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http://www.knightofround.com/finalnd/finland04.htm
@スターリンに要求
ナチス・ドイツによるポーランド侵攻は、北欧の小国フィンランドの運命を再び大きく変える事態となった。
ポーランド侵攻の直前に、ドイツとソ連の間で結ばれた独ソ不可侵条約(8月23日締結)の中の、秘密議定書(当時は公表されず、フィンランド国民は知る由もなかった)の中には、バルト海沿岸をソ連の勢力圏とすることを、ドイツが承認した一文があった。
元々、スターリンとソ連にとって、最も脅威な存在はナチス・ドイツであった。アドルフ・ヒトラー率いるナチスがドイツの政権を取って以来、ドイツは英仏の弱腰の対応もあり、オーストリア併合、スデーデンラント進駐等、着実に領土を拡大してきた。この事は、伝統的にゲルマン系民族による東進を怖れるスラヴ民族の恐怖感を、いやが上にも高める結果となっていた。
そのためスターリンは、東欧・ホーランドにおけるドイツ権益を承認することで、ドイツの東方領土拡大の歯止めをかけようとした。そしてドイツのロシア侵攻に備えるため、バルト海沿岸諸国を自国の勢力圏として、要塞化を計ることを意図し、ドイツに東欧・ポーランドの支配権を黙認する代わりに、ソ連のバルト海沿岸地域への勢力拡大を、ドイツに承認させたのが、秘密議定書の背景である。
こうして独裁者同士が結んだ密約により、フィンランドと、バルト3国の独立と主権は、完全には完全に無視された。ドイツの承認を得たソ連は、英仏の反応を窺うことなく、バルト海沿岸諸国に対する露骨な干渉を開始する。
1939年9月、ドイツのポーランド侵攻が続く中、ソ連はバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)に、相互援助条約を強要した。表向きの内容は、これらバルト3国が、第三国に進攻された場合、軍事力の劣る彼らを、ソ連が守ってあげよう。そのための条約だと言うわけである。
そして、同年10月までに、バルト三国は、ソ連邦と相互援助条約を結ばされる羽目になった。英仏もドイツとの戦争準備に忙しく、アメリカは不干渉主義を口実に、これらの国々を助けようとはしなかったからである。
首尾よく条約を締結したソ連は、強大な武力を背景に三国の主権を公然と無視し、反対派を弾圧、投獄し(一例を挙げれば、エストニアでは祖国に残留した政府・軍部の高官計8000名が、現在でも「行方不明」になっている)、親ソ政権を樹立させると、冬戦争後に、「人民大衆の圧倒的な支持」のもとに、ソ連に併合され、実に半世紀に及ぶ支配を受けることになるのである。
バルト三国の次は、当然フィンランドの番であった。ソ連のやり口は、まったく変わらない。「ソ連は、フィンランドの主権を侵害しようとする第三国の干渉を、排除するための軍事援助をおこなう用意がある」と通告した。そして、「フィンランド」の安全保障のため、「フィンランド湾のスール島などの島々を、30年の期限で租借し、ソ連軍を駐留させる」事を提案してきた。
また、ソ連邦の革命の都レニングラード(旧ペテログラード・現サンクト・ペテルブルク)にフィンランド国境が近い(約32qしか離れていなかった)事から、ソ連邦の防衛上これは不都合があるとして、国境から2700平方キロの土地の割譲を要求した。だが、領土を一方的に割譲させるのは道義的に問題であろうと、フィンランドには、割譲地域の代償に、東カレリア地域に、5500平方キロを割譲すると提案した。
「我々は2700平方キロを要求している。その代わりに5500平方キロをあげようと言うのだ。こんな事をする大国が、他にあると思うかね? 我々だけだ」
スターリンは、こう言って胸をそらしたが、ソ連がフィンランドに与えるとした土地は、人もほとんど住んでいない未開の原生林であり、一方のスターリンが要求する土地は、フィンランドの産業の集中地滞であり、日本で言えば、関東地方を差し出せと言うに等しかった。当然フィンランドが飲める要求ではなかった。
当然フィンランド政府は、このような提案を呑むべき理由は、国際法の上からも、道義上からも見あたらないとし、ソ連の提案を拒絶した。モスクワ入りしていたフィンランド交渉団は、11月13日、ヘルシンキに帰還したが、この時、フィンランドの政府も、国民も、そのほとんどが、これが戦争につながるほどの事態になるとは想いもしていなかった。ただ1人、フィンランド軍総司令官カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥を除いては。
ロシアの軍人、しかも皇帝ニコライ二世の信任厚い軍人として、人生の前半分を生きたマンネルヘイムは、ソ連の要求が、ドイツ人を恐れるロシア人にとっての、理屈を超えた恐怖感を背景にした要求であり、そのためには戦争もじさぬ心理を知り抜いていた。そして、自国の国力を知る彼は、フィンランドがソ連に抗し得ない事も冷静に理解しており、政府に対し、要求を受諾するよう求めている。もちろん、そんなことを知る由もないフィンランド政府閣僚たちは、マンネルヘイムの進言に、耳を貸す事は無かった。
そして、マンネルヘイムの予測は、1939年11月30日に、最悪の形となって、フィンランドを襲うことになるのである。
A開戦
ソ連政府は、1939年11月26日、「突然フィンランド側から砲撃を受けた」と発表した。そして「これは、ソヴィエトと人民に対する重大な挑発行為である」として、スターリンと外相モロトフは、フィンランド大使を呼びつけて、激しく非難した。さらに二日後の28日にモロトフは、フィンランドとの不可侵条約を一方的に破棄することを通告し、翌29日には、国交断絶を正式に発表した。
ここまでの経緯をみると、ソ連側が、強引というよりは露骨に、フィンランドを戦争へとひきずり込もうと、駆け足で対外的な口実を作っている様が、みてとれるであろう。26日に、フィンランド側が砲撃したと言うが、当時のフィンランド軍は、ソ連側を刺激しないよう、国境から砲兵部隊を撤退させており、その配置図を見ると、絶対にソ連側の言っている場所には、フィンランド軍の砲弾は届かない。
また、総人口380万人、最大動員兵力約30万人のフィンランドが、総人口1億7000万人(年間人口増加率は370万人であり、これはフィンランド国民のほぼ総数に匹敵する増加率である)、赤軍900万人を誇るソ連に、フィンランドが戦争を仕掛けるという事が起こりえるだろうか? 確かに、どこの国でも、危機感と独りよがりの忠誠心過多、思慮分別無しの近視眼は存在するものであるが、理性的に考える限り、ソ連側の謀略であることは、論じるまでもない。
そのため、当初は事の成り行きに、ただ呆然と、推移を見守っていたフィンランド国民であったが、ソ連側の露骨過ぎる牙を察知すると、ソ連に対する怒りと憎しみをあらわにした。
フィンランド国民にとって、長い間ソ連は憎悪の対象であった。それは、ナポレオン戦争以来、フィンランドをロシアが支配してきたからだけではない。ロシア帝国のフィンランド統治は、比較的緩やかなものであり、激しい対立は無かったが、ロシア革命に際し、独立を宣言したフィンランドに対し、これを支持する様な事を言いながら、フィンランドを共産化させようと、国中に不毛な争いの火種を撒き散らし、フィンランド史上初に、不毛な内戦を引き起こしたボルシェビキ政権のやり口を、国民は忘れていない。フィンランド国民が、戦争開始後も、絶望的な状況の中、挙国一致でソ連の攻撃に抗しえたのは、積年のロシア共産党政権への、根強い不信感と怒りであり、独立を失うまいとする、ナショナリズムの発露であったろう。
かくして1940年11月30日、ソ連とフィンランドの国境は、ソ連側からの激しい砲火によって、その静寂さを破られた。
この時、動員されたソ連軍の総兵力は、54万名、火砲2000門、戦車2540輛を数え、航空機の支援も600機を超えた。
もちろん、これだけの大兵力が、一朝一夕に集められるわけがない。少なくとも、数年はじっくりと時間をかけて研究をおこない、準備期間をおかなければどうにもならない。戦争がソ連側の謀略であるという傍証は、ここでも立証できるのである(実際、ソ連の対フィンランド戦の準備は、1938年には本格化していたことが、現在のロシアの資料から明らかになっている)。
開戦当日、ソ連軍は、フィンランドの国境地帯(約1000q)の内、約27カ所を突破、フィンランド領内に侵攻を開始した。この時、冬戦争の主戦場となるカレリア地峡には、兵力20万、火砲900門、戦車1400輛と、遠征軍の主力が動員され、国境突破がはかられた。
対するカレリア地峡のフィンランド軍守備隊は、極めて少数(正確な数は不明だが、数百人程度であったと推測されている)であり、抵抗も短時間で粉砕され、マンネルヘイム線(ソ連邦の侵攻を怖れたフィンランドが、カレリア地峡に建設していた要塞線。3つの要塞線からなり、この時はまだ全体的に40パーセント程度しか完成していなかった)を目指して退却していった。
だがこの時、ほとんど敗走中にも関わらず、フィンランド軍の士気は、非常に高かった。ソ連の大軍を目の前にして、こう言った国境守備兵がいたと、語りぐさになった。
「こんなにたくさんのリュッシャ(ロシア人のこと)ども! こいつら全員どこに埋めてやろうか?」
その言葉を象徴するように、フィンランド軍は、各地で敗退したものの、大部分が秩序をもって整然と後退し、戦線は崩れる事がなかった。
この時のフィンランド軍の配置状況は、予備役の招集もほぼ終わり、現状で許す限りの兵力が動員された。軍主力(フィンランド軍は常時3個師団編成だったが、戦争開始直前には、9個師団に増強された)の3個師団を中核とした部隊(約6万5000人)が、カレリア地峡に配備され、ラドガ湖の北を守るのは、1個師団を中心にした部隊(約3万人)が配備され、戦線後方には、2個師団が予備兵力として控え、カレリア地峡周辺には、計16万人が配備された。
だがそれ以外の地域は、やはり戦力不足で、広大なフィンランド中央部を守るのは、1万5000名にすぎず、さらに、北極海側の出口であるペツァモ市には、2個中隊(300名前後)しか配備されておらず、防御態勢は貧弱であった。
それを見越したソ連軍は、主戦線をカレリア地峡と、ラドガ湖の北地域におく一方(この方面だけでも35万人)、中部攻略軍(7万)、北部攻略軍(6万)を早期に戦線に投入していた。
北部攻略軍は、ペツァモ市を攻略し、北極海ルートを遮断した後は、南に転戦し、中部攻略軍と合流する。中部攻略軍は、一気にフィンランド中央部を分断し、ボスニア湾まで到達することを戦略目標とし、スウェーデンからの救援ルートを遮断する。そして北部攻略軍と合流した後は、南下してフィンランド南部を制圧する。この2つの攻撃軍のもう一つの目的は、主戦線から、可能な限りフィンランド軍を引き抜かせ、主戦線ためカレリア地峡攻略部隊を援護する事も、既定の戦略として位置づけられていた。
もしソ連軍が、この計画通りに作戦を成功させる事ができれば、ドイツのポーランド電撃戦や、西方電撃戦に匹敵する評価を得たかもしれない。しかし、彼らにとって不幸な事は、フィンランドの過酷な自然を、全味方に出来なかったことであった。これ故に、中部攻略軍、北部攻略軍が、恐るべき状況に追い込まれる事になるとは、ソ連軍にとって思いもよらない事であったろう。1940年12月初旬、ソ連軍の進撃に、いまだ死角はなかった。だが死神は、確実に、ソ連軍の足元に忍び寄っていた。
Bスオムッサルミ村攻防戦
開戦後、ソ連軍の中で、順調な進撃を展開していたのは、北部・中部方面軍であった。主戦戦であるカレリア地峡での戦闘は、マンネルヘイム線でフィンランド軍が強靭な抵抗をして、ソ連軍を釘付けにしてしまっていた。
また当初は順調な進撃を見せたラドガ湖の北地域も、総指揮官にタルヴェラ大佐(後に少将)が任命されると、ソ連軍の進撃は、たちまち遅滞した。タルヴェラは、重装備のソ連軍が、狭いフィンランドの道に手間取り、兵力を分散させ始めた(せざるをえなかった)ことに気がついて、軽装備のスキー奇襲部隊を編成し、後方のソ連軍補給部隊を襲撃したためである。
ソ連軍は、守勢であるはずのフィンランド軍の奇襲を、全く警戒しておらず、奇襲は呆気ないほど成功した。これはいわゆる「モッティ(フィンランド語で包囲するの意味)戦術」の始まりであった。後方輸送路がフィンランド兵の襲撃で遮断され、物資の滞った前線では、戦車は燃料が無く動かなくなり、食糧、焚き火の燃料は底をつき、多くのソ連兵が、凍死、または餓死した。
一方、北部攻略軍は、ペツァモ市を無血占領した。ペツァモ市では、ソ連軍侵攻の報とともに、住民は守備隊と共に撤退しており、一度も戦闘が置き沼に終わったのである。これにより、フィンランドは、北極海への出口を失った。 しかし、フィンランド軍は、使用可能な家屋を破壊し、井戸も埋め立てるなどしたため、ソ連軍は寒さと食糧・飲料水不足に陥った。結局交通も寸断された北部攻略軍は、フィンランド領内に、それ以上進撃不可能な状態になった。また彼ら自身の交通網も貧弱で、春が来て、北極海の交通が可能な時期になるまで、厳寒の大地に閉じ込められる羽目となり、多くの将兵が、戦わずして凍傷と栄養不足に、苦しめられる事になった。これにより、ソ連軍の戦前の計画の一つが、早くも破綻した。
そしてこの時、フィンランドに侵攻中のソ連軍の中で、もっとも悲惨な状態に陥っていたのは、中部攻略軍であった。
中部攻略軍は、当初、フィンランド軍の抵抗を、全くと言うほど受けなかった。この方面には、ソ連軍に反撃出来るほどのまとまった兵力がいなかったためであった。しかし、12月も中盤になると、戦闘が無いにも関わらず、ソ連軍の進撃は遅滞し始めた。その理由は、ラドガ湖の北地域よりも、さらに道路事情が悪く、通行できなくなったのである。
開戦前、ソ連軍はフィンランドの道路事情が悪いことを、調査・研究して知っていた。だがフィンランドと同様、ソ連邦もまた厳寒の雪国である。それ故に、冬になれば河川や湖は凍り、戦車ですら通行可能であることを、よく理解していた。元々北方民族の通商が行われるのは、河川や湖が凍り、地面が固く凍り付く冬なのである。これは、重たい荷物を積んだ馬車が、村々を行き来できるためである。
だから、フィンランドの道路事情が悪いとしても、湖や河川の上を通ればよい。フィンランドは「スオミ(湖)の国」だから、冬は氷の道が出来る。何の問題もない・・・。これがソ連軍上層部の判断であった。
だが、この年のフィンランドの天候は、ソ連軍に味方しなかった。1939年12月の気温は、例年より2Cほど高く、戦車や補給物資を満載したトラックが通れるほどの、厚い氷が張らなかったのだ。
それ故にソ連軍は、舗装もされていない狭くて細い道を、延々と長蛇を作って行軍する羽目になった。だが、大部隊の交通は、脆弱な道路を至るところで崩壊させ、進撃は滞った。そしてソ連軍の大集団は、各所で小さい集団に、細分化され、相互支援も出来なくなり始めた。
この状況が、フィンランド軍に、立ち直る時間と、兵力集中の時間を与える事になった。
この方面に、急遽集結したフィンランド軍は、総司令部から急遽派遣された予備兵力一個旅団(約5000名)と、近隣の守備隊を寄せ集めた5000名との計1万名である。指揮するのは、すでに退役して、小学校の校長をしていたシーラスヴォ予備役大佐(後に少将)である。
シーラスヴォは、タルヴェラ同様、「モッティ戦術」をもって、ソ連軍に対抗した。
「ソ連兵は、森の中に入ろうとはしなかった。我々は森の中の秘密の通路を使って、敵の警戒していない所を選んで攻撃した」
とは、シーラスヴォの述懐である。彼が決戦を意図したのは、フィンランド中部の小村スオムッサルミである。このスオムッサルミ村より先は、舗装された幹線道路が存在しており、村を突破されれば、国土は大きく南北に分断を余儀なくされ、フィンランド中部は失陥。敗北は決定的となる。
フィンランド軍は、スオムッサルミ村前面に、何重にもわたって防御陣地を築き、遅滞戦術によりソ連軍の進撃を止める一方、あちこちに分散したソ連軍小部隊を、軽装備のスキー奇襲隊で襲撃した。特に補給部隊が狙われたのは言うまでもない。
また、12月も後半に入ると、気紛れなフィンランドの自然は、明らかにソ連軍に悪意を持って襲いかかった。今度は例年より、5C近く低く下がり、フィンランドの大地は、一気に極寒の地と変わったのだ。
河川も湖も凍り、戦車もトラックも通行可能な状態になった。戦前、ソ連軍が待ちに待った事態になったのである。しかしソ連軍は動かなかった。いや、動けなかった。フィンランド軍の奇襲により、すでに補給を断たれ、戦車の大部分は、燃料が無かった。また、燃料が残っていた車輛も、連年より寒くなった気候のおかげで、ガソリンは燃料タンクの中で凍り付き、結局動かせなくなっていた。
そして気温が下がるに連れ、ソ連兵の凍死者と餓死者が急増した。中部攻略軍には、計3個師団が配属されていた。先陣の第44機械化狙撃兵師団は、本来なら、保有する戦車や装甲車輛で、戦線突破をはかるべき部隊であった。しかし、全ての戦車・装甲車輌が使用不可能になった状況では、それが出来ようはずもなかった。彼らは、雪の中に塹壕を掘り、持久戦を開始したが、これは彼らの兵科の長所を殺すものだった。
後続の第163狙撃兵師団も、各所で孤立しており、フィンランド軍の奇襲攻撃に対し、反応して戦うだけの存在になっていた。食糧も燃料も無い彼らは体力を失い、フィンランド軍の奇襲に手を焼き、自然の猛威にさらされながら、緩慢な死を待つ状態になっていた。
一方のフィンランド軍も、楽な戦いをしていたわけではなかった。スキー奇襲部隊は、1個中隊(約180名)から二個小隊(約80名)で構成されていたが、彼らは朝、午前3時頃に起床し、約8時間かけてソ連軍陣地まで向かい、10分から30分の戦闘のあと、もと来た道を通って宿舎に帰った。そして短い休息と食事の後、再び出撃していく。それの繰り返しであった。まさに、強靱な体力と精神力がなければ不可能な事であり、彼ら自身も、日々の戦闘で、心身を消耗していっていた。
1940年1月初旬、ついにソ連軍は退却に移った。すでに昨年暮れ、第163狙撃兵師団は壊滅し、他の師団も兵員の半数以上を失い、飢えと寒さで戦闘力を失った彼らに、これ以上の戦闘は不可能だった。第44機械化狙撃兵師団は、兵員1万8000名の内、戦死者1万7500名という、驚異的な損害を出して全滅した。師団長や参謀長、政治委員らは生き残ったが、スターリンは彼らを許さず、即刻銃殺刑に処した。
結局中部攻略軍のうち、最前線に向かった2個師団は、いずれも甚大な損害を被り、壊滅した。ソ連軍参加戦力は3万6000名、そのうち戦死者2万3000名、捕虜1500名であり、実に動員兵力の70パーセント以上を消耗した。
対するフィンランド軍は、兵員1万名のうち、戦死者900名、負傷者1200名、捕虜15名であった。フィンランド軍は、スオムッサルミ村の攻防戦で、4倍の敵と戦い、自軍の10倍以上の打撃を与え、中部フィンランドへのソ連軍の侵攻を食い止めた。
戦いの後、前線を視察した司令官シーラスヴォは、総司令部にこう報告をした。
「深い森の中を走る林道は、ロシアの戦車、大砲、自動車、馬車の凍り付いた隊列が、4マイルにわたって続いていた。その間では、まるで神に助けを求めるかのように、空へ向かって手を差し伸べたまま凍死したロシア兵の死体が無数にあった。(中略)降り続ける慈悲深い雪は、私たちの目の前から、この地獄の光景をしだいに隠していった(『シーラスヴォ回想録』より)」
また、この戦いに従軍記者として体験したアメリカのジャーナリストは、このフィンランド軍の善戦を、「雪中の奇跡」と呼んで、本国に送信した。
C フィンランドの国内情勢と各国の反応
ソ連は、フィンランドとの戦争開始と共に、政治的にも「電撃戦」を展開していた。開戦初日の11月30日、モスクワ放送は、「フィンランド国内に、人民民主主義的な新政府が成立した」という放送を、フィンランド国内の某放送局から傍受したと発表した。
そして翌12月1日、開戦当日に占領されたテリキヨの街に、「フィンランド人民民主主義共和国」が成立したことを、大々的に発表した。そして、このフィンランドの「新政府」と直ぐさま国交を成立させたソ連邦は、この「新政府」以外とは、フィンランドとのいかなる政治組織とも、交渉の場を持たないことを宣言した。また同時に、この「人民民主主義的共和国」からの要請を受け、ソ連軍は「資本家達の支配に苦しむフィンランド人民を救済する」事を目的に、全ての軍事行動を正当化し、赤軍のフィンランド侵攻部隊を、「フィンランド解放軍」と命名した。
「フィンランド人民民主主義共和国」の代表は、オットー・クーシネンと言う男で、彼は独立戦争に際して、赤衛軍の幹部として政府軍と戦い、破れた後は故国を追われ、ソ連邦に亡命していた男である。クーシネンは、景気のいいホラ吹きで、いずれフィンランドだけでなく、北欧全体を共産化させ、自分はその総督になるのだなどと広言し、この手の景気のいいホラ吹きが好きなスターリンから寵愛されていた。
クーシネンは、自分たち「フィンランド人民民主主義共和国」こそが、フィンランドの正当なる政府であり、「資本家の搾取に苦しむフィンランド大衆」に、大企業・銀行の国営化、農地解放、8時間労働制の導入を、大いばりで公約し、こうフィンランド国民に呼びかけた。
「資本家と、白色富農政権の圧政に苦しむフィンランド国民大衆諸君! 君たちを不当に支配するギャングどもに対して立ち上がり、ソヴィエトの解放者に加わろう!」
しかし独立戦争後、イギリス式の民主主義国家を理想としたフィンランドは、労働問題解決に積極的で、クーシネンの約束した農地解放、8時間労働制の実施はすでにされていたものも多く、クーシネンの主張に同調するフィンランド人は、一人もいなかった。
また、ソ連邦に隣接するフィンランドでは、刑務所や収容所を脱出した政治犯達が、多数逃れてきていたため、ソ連国内の実体は、ソ連国民よりも詳しく知っていた。また、「フィンランド人民民主主義共和国」の成立したテリキヨの街は、開戦と同時に住民は軍隊と共に全員退去しており、住民は一人も残留していなかった。そのため、「クーシネンの政府の国民は、トナカイとクマだけらしい」と、フィンランド人の嘲笑をかっただけであった。また、クーシネンの発表は、ソ連邦側にとって思いもよらない誤算を呼んだ。フィンランド共産党のフィンランド政府支持表明であった。
独立戦争により、国民が二つに別れ殺し合った記憶は、20年の月日では、憎悪を完全に無くすことは出来なかった。残留した赤衛派の人々の中には、フィンランド共産党を結成(フィンランドでは、他の列強諸国と同様、共産党は非合法活動とされ、弾圧の対象になっていた)し、反政府活動を展開していたが、彼らは共産主義国のソ連邦を、特別美化してはいなかった。北欧・東欧諸国の中で、もっとも教育水準の高い国に属するフィンランドでは、一つの思想を盲信するのではなく、リベラルな視点から議論することに慣れており、ソ連邦の厚化粧の下にある実体を、よく知っていた。したがって共産党とは言っても、親ソ的活動は一切おこなっていなかった。
戦争が始まると、彼らフィンランド共産党のメンバーは、深刻なジレンマに陥った。これを、フィンランドに赤色政府を建設する好機であると主張する者もいたが、数は極めて少なかった。フィンランド共産党の重鎮マウリ・リュオマは、「これ(冬戦争の原因)は、政府の反動的な政策の、当然の結末である」との書簡を政府に送ったが、自身はフィンランド軍の軍医として、戦地に向かった。そして、共産党員の大半が銃をとり、戦場でソ連軍と激しく戦ったのである。
また、国際的な世論は、ソ連の侵略に激怒し、フィンランド支持を、相次いで表明した。しかし、具体的な援助計画に関しては、どの国も冷淡であった。
同じ北欧諸国の、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの各政府は、開戦早々に中立を宣言し、フィンランドへの支援をしないことを共同で表明した。 これは、フィンランド占領後のソ連の侵略の魔手が、自分たちに降りかかるのを怖れたためである。だが一方で、スウェーデンでは、正規軍将兵の「長期休暇」が許可され、個人としての資格で、6千名を越すスウェーデン軍将兵達が、フィンランドに義勇軍として参加した。これらは、フィンランドに派遣された義勇軍総数1万1千人の大半を占めており士気も高く、各地で善戦し続けた。
アメリカは、国民感情はフィンランドを支持したが、政府は中立法を盾に、軍事物資支援を拒否した。アメリカ国務長官コーデル・ハルは、「交戦中の国家に、軍事物資を販売することは、国際正義に反することである」 とコメントしている。
大国が、不当に小国の独立を蹂躙することの理不尽さを、「大国」アメリカの国務長官は、理解していなかった。結局アメリカがフィンランド支援を政府決定するのは、40年1月のことであり、結局支援物資は、休戦成立後に到着し、間に合わなかった(次の「継続戦争」で役に立った)。
イギリスとフランスは、積極的にフィンランド支持を表明した国である。しかし、援助に関しては、やはり二の足を踏んでいた。理由は、両国ともドイツと戦争中であったからである。
フィンランドが要求する軍事物資は、自国にいくらあっても余ると言うことは無かった。それでもイギリスの海軍大臣チャーチルは、当時、ドイツの同盟国であるソ連を叩くことは有功と考えており、またフィンランド軍司令長官グスタフ・マンネルヘイム元帥とは、個人的に親友の間柄であり、可能な限りの武器援助を約束した。そして、援助の第1弾として、12機のブリストル・プレニム爆撃機がすぐに供与(各国の武器援助で一番速かった)され、フランスを説き伏せて、英仏陸軍部隊のフィンランド派遣を検討しだした。
また、ここで意外なのは、ドイツの同盟国であるイタリアの反応である。
イタリアの総統ムッソリーニは、熱心な反共思想の持ち主であり、これをソ連弱体化の好機と考えていた。そのため、ドイツのヒトラーの渋面を後目に、イタリアの最新鋭戦闘機フィアットG50戦闘機50機を無償援助し、47ミリ対戦車砲や、武器弾薬をせっせと援助した(もっとも、物資の大半は、途中ドイツが差し押さえをしたため、戦争中は半分程度しか、フィンランドに届かなかった)。
国際連盟も、ソ連邦の軍事行動を非難し、ソ連を連盟から除名した。ひれは、国際連盟で唯一、強硬な決定であったが、侵略者を押さえる力は皆無であった。この除名通告に対し、ソ連邦外相モロトフは、「これで我が国は、連盟の不当な束縛から逃れ、自由に行動が出来る」とうそぶく始末で、何の実効性もなかった。
かくして各国の世論は、一様にフィンランド支持と、ソ連邦に対する非難が、世界の大半を占めたが、具体的な援助は全く近いほど無かった。こうしている間にも、フィンランドの孤独な戦いは続いていたのである。
Dソ連軍の2月攻勢
「なぜわが軍は、これほどの犠牲を払って、フィンランド全土の制圧が出来ないのだ。砲兵、戦車、航空機、圧倒的兵力。いったい何が足りないというのだ」
冬戦争のさなか、酒に酔ったスターリンは、たびたび政府や軍の閣僚に対し、そう言ってからむことがあったという(スターリンは、絡み酒だったといわれている)。ある時、度重なるスターリンの絡みに耐えられなくなった国防人民委員のヴォロシーロフ元帥は、「全部貴様のせいだ! 貴様が赤軍の幹部を粛正したのがその原因だ!」と、スターリンを怒鳴り返したという逸話が伝わっている。
ヴォロシーロフの指摘したとおり、赤軍は1937年以降のスターリンの大粛清によって、前線の司令官の質は落ち、将兵の士気も低下の一途をたどっていた。少しでもスターリンに批判的な(と思われるものも含む)発言をしたものは、容赦なく処罰され、さらには密告も奨励されるにおよんでは、致し方ないであろう。
しかし、一向に進展しないフィンランドの戦況に、さすがのスターリンも考えを改め、本格的な作戦の見直しを開始した。40年1月7日。新たにフィンランド解放軍司令官に、ポーランド戦を終えたばかりのセミョン・コンスタンティノヴィッチ・チェモシェンコ将軍を抜擢し、新たに二個軍を増援した。これにより、カレリア地峡に展開するソ連軍の総兵力は、兵員90万名。火砲4000門、戦車・装甲車輌2000輌となった。
チェモシェンコは、航空偵察を始めとして、フィンランド軍の防衛線であるマンネルヘイム線の徹底的な分析を開始し、部隊の再編と補給準備が完了する2月に、総攻撃を実施することを全軍に通達した。また一方で、それまでの間、大攻勢の意図を、フィンランド軍に悟らせぬ目的と、立て直しを図る余裕を与えぬため、前線部隊に対し、従来どおりの攻撃を継続する事も命令した。
一方、こうしたソ連側の動きを知る由も無かったものの、フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、政府に対し、和平交渉の必要性を説いていた。
すでに、フィンランド軍の将兵は疲労の極にあり、兵員補充能力も限界に達していた。武器弾薬や物資の不足も、深刻な状況になっていた。しかし、政府はソ連側が譲歩しない限り、交渉のテーブルにつくことはないと、強気な姿勢を崩さなかった。閣僚の多くは、英仏軍の来援を信じて疑わなかったのである。
そして2月17日、ソ連軍による大攻勢(「2月攻勢」もしくは、「チェモシェンコの大攻勢」と呼ばれる)が開始された。断続的な消耗戦に引きずり込まれていたフィンランド軍が、ついに一部で戦線縮小を決定しようとしていた、その最中にであった。
2月1日以降の断続的な攻撃で、ソ連軍は5個狙撃師団の兵力を消耗していたが、カレリア地峡だけで、ソ連軍が動員している師団数は、31個師団にも昇っており、すでに老人や高校生をかき集めて、補充兵大隊を編成するしか、兵士を集める手段がなくなっていたフィンランド軍とは異なり、ソ連軍は次々に新手の部隊を戦線に投入した。
ソ連軍の攻勢を、支えなれなくなったフィンランド軍は、マンネルヘイム線第二陣地(中間陣地ともいう。陣地の完成率は30パーセント弱。しかし火砲の配置の方は、第一線陣地が優先されていた事もあり、10パーセント以下であった)へと後退を開始した。予想されたソ連軍の追撃もほとんど無く、大部分が無事に後退する事に成功した。だが、それもソ連軍側も、弾薬の補給と、新規部隊の投入のため、再編の時間を要していたためで、翌日の戦闘は、今まででも、壮絶を極めるものとなった。そのため後退の翌日、ソ連軍の大攻勢を受けて、第二線陣地は、二箇所でソ連軍の突破を許し、早くも戦線にほころびが生じた。カレリアの戦場は、両軍入り乱れての混戦状態に陥った。
一方、ソ連軍の攻勢は、ラドガ湖の北でもおこなわれていた。そちらではフィンランド軍は反撃に転じ、ヘッグルント中将率いる4万のフィンランド第W軍に、ソ連軍12万が逆包囲されるという奇妙な一幕になっていた。
この前代未聞の事態は、地形を熟知するフィンランド軍が、複雑な地形を利用して、危険地域を巧みに利用して、数の不利をカバーした事と、道路事情の悪さによって、ソ連軍部隊は相互に支援できず、孤立したために起きた出来事であった。
カレリア救援のために、ヘッグルント中将はこのソ連軍部隊を早期に殲滅し、カレリア方面へ、兵力転換をおこなうという構想から、ソ連軍に激しい攻撃を加えた。そして2月29日、包囲下にあったソ連軍主力は壊滅し戦線が安定すると、休む間無くフィンランド軍将兵は、南のカレリア地峡へと向かった。だが、彼らが出発するより早く、戦線は崩壊の危機に直面していた。
2月27日、マンネルヘイム元帥は、第二線陣地からの撤退を命じた。カレリア地峡の戦線は、まだ着工間もないマンネルヘイム線第三陣地と、フィンランド湾の氷上に浮かぶ沿岸防御陣地へと移っていった。
E停戦
ラドガ湖の北で、ソ連軍が包囲殲滅されている2月下旬、カレリア地峡では、ソ連軍の物量戦に、フィンランド軍は徐々に追い詰められていた。
マンネルヘイム線の第二陣地は、基礎工事がようやく完了した程度で、大物量を投入したソ連軍の攻撃を、阻止する力は無かった。また、戦線が20q近く後退し、ソ連軍の前面に広がるヴィープリ湾は、折からの寒さもあって、大部隊の移動が可能なほどの氷の厚さになっていた。フィンランド第二の大都市ヴィープリは、海上からの攻撃の危機にさらされた。
かくして、マンネルヘイム線第二陣地と、フィンランド湾の小島に建設されていた小砲台が、両軍の激戦地となっていた。
特に、ヴィープリ湾の小島は、フィンランド軍の守備兵力も少なく(陸軍数個中隊と海軍の沿岸砲兵部隊、民間防衛隊のみで、1000名程度)、ここを突破すれば、フィンランド南部に橋頭堡を確保し、マンネルヘイム線に立てこもるフィンランド軍を、袋のねずみにできるため、ソ連軍は3個狙撃師団、1個戦車師団、3個騎兵師団という、兵力10万に達する大兵力で、連日襲撃を仕掛けた。
この時、大活躍したのが、日本製120ミリ砲であった。明治31年に呉海軍造兵廠で製造されたこの大砲は、日露戦争後、ロシア帝国に輸出され、第一次大戦前に、ドイツの攻撃から、フィンランド湾と、その奥のペテログラードを防衛するため、沿岸砲台に設置されていた。その後のロシア革命の最中、フィンランドは独立し、今度はフィンランド軍の沿岸砲として、そのまま使用されていたのである。この数奇な運命をたどった120ミリ砲は、氷上を渡ってくるソ連軍に向かって、初めての、そして最後の戦いを挑んだ。
ソ連軍の意図を察知したフィンランド軍は、このヴィープリ湾の戦闘に、動員可能な全ての戦力を投入した。フィンランド軍の航空隊は、イギリスから到着したばかりの、ブリストル・プレニム爆撃機も含めて、飛べるものは何でも投入され、爆撃で氷を割って、連日数百人のソ連兵と数十輌の戦車を海底に沈めたが、翌日には氷は元通りとなるため、毎日それを繰り返さねばならなかった。そして無尽蔵な兵力を投入するソ連軍の攻撃によって、小島は一つずつ奪われていった。
ついに3月5日、ソ連軍はヴィープリ湾を突破し、対岸に橋頭堡を築いた。 この頃、ようやく陸上戦力として、フィンランド軍第4歩兵師団が増援に到着したが、カレリア地峡での戦闘で兵力が半減したまま、補充と戦力再編も、ほとんどなされていなかったため、実質半個師団の戦力であり、それで6個師団弱(ソ連側も数日間の戦闘で、1個師団弱の兵力を失っていた)のソ連軍と戦わねばならなかった。
一方、マンネルヘイム線第二陣地は、いくつもの突破口が開かれており、すでにソ連軍の進撃を食い止める事が、不可能な状況に陥っていた。2月27日には、最終防衛線である第三線陣地への後退が命じられたが、ここは着工したばかりで、塹壕すらほとんどなかった。しかもソ連軍の追撃は激しく、後退途中、フィンランド軍は多大な損害を被っていた。
マンネルヘイム元帥は、この時各軍総司令官を招集し、講和の可能性とについて協議した。エステルマン(カレリア地峡軍司令官)、タルヴェラ(ラドガ湖北の「タルヴェラ集団」司令官)ら、指揮官たちの多くは、まだフィンランド軍は戦闘可能であり、徹底抗戦すべきであることを主張した。
これに対し、マンネルヘイムの言葉は悲痛であった。
「そう、戦える力がまだ残っている今だからこそ、和平交渉のテーブルに着かねばならない。もし軍が壊滅してからでは、なにを交渉の材料としてソ連と協定を結ぶのだ。そうなってからでは、完全な屈服だけだ」
これを聞き、苦しい戦いを続けてきた各軍司令官、幕僚たちは、無念の涙を流した。
部下たちを説得したマンネルヘイムは、政府に対し、ソ連との講和をなんとしても成功させるべきであり、もはやフィンランド軍の戦闘能力が、極限に達していることを改めて通告した。
もちろんこの時、フィンランド政府は、手をこまねいていた訳ではない。ソ連軍の2月攻勢開始以前、強硬だった政府閣僚も、過酷な条件での講和やむなしとの考えに、傾き始めていた。国をあげての戦争協力こそしてくれなかったものの、兄弟国であるスウェーデンは、仲介の労をいとわず続けていてくれたし、3月6日にはフィンランド交渉使節がモスクワ入りしていた。それでも交渉を先延ばしにしてきたのは、ソ連側の反応が、戦争前より過酷なものとなっていたためであり、なんとか軍事的な勝利をあげて、ソ連側を譲歩させたかったという事に他ならなかった。
しかし、ソ連側は過酷な要求から一歩も引かなかった。開戦前より、いっそう苛烈になったといってよい。
ソ連側の要求は、ヴィープリ市を含むカレリア地峡全域、ラドガ湖北東沿岸の割譲、ハンコ半島とフィンランド湾の島嶼部のソ連への貸与(軍事基地建設のため)であり、新たに 北部クオラヤルビ地方の割譲も要求してきた。仮にフィンランド軍が、国際社会が瞠目する軍事的勝利をあげたとしても、要求が緩和される兆しは無かった。もっとも開戦当初は、フィンランド政府と交渉しない事を公言していたから、一部の領土割譲とは、ソ連側としては、大きな譲歩をしているつもりであったかもしれない。
この時、実はソ連側も講和を急いでいた。フィンランドを支援する事を表明している英仏が、援軍を派遣することを重ねて表明していた事もあり(実際には、ノルウェーとスウェーデンが、英仏軍の領内通過を拒否していたため、援軍を送りようも無かったのだが)、英仏の介入前に、戦争を終わらせようと焦っていたのである。そのため、戦争開始と同時に成立したクーシネンの政府を無かった事にする事を、フィンランドに通告し、それを譲歩の条件として非公式に通知してきた。
そして停戦交渉のため、モスクワを訪れていたフィンランドのカリオ大統領は、3月12日、スターリンと外相モロトフに見守られる中、ソ連側の要求を全て受託するむねの条約文書の署名した。
この瞬間、フィンランドは国土の10パーセント、人口の8分の1の住む地域を失った。
停戦が発効したのは、翌13日午前11時。この瞬間、カレリアを始めとする全ての戦場で、砲火がやんだ。そして世界のマスメディアは、フィンランドがソ連の軍事力に屈した事を一斉に報じた。105日間の苦しい戦争を耐えた国民は、敗北に涙し、ソ連への憎悪を強めた。
ソ連の公式記録は、「フィンランドとの平和条約は、レニングラード、ムルマンスク鉄道の安全を保障し、フィンランドの独立を守り、両国の親善友好関係発展の大きな条件を決定したものだ」と、講和内容について自画自賛したが、少なくとも同意するフィンランド人は一人もいなかった。
ソ連邦に割譲される事になった地域の人々は、ほぼ全員が、住み慣れた故郷を離れ、新しいフィンランド領内に移住していった。その数45万人。実に国民の12パーセントが難民となったのである。その中には、フィンランドを守るために戦ったカレリア出身(フィンランド将兵の約10パーセント)の将兵たちも含まれており、彼らは戦争終結と共に故郷を失った。
ヴィープリ湾にあった砲台のひとつ、ヤリセバ砲台は、停戦の日まで、ソ連軍の攻撃から、からくも守りぬかれた砲台であった(しかしすでに、隣接する他の砲台が陥落して包囲される危険があったため、停戦前日に、後退命令が出されていた。あと一日停戦が遅ければ、放棄されていただろう)。ここも、戦後はソ連領となるため、停戦成立後に、将兵は撤退していった。
その際彼らは、日本製120ミリ砲の砲身を担いで、砲台をあとにした。度重なる戦闘で酷使され続けたこの砲は、いかなる補修を試みても使用不可能なものとなっていたが、フィンランド兵たちは、自分たちと共に最後まで戦った「戦友」を、ソ連兵に渡すのを嫌って、持ち去ったのである。現在この砲は、スオメンリンナ島にあるフィンランド海軍沿岸砲兵博物館で、余生を送っている。
冬戦争に際して、国際社会は、ソ連を非難してフィンランドを支持し、フィンランドの善戦を賞賛したが、援助は少なすぎるか遅すぎるかで、なんの援けにもならなかった。
かくして冬戦争と呼ばれた戦争は終結し、フィンランドの辛うじて独立を守った。時に1940年3月。前年に始った第二次世界大戦の炎は、これからさらに大きく拡大し、多くの国々と人々を巻き込んでいくことになる。
ドイツとソ連という大国の狭間に浮かぶ、北欧の小国フィンランドの苦難の戦いは、まだ始ったばかりであった。だが今は、次の継続戦争までの間、しばしの休息の時が訪れたのである。
F冬戦争における両軍の損害
・フィンランド軍
戦死者 2万1396名
負傷者 4万3557名
航空機62機、野砲72門、対戦車砲79門、迫撃砲29門。軽機関銃488挺、重機関銃467挺、小銃5568挺。
・フィンランド非戦闘員の死者 1029名。
・ソ連軍
戦死者 4万8747名
負傷者 15万8863名
上記の数字は、ソ連軍公式記録上のものであり、いずれも正確な数字ではなく、改ざんされた数値である事が判っている。ソ連崩壊後、徐々に赤らかになってきた数字(まだ正確な数字は判っていない。一つは都合の悪い証拠が隠滅され、破棄されてしまったためと、その後の独ソ戦のため、書類や記録が混合しているためである)によると、
戦死者 20万から28万名
負傷者 60万から65万名
これが、一番近い数値といわれている。
他に捕虜5600名、戦車・装甲車輌1600輌、航空機521機の損害が記録されている。
・フィンランド軍が捕獲したソ連軍兵器
装甲車輌 167輌(戦車84輌、装甲車21輌、装甲牽引車62輌)
航空機 22機(戦闘機12機、爆撃機10機)
各種火砲 316門(野砲138門、対戦車砲100門、迫撃砲78門)
機関銃 4787挺(軽機関銃3877挺、重機関銃910挺)
小銃・自動小銃 4万482挺
その他に、軍馬、馬車、弾薬、移動野戦病院、軍楽隊の楽器等、様々な軍需品が捕獲され、その後フィンランド軍で使用された。