建てられていましたが、原住民小学校も少しずつ出来、1878年にはオランダ語など中等教育を教える「首長学校」(1900年以降「原住民官吏養成学校」に改称)も設けられました。
(貼付終了)