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(回答先: Re: WTC の設計者Minoru Yamasakiは1986年に73歳で死去 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2005 年 8 月 31 日 17:08:33)
今、関連URL等詳しく調べる時間がないため、簡単に、で申し訳ありませんが・・。
この人はたしか、第二次世界大戦中、多くの日系アメリカ人が収容所に集めらたのに、建築家として高い評価を得ていたとのことで、収容所に送られることがなかった日系人の一人だったはずです。前に三世の友人から聞いた話ですが、その時の話では経緯は詳しくは知らないとのことでした。
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(とりあえず手元にある資料からですが)
ミノル・ヤマサキ【生涯】−建築辞典より
http://shift99.com/837E836D838B81458384837D8354834C/w90B68A55
生涯
1912年12月1日に富山県出身の日系移民の子としてシアトルに生まれた。父親は靴職人だった。建築家を志したのは、建築家であった母方のおじの影響だった。学費を稼ぐためにアラスカの鮭の缶工場で働き、ワシントン大学の建築学科を主席で卒業。ニューヨーク大学大学院(夜間部)で修士号を取得した。不景気と人種差別のため瀬戸物の包装などの仕事をしていたこともあった。真珠湾攻撃の2日前に、日系アメリカ人のピアニストであったテルコ・ヒラシキと結婚。その後、シュリブ、ラム&ハーモン事務所(エンパイアステートビルの設計をした事務所)、ハリソン、フォールオウクス&アブラモヴィッツ事務所(ロックフェラーセンターの設計をした事務所)、レイモンド・ローウィ事務所(世界的に有名な工業デザイナーの事務所)などニューヨークの有名な建築事務所を渡り歩き修行した。1945年、大手設計事務所スミス・ヒンチマン&グリルス事務所(所員600人)のチーフデザイナーとなる。1949年、スミス・ヒンチマンの事務所の同僚だったジョージ・ヘルマスとジョセフ・ラインウェーバーをパートナーとしてデトロイトとセントルイスに事務所を開設した。これによって注文が殺到し、過労により胃潰瘍を繰り返し、一時危篤状態にまでなったこともあった。その後、パートナーを解消し、セントルイス事務所は、ヘルマス、オバタ&カッサバウム事務所(HOK)に、デトロイトは、ヤマサキとラインウェーバーを中心に存続した(1959年にヤマサキ&アソシエイツに改称)。1955年、セントルイス空港の設計で注目される。ヤマサキは、パートナー事務所を開設後、4度もアメリカ建築家協会(AIA)のファースト・ホーナー・アワードを受賞している。そして、1970年代初めには、彼の代表作であるワールド・トレード・センター・コンプレックスに取り組むことになる。
Wikipediaより引用 - Article - History - License:GFDL
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同サイト【略歴】より
1986年 2月7日、癌のため死去。享年73。
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>Sun Shineさん
時間が出来たら「ホログラフィー理論」の件レスしますm(__)m。考え方がホメオパシーとよく似てるのです。