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(回答先: 自衛隊がイラクで戦争ゴッコをしている間に日本で小泉がクーデターを実現した 投稿者 フランクリン 日時 2005 年 9 月 07 日 09:20:51)
日露戦争のときに与謝野晶子は「君死に給うことなかれ」と読み、戦争などするバカな政治家によって戦場で殺されるなと訴えました。兵士が死ぬ思いをしても殺されても、政治家はそれを手柄にするだけです。小泉はイラクで自衛隊を戦争に巻き込んで、日本では独裁者になるためにクーデタをやったのです。日本人はヒットラーの下で虐殺されたユダヤ人と同じ運命になり、自衛隊の駐屯地はアメリカの海兵隊の駐屯地と同じで、涙の池が出来るでしょう。それにしても小泉のクーデターが、靖国維新と命名されたのは予言的です。
以下は引用
特報
揺れる海兵隊の街 米・ブルックパーク市
婚約者ボスコビッチさんの死を悼むために連隊本部を訪れたテビスさん=米オハイオ州ブルックパークで
米国・海兵隊の一大拠点、オハイオ州ブルックパーク市が揺れている。イラクでは先月初旬、たった二日間で、道路に仕掛けられた爆弾などで同市から出撃した海兵隊員十八人が命を落とした。若者たちの無残な死に、ブッシュ政権や軍に同情的な声が多いこの街からも「反戦の声」が上がり始めた。“反戦の母”シンディー・シーハンさんの運動に続き、政権に影響を与えるのか。「海兵隊の街」をルポした。
(池尾伸一・米オハイオ州ブルックパークで)
はりがねの柵に結びつけられた無数の星条旗に、手作りの十字架、バラの花束、仲間たちのサインが入ったフットボールのヘルメット…。
人口約二万人のブルックパークの中心部の「海兵隊第二十五連隊第三大隊」の本部。八月一日に四人、三日に同本部出身の兵士十四人が戦死してから街の人たちなどが連日、祈りをささげに訪れる。柵の前はさながら礼拝所のようだ。
九月一日の夕暮れ。一人の女性が車で訪れ、柵に結びつけられたテディベアのぬいぐるみの緩んだリボンを結び直すと、じっとたたずんだ。やがて涙がこぼれる。
■あと1カ月で帰れるはずが
一カ月前の八月一日に仲間三人とともにイラクで武装勢力の銃撃を受け、二十五歳の命を落としたジェフ・ボスコビッチさんの婚約者だったシェリ・テビスさんだ。
「タフだけど本当に優しい人だった。正義感が強くってイラクの人たちを不安や恐怖から救わなくちゃ、といつも言っていた」
地元の大学で知り合ってから四年間、付き合ってきた。ボスコビッチさんは地元の銀行で働きながら、海兵隊の予備隊に所属、定期的に訓練に参加していた。この一月に招集され、イラクに派遣された。
「ディナーや遊園地、彼とは、いろんな所に行った。彼が訓練を受けているノースカロライナ州にも励ましにいきました。『あと一カ月で帰れるよ』と言っていたのに」。イラクから帰還後、すぐに結婚式を挙げる予定だったという。
街が悲しみに包まれるなか、日増しに大きくなっているのが、ブッシュ政権のイラク政策に対する疑問の声だ。
「ブッシュ大統領は兵隊たちを支援していない。オージーは見殺しにされたんです」
八月三日、灼熱(しゃくねつ)の砂漠をトラックで移動中に、十三人の仲間とともに爆死したオーガスト・シュローダーさん(愛称オージー、当時二十三歳)。母親のローズマリー・パーマーさんはシュローダーさんが生まれた日に植えた樫(かし)の木「オージーの木」を見上げながら言った。
高校や大学時代、教会や緊急医療現場でのボランティアに熱心だったシュローダーさんは大学卒業後、「イラクの人々のために役立ちたい」と言って海兵隊に志願、今年初めにイラクに行った。
「イラク人たちはよい人ばかりだ。来てよかった」。当初の手紙は明るかった。
だが、シュローダーさんらの役目は武装勢力が隠れていないか、武器を隠していないか、民家を一軒一軒捜索して回る危険な仕事。命がけで、ある地域を捜索しても武装勢力はいったん撤退するだけですぐに戻ってくる。しかも、武装勢力は増加するばかり。
「僕らは全く無駄な仕事をやっているみたいだ」。七月末、パーマーさんが最後に受け取った手紙には徒労感がにじんでいた。
「もっと兵隊を送ってきちんと戦うか、それでなければ撤退すべきだ。このままならもっともっと若い人たちが死んでいく」。パーマーさんは訴える。
「こんなにたくさんの若者が死んだのにブッシュは長い夏休みを取っていてオハイオにくることもなかった。孫はブッシュに利用されただけだ」。ナタニヤル・デヤミーンさん(当時二十二歳)を失った祖母のバーバラ・デービスさんや、母親のイーディー・デヤミーンさんも、怒りの矛先を大統領に向ける。
この地の海兵隊は、太平洋戦争で、米国を勝利に導いた硫黄島での決戦にも主力部隊を送り込むなど、街は海兵隊とともに歴史を歩んできた。同部隊の兵士のほとんどは同州出身で、人々はいつもレストランで言葉を交わしたり、街のパレードで行進する海兵隊には親しみを感じている。それだけに大量戦死の衝撃は大きい。
「硫黄島の戦いでは米軍が勝ったが、今回のイラク駐留はベトナム戦争そっくり。ベトナムではたくさんの友達が死んだり精神をおかしくしたりしたが、若者たちにその繰り返しはしてほしくない」。タクシーの女性運転手、ハロウェイさん(56)は言う。
だが、違う思いを抱いている人たちもいる。
昨年七月、息子のマイク・バーキーさん(当時二十二歳)を亡くしたジュリー・バーキーさんだ。息子にもう会えないのかと思うと、いまでも時々、耐えきれないぐらい苦しくなる。しかし「私はイラクの民主化のために命をかけた息子を誇りに思っている。苦しくても、私たちにはやり遂げる義務がある」と米国のイラクでの戦いを支持する。
「反戦の母」シンディー・シーハンさんは、大量破壊兵器が見つからなかったとして間違った戦争と主張している。だが、バーキーさんは「フセインが独裁者で罪のないクルド人を大量虐殺した行為は間違いないのではないか」と反論する。
ボスコビッチさんの婚約者だったシェリ・テビスさんも「ボスコビッチは私の一部であり、イラクでは私が戦っていたのと一緒。彼の信じた戦争の正義を否定することは、彼が無駄に死んだ、ということになってしまう。どうしてそんなことができるのですか」とブッシュ政権のイラク政策自体は支持している。
「悲しみ」の一点では共通しながらも、戦争をめぐる政策では支持派と反戦派に分かれる住民や遺族たち。
「人々の主張が分かれていることは知っている。悲しい話だが、どうしようもない。私にできるのは戦争が終わり早く平和が訪れてほしいと、祈ることだけです」
ブルックパークの市庁舎で、マーク・エリオット市長が悲しい顔で、かぶりを振る。
兵士らの死を悼むとともに、戦っている兵士たちの無事の帰還を祈るため、庁舎の周りの木々に結びつけられた黄色いリボンが、風に揺れていた。
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