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(回答先: Re: ソウルの路面電車2(漢城電気時代) <ここにこんな記述がありますよ。> 投稿者 gataro 日時 2006 年 4 月 20 日 00:22:31)
漢城電気の設立が民衆の生活向上のためではなく、直接的には高宗皇帝の私的な願いのためだった、というのは辛いことです。
以下は http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/05/16/20030516000066.html からの転載。
1895年、明成皇后の死後、高宗皇帝は臣下を率いて頻繁に清涼里(チョンリャンリ)・洪陵(ホンヌン/明成皇后の陵)を訪れた。これには相当の費用がかかった。
この時、米国人事業家のコールブランとボストウィックが高宗に接近、電車を設置すれば便利に利用できるはずだと説得した。聞き捨てられなかった高宗は出資額の半分を負担することで契約、電車の設置を許可した。
ソウル市が発刊した「ソウル600年史」は電車導入の背景をこのように説明している。
1899年5月17日、西大門(ソデムン)〜清涼里を連結する電車の開通式が盛大に行われた。貴族、高官、各国の使臣らを乗せ、華やかに飾られた電車が鐘路(チョンロ)通りを通ると、この“奇妙な怪物”を見ようと集まった人々で街はごった返した。
初め、投入された電車はあわせて9台。1台は皇室専用だった。停留場はなく、乗客が手を挙げればどこでも止まった。電車に乗るため、わざわざ地方から上京する人もいるほどに人気を得ると、電車に乗ること自体、容易ではなかった。
何とか乗れた人も降りようとはせず、1日中乗っていたため、電車はいつも満員だった。乗客が増えたことから、路線も鐘路交差点から南大門(ナムデムン)まで(1899年)、再び南大門から龍山(ヨンサン)まで(1900年1月)延長された。
電車による初の不祥事は開通から10日目に発生した。鐘路2街前を通っていた電車が5歳児を発見できず、轢死させたのである。厳しい干ばつが電車のせいだという噂が流れていた時このような事故が発生すると、人々は電車に火を放った。
植民地支配から開放後、23年間市民に愛された電車だが、時代は変わって行った。1968年11月29日、69年6カ月12日目にして最後の電車が往十里(ワンシプリ)を出発した。
金ジョンヒョン記者