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(回答先: 背後に電柱が沢山立っている写真を「100年前の韓国」とする、中央日報とソウルの写真展 投稿者 サトミ 日時 2006 年 4 月 18 日 09:00:45)
朝鮮史年表を見ると、1884年>1;長崎釜山間に海底電線開通、2;宮中に電燈開通となってますな。釜山のほうはわかりませんが、釜山は開港地であり諸外国の租界(居留地)がありましたから、1900年代初頭に電柱があっても不思議はありませんね。
日本でも、東京と横浜(租界)と、電燈や鉄道の起源争いをやっとりますが、微妙なところですな。(笑)
ま、日本の最初の鉄道も、新橋(築地居留地(租界))と横浜租界を結ぶために敷設されたと言っても過言ではないわけで・・・
注1)なお、当時は電信線のほうが電(気)線より早く敷設されました。つい最近まで、日本語も電柱のことを「電信柱」と言ふ場合が多かったですが、これは「電信線」のほうが早かったせいですね。
注2)したがって、長崎釜山間の海底電線も「電信線」のことです。有名な「敵艦見ゆとの報に接し・・・」という電報も、釜山から海底電線で送られたわけです。(^0^)
注3)なお、いわずもがなだが、写真で電気線と電信線の区別がつかないと、近現代の歴史に明るい友達とは言えませんね。アジア地域の西欧技術取り入れ化(=歴史学では「近代化」といふが(苦笑))が、どのような進捗をしたかも理解していないと、いわゆる帝国主義支配下の爬行性も理解していないことになりましょうね。
注3)租界(外国人居留地)は治外法権、領事裁判権を認める不平等条約の落とし子であり、明治政府は条約改正に努力し、1899年各地の居留地は一斉に回収された。
つまり、大日本帝国が租界を廃止できたのは、1904年から5年前つうことですな。
テメェんところが租界を抱えていながら、他国に租界を作るという<よくわからん状態>であったわけです。(苦笑)
注4)余談ですが、横浜や神戸の中華街は、租界の支那人(当時)が作った街ですね。明治時代には、租界に遊びに行くのがモダンだったとも言えます。