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2006年 4月 16日 (日) 18:29:10 JST
http://list.jca.apc.org/public/aml/2006-April/006368.html
半月城です。
申し訳ありませんが、訂正です。
柿沼洗心さんは東京祐天寺の僧ではないとのご指摘がありましたので、訂正して再度アップします。[AML 6687], [zainichi:29547]は削除してください。
昨年10月、靖国神社にあった北関大捷碑(ほっかん たいしょうひ)が百年ぶりに韓国へ移送されましたが、さらに今年3月1日、独立運動記念日にあたる日に大捷碑は北朝鮮へ返還されました。喜んだ北朝鮮は、その碑をさっそく国宝に指定しました。
北朝鮮がこの碑の到着を待ちこがれていたのも当然です。なにしろ、この碑は朝鮮の義兵が破竹の勢いにあった加藤清正の侵略軍を撃退したのを記念して建てられたので、それが戻ったとなればまさに国をあげての慶事です。
大捷碑は、豊臣秀吉の軍が朝鮮へ侵略した時、北関と総称される咸鏡北道の地で加藤清正の軍を撃退した義兵の戦闘を讃えるものであり、碑の冒頭には次のようなことが書かれました。
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昔、壬辰の乱のとき、果敢に戦って敵を破り、その武勇が一世に鳴り響いた戦(いくさ)がある。水上では李忠武(舜臣)の閑山島の戦であり、陸上では権元帥の幸州の戦であり、李月川の延安の戦もある。これらは歴史に記録され講釈師が繰り返し語ってきた。
しかしこれらの戦は、地位が有り、軍資金や兵力に恵まれていた者によるものである。力無く逃げ隠れていた者を奮い立たせ、規律が乱れていた者に忠義を感じさせて、ついに完全勝利を克ち取り一地方を奪還した、北関の兵が最も優れていたのである(注3)。
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1592年、朝鮮へ侵攻した豊臣秀吉の軍隊は、緒戦において朝鮮の正規軍を次々に破り、中国国境に迫る勢いだったのですが、そんな中で朝鮮民衆の義勇軍が最強の加藤清正軍を撃退したことは驚天動地の画期的なできごとでした。
北関で義兵を指揮したのは兵馬評事の鄭文孚(チョン ムンブ)ですが、かれの戦闘については文末(注1,2)にくわしく書くとして、かれの経歴や碑が建てられるようになったいきさつは次のとおりです。
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義兵将の鄭ムンブは、1565年ソウル生まれで、1588年24歳の時、科挙に次席で合格した。27歳の時、咸鏡北道の北評事となって壬申倭乱にあたった。官軍が敗退した後、義兵を集めて倭軍相手に大捷を上げた英雄だったが、戦争の後のぶ告事件で獄死してしまった。しかし、壬申倭乱が終わってから111 年も経ってから、この事件が無実であることが判明し、ようやく朝鮮朝廷は、鄭ムンブ将軍の功を称えるようになって北関大捷碑を建てた(注4)。
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かれのような義兵の活躍や、海戦における李舜臣将軍の圧勝、あるいは明の援軍、豊臣秀吉の死などにより朝鮮侵攻の愚挙はもろくもくずれ去りました。しかし、その愚挙のためどれだけ多くの犠牲が出たのかはかり知れません。数万、数十万にのぼる朝鮮人の耳や鼻を無残にも切り取り、塩漬けにして豊臣秀吉のもとへ送った話はあまりにも有名です。
その耳や鼻は「耳塚」として京都に供養されましたが、1990年に「耳塚」を供養した僧・柿沼洗心さんは、慰霊法要の席で韓国からの参加者が号泣する姿に感動し、こう語りました。
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今でも耳に入って離れない言葉があるんですよ。それは韓国人が、何百人の人が絶叫した言葉、3年でもない、30年でもない、300年も400年も異国の地へ放っておいた祖先にお詫び申し上げると号泣した姿、地べたにひれ伏してね・・・(注5)。
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柿沼さんは、日韓仏教福祉協会の日本側代表として、ここ十年来、朝鮮王朝末裔の李玖(イグ)氏とともに北関大捷碑の返還に熱心に取り組んでこられました。碑の返還は、日本、韓国、北朝鮮のはざまにあって容易ではありませんでした。靖国神社の意向が反映されるまで長い年月がかかりました。
靖国神社の立場については、私も神主から直接聞いたことがありました。奇しくも、私は柿沼さんと同じころ靖国神社を訪れて碑に関する話を聞きました。1996年1月、神主は重い口でつぎのような趣旨のことを語りました。
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1。この碑は日露戦争の時「戦利品」として日本へ運ばれた。
2。戦前、この碑は神社内にあった陸軍の博物館、遊就館(86年再開)に寄贈された。そうした経緯から、碑は遊就館近くの現在地に置かれている。
3。いずれしかるべき所へ返したいが、朝鮮が統一されていない現状ではそれもむずかしい。ただし、今まで返還要求はどこからもなかった。
4。韓国からはマスコミが何回か取材に来た。
5。保存状態について、現状はプラスチック波板の屋根があるだけでちょっとお粗末ではないかとの批判もあるが、石碑はもともと雨ざらしにされるものなので必ずしもこうした批判はあたらない。
5。拓本は複写に当たるので神社としては許可しない。拓本は神社でとったものを保存している(注6)。
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神主の話からは、北関大捷碑が靖国神社に持ちこまれた経緯があまりはっきりしないので、気になってすこし調べてみました。やはり日本軍が深くかかわっていたようです。日本軍は日清戦争のころから帝国主義国家にふさわしい歴史像を形成するためか、朝鮮の石碑に相当な関心をもっていました。かつて改ざんがあったかどうかで話題になった高句麗の広開土王碑の調査などがそのいい例です。
北関大捷碑は、日露戦争で北朝鮮に入った池田正介少将により着目され、地元関係者の了解のもとに日本へ運ばれたとされました。軍は地元関係者の了解をえたとのことですが、これはあるいはあり得るかも知れません。
なにしろ当時は、伊藤博文を暗殺した安重根ですら日本帝国に幻想をいだいていたような時代だったので、関係者が日本軍に協力した可能性はゼロではないようです。1978年に靖国で大捷碑を発見した研究者の崔書勉氏はこう記しました。
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明治39年(1906)の『歴史と地理』と『考古界』の両学会誌が、この碑に関して、彙報であつかっているが、各々「北関大捷碑の輸送」「北韓大捷碑」「加藤清正撃退の碑」等がそれであり中村久四郎が会寧府の顕忠祠碑文と誤認して書いた「韓国会寧府の顕忠祠碑銘について」と題する論文もある。
この両学会誌の述べているところから知り得たことは、次のような内容である。
明治37,8年の日露戦役において、北韓進駐軍司令官 後備第二師団長、三好成行中将麾下軍隊は、露西亜(ロシア)軍を豆満外に圧迫するため北韓に進駐していたが、第二師団傘下の第十七旅団長、池田正介少将が咸鏡道臨溟駅にある「北関大捷碑」を発見し、所在地の主たる者、数十名を招き、諒解を得て三好中将の帰国に託し、明治38年10月28日 広島に着き、翌年5月27日 東京湾に着き、宮城内の振天府に陳列されるとのことであったが、最後に遊就館に移立したことになっている。
池田少将の諒解とは、地元の主たる人々に「日本は、朝鮮国の独立のため、日清戦役と日露戦役の前後二回も大戦争を為したるが、今や、幸いに交戦の目的を達し、日韓両国の親睦を永遠に保つ上において、このような記念碑を永存することは、両国間の感情を害すべき因たるに過ぎざるに付、出来得べくんば、この石碑を撤去せられん事を切望するとの趣旨を諄々説きたるに彼等も大いに池田少将の至誠に感じ、遂にこれを撤去して池田少将に譲与せしより同将軍は深く彼等の行為を徳とし、三好師団長凱旋の節し同師団長に託して、東京まで持還へられたるものなり」となっている。
この記事の内容の真偽を問うことは、今更 意味があるとは思えない。日清、日露戦役の直後においては日本軍は、天皇の開戦詔勅通り、韓国の独立のためであると信じていた韓国人が多かったからである。伊藤博文を暗殺した安重根でさえ、日露戦争は韓国の独立のためだと信じ日本軍に協力したことがあるほどであるからである。
しかし、このような記事の前後には加藤が敗退したというのは「うその記録」であるとか、「針小棒大」のものであると不愉快を示し、はなはだしきは、この碑文を日本にもってきたことを讃え「吾人は皆挙を賛するものなり。尚、彼の満州懐仁県洞溝にある高句麗古碑もこれと同じく、本邦へ輸送なせられんことを望むものなり」と飛躍している。
高句麗古碑とは、今、改竄されたかどうかで問題になっている広開土王碑のことであるが、当時の意気高き、戦勝国の軍人として、日本軍が過去において負けたという記録が、いかに彼らを不愉快にし、また信じたくなかったことであることは想像にかたくない(注7)。
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結局のところ、大捷碑は「日韓友好」を阻害するという理由で撤去され、戦利品を陳列する皇居の振天府に展示するつもりで運ばれたようです。
その後、大捷碑は戦前の軍事博物館である遊就館へ持ちこまれました。しかし、北朝鮮では国宝級の文化財でも、靖国神社にとっては単なる石ころだったようで、何の記録もないまま長年放置され、その存在すら当の神社にも完全に忘れ去られてしまいました。
それを再発見したのが崔書勉氏でした。文献に記載された記事を手がかりに、靖国神社の人すら知らない北関大捷碑を神社じゅう探しまわり、苦労の末やっと発見したようでした。その苦労話は写真とともに論文になって紹介されました。
その写真などをリンクしますが、碑の頭上にはいかにも場違いな火山岩のような石がかぶせられていました(注7)。今回、その覆いや同じように粗末な台座は取り除かれ、代わりに韓国で端正なものに替えられ、威風堂々としたたたずまいになりました。
朝鮮にとってかけがえのない新しい国宝の誕生、その実現に対する感謝の念を韓国統一部のイム氏は「北韓大捷碑の返還に関して肯定的な決定をして下さった靖国神社と協力してくれた日本の外務省に心から感謝しています」と語りました。
私はこれまで靖国神社を軍国主義を象徴する神社として、そこに参拝する小泉首相などを鋭く批判してきましたが、北韓大捷碑に関するかぎり、靖国神社や関係者の労をねぎらいたいと思います。
(注1)北島万次「清正と戦った咸鏡道義兵」『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館 1995,P98
(注釈は省略)
咸鏡北道でも、鄭文孚を盟主とする義兵が決起した。清正の咸鏡北道侵犯以来、北界=北関(咸鏡北道の磨天嶺以北)の官吏や守将は鞠世弼らの叛乱者に捕えられてしまった。
しかし、鄭文孚はこれまで評事の仕事を堅実にこなし、これまでの役人のように刑杖を用いることはまったくなかったばかりか、校生に儒学を教えるなど、人望が厚かった。それだけに、文孚は、韓克誠のように清正につき出されることもなく、子弟に庇護されて脱出することができた。鞠世弼らの叛乱者は文孚を捜索したが、文孚は鏡城の儒生・池達源の家に匿れることができた。
九月、明軍救援の報が文孚のもとに届くや、士兵壮士 数百人が団結し、文孚を義兵将に推戴して決起し鏡城に迫った。みずからを「礼伯」と称して鏡城およびその領域を支配していた鞠世弼は敵せざるを知り、鏡城を明け渡して官衙の印を文孚に渡した。
鏡城が義兵の手に陥ちたことを聞いた吉州在番の加藤右馬允らの清正家臣は、兵を出して鏡城を探索したが、義兵指導者のひとり前鏡城万戸 姜文佑はこれを撃退した。
このあと、咸鏡北道の義兵は吉州長坪で吉州に在番する清正の家臣団と戦い、吉州攻撃に転じた。それはつぎのような経緯をたどって進行する。
吉州長坪の戦いを前にして義兵たちの戦意は昂揚していた。鄭文孚は吉日を選んで出兵しようとしていたが、そのさい、義兵の将士たちは、日本軍を討つ前に日本の傀儡となった民族の裏切り者をまず誅すべきだ、と文孚に申し入れた。
文孚は鞠世弼ら13人を斬刑に処し、当初の首謀者はかれらであり、そのほか陣中に捕えられているものは首謀者でない、といましめ、仲間同士で争わないように配慮した。そして穏城などの鏡城に檄文を送り、鞠景仁・鄭末守らの叛賊を血祭りにあげ、咸鏡北道の鏡城をおさえた。
一方、吉州城の日本軍は城の周辺で略奪を重ねており、その一隊が明川海倉の略奪に向った。鄭文孚はその帰路を待伏せ、長徳山でこれを敗った。
吉州城に逃げ帰った日本軍は城門を閉じて外に出ず、文孚らの義兵は吉州城をとり囲んだ。このため、吉州城の日本軍は燃料の樵採もできず、ここに吉州の籠城が始まった。ところで、吉州籠城の報を受けた清正はただちにこれを救援できなかった。その事情は1592年11月21日、端川在番の九鬼広高らに宛てた清正の書状にみることができる。
第一に、清正自身、吉州などの咸鏡北道の救援を急ぐものの、そこへ赴けば、清正本陣である安辺の守備固めの兵力を削ぐこととなり、救援に赴く兵力は3,000人にも満たなくなる。さらにその約半数は寒さのため悴けてしまうという兵力不足があった。
第二に、清正が朝鮮二王子を捕えているため、王子を安辺に置いて救援に赴くことはできず、もし王子を抱えたまま救援に赴いた場合、王子護衛の兵力に500人は割くこととなり、実際に北道救援に役立つ兵力は1,000人にも満たなくなる。さりとて王子を連れて北道へ出陣することは実際にはできない(万一、王子を逃がしてしまえば元も子もなくなる。王子こそは加藤清正の「虎の子」であった)。戦功の証しとして捕らえた朝鮮王子の存在が清正の行動の足枷となっていたのである。
このため、清正は来年の春まで吉州・端州の番城を死守することについて、朝鮮側が番城を攻めてきた場合は、城際に引寄せて討つべきことから、兵糧・馬糧の節約にいたるまで細かく指示してきている。
加藤清正が吉州・端州両城を救出したのは、よく93年1月のことである。清正は鍋島直茂に朝鮮二王子を預け、咸鏡北道に孤立する吉州・端州両城を救出した。ここに加藤清正・鍋島直茂の咸鏡道在番支配は破綻した。
(注2)「北韓大捷碑」碑文の読み下し文
鄭(文孚)公は十一月に敵を加攻里で迎え討つべく、多くの将を配置した。鄭見龍は、中衛将とし白塔に、呉応台、元忠恕は伏兵将とし石城と毛会に、韓仁済は左衛将と木柵に、柳z2天は右衛将として涅河に、金国信 許珍は、左右斥候将として臨溟に陣を布かせ、対時したところ、敵は戦勝に捲き、防備をおろそかにしていた。
我が軍は勇撃して、敵陣を襲い、勇気を得て、歓声をあげざる者なく、前進したところ、敵は敗れ退くを見、更に追撃して、その将五名を殺し、数多くの首をきり、その馬と武器をとりあげた。これがため、遠近ともに震動し、兵士官吏ともに、逃げ去り、隠れていた人たちが先を争い従う者がふえ、七千名に達し、敵はついに吉州にたて籠り、動くことができなくなり、道に伏兵を置き、敵が出さえすれば、これを打破った。
城津の敵が臨溟に大きく攻めてきたので、精兵なる騎兵を率い、これを襲い、山に伏し、敵の帰るのを待って両方から挟撃して大きく敗り、数百をきり、まさにその腹をきり、そのはらわたを道にさらしたところ、倭軍の志気大いに落ち、敵はおそれるばかりであった。
十二月にまた雙浦にて戦ったが、戦たけなわなるとき、偏将が鉄騎を率い、風雨の如くすばやく横より攻め入れば敵は戦意を失い、たち向うこと忘れ逃げ散ったので、戦勝の勢をかり敵をけ散らした。
翌年正月、端川で戦ったが、三戦して三勝して還り、吉州に陣を布き、兵士を休ませていたところ、清正戦況の不利なるを知り、大部隊を送り、吉州の敵を迎えようとしたので、我軍は、その後を逐い、白塔にて大きく戦い、これを敗り、この戦において、李鵬寿、許大成、李希唐が戦死したが、敵はついに敗走し、二度と北方に来ることができなかった(注7)。
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(注3)「<北関大捷碑>南北合意…故地返還に現実味」『民団新聞』2005.7.13
http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=10&subpage=117&corner=1
(注4)KBSワールド「返還される北関大捷碑」2005-06-30
http://rki.kbs.co.kr/japanese/news/news_zoom_detail.htm?No=783
(注5)TBS番組、報道特集「靖国から北朝鮮へ」2006.4.2
(注6)半月城通信<文禄・慶長の石碑>
http://www.han.org/a/half-moon/hm006.html#No.50
(注7)崔書勉「七十五年ぶりに確認された咸鏡道 壬辰義兵 大捷碑」
『韓』第7巻第3号/通算第74号 1978.3.
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/shiryou/ronbun/choi_seo_myun_1978.pdf
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/