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(回答先: 「事実なき報道、許すのか」 「百人斬り」訴訟棄却 【産経】 投稿者 木田貴常 日時 2005 年 8 月 24 日 09:07:23)
どうして自分で情報を提供した新聞記事が名誉毀損になるのか?
http://web.sfc.keio.ac.jp/%7Egaou/jijitu/sato_shogen.html
7月12日、東京地裁103号大法廷で佐藤振壽カメラマンに対する証人尋問が実施されました。以下、その内容についてご報告いたします。
90歳を越す高齢の佐藤振壽氏には付添人が付き、尋問中に2度の休憩を取って血圧を測定するなど、緊張した雰囲気での尋問でした。
主尋問を担当したのは相手側の稲田朋美弁護士です。反対尋問を行なったのは本多勝一代理人の渡辺春己弁護士です。朝日新聞社の代理人秋山弁護士、毎日新聞の代理人豊泉弁護士がそれぞれ若干の補充尋問をしました。
1.佐藤氏の「推測」は重要ではない
まず、佐藤証人の位置付けについて説明します。
確かに佐藤氏は原告側の証人として、「100人斬り競争はホラ話だと思う」と述べたのですが、こうした佐藤氏の推測は重要ではありません。それはあくまで主観的な推測に過ぎないからです。佐藤氏の証言で重要だった点(それは原告側にとって不利な証言だった)は別な点にあります。これは後に述べます。
「100人斬り競争はホラ話」と主張した佐藤氏に対し、弁護士は反対尋問で佐藤氏に、競争が虚偽ではないことを認めさせるべきだと考えた傍聴の方もいらっしゃったようです。しかし、今回の反対尋問は、佐藤証人の主張の否定が目的ではありません。あくまで当該証人が直接体験した「事実」を明らかにするものです。その証人の推測の妥当性を問いただすことが目的ではありません。
2.佐藤証言の概略
佐藤振壽氏が事前に提出した陳述書には、概略、以下のような内容が記載されていました。
上海から従軍して常州まで来た。そこで東京日々の浅見記者がやってきて、「煙草を切らして困っている将校さんがいる。煙草をあげてほしい」と言ってきた。私は煙草を二人の将校に進呈した。その二人が野田と向井であった。
浅見記者はこの二人の将校と話していたが、浅見記者から二人の写真を撮ってほしいと言われたので理由を聞くと、浅見記者から「二人が南京入城までにどちらが百人の中国兵を斬るのか競争を始める」という話を聞かされた。
私が、どうやって数を確かめるのかと聞いてみると、「当番兵を取り替えて数える」と述べた。
私はその話はウソだと思った。白兵戦ではそんなに斬れないし、数えられない。また野田や向井といった指揮官クラスが勝手に持ち場を離れてそんなことをしている時間はない。
帰国したあと、記事と写真が根拠となって二人が南京で銃殺されたことを知って驚いた。
このようなホラ話が掲載されたのは陸軍省の責任であると思う。
浅見記者の記事を見て、自分は「浅見は嘘っぱちを書いたな」と思った。
常州で両少尉と別れてから、百人斬りの話は一切聞いていない。富山大隊にその後行ったこともあるが、富山大隊の兵士達からも百人斬りの話は聞いたことがない。戦闘において、実際にそのようなゲームをしている時間はなかった。
「中国の旅」の連載は知っていたが、本多や朝日から取材の申し入れはなかった。
戦後、東京裁判の検事から呼出を受けたと浅見記者から連絡をもらったことはあるが、自分は呼ばれていない。
浅見記者が一言「ホラ話だった」と言えばよかったのに、それを言わなかったのが残念だ。
この内容から明らかなとおり、佐藤振壽氏が両少尉に会ったのは常州での一度だけです。それ以外は伝聞か推測、あるいは自分の感想を述べているに過ぎません。
伝聞や推測に証拠価値はありませんから、佐藤振壽氏が100人斬り競争があったと考えるかなかったと思うかは、裁判の進行には関係がありません。したがって、本多側の弁護団も佐藤氏の推測を反対尋問で否定させようとは考えていませんでした。
先だって公表された『大阪毎日新聞』の鹿児島沖縄版の記事を思い起こしてください。この記事は、野田少尉が郷里の知人に手紙を書いたこと、その手紙の内容として100人斬り競争をやっていると野田少尉が自ら明記していること、東京日日の新聞記事をこの当時すでに知っていたこと、さらに100人斬り競争の歌まで書き記していることが記載されていました。
この記事からは、両少尉が自ら100人斬り競争をやったことを認めていることが明確になります。仮に100人斬り競争が虚偽だったとしても、そのような「ホラ話」を吹聴したのは両少尉自身だったことは明らかです。
自分たちで情報を提供した新聞記事がどうして名誉毀損だと言えるでしょうか?自分たちで吹聴した話が報道されただけなのですから。実に単純な話です。
本人たちが認めている記事について名誉毀損が成立するのかどうか、このことは本件の提訴時からすでに問題となっていたのですが、原告側は「すでに日本で報道され大騒ぎになっており、当時は否定することができなかった」と苦しい弁解をしていました。しかし、大阪毎日の記事によって、彼らが「否定できなかった」どころか、おおいに積極的に100人斬り競争を自ら認めていたことが明らかになったのです。
逆に言えば、毎日新聞はどの時点で、どのような根拠によって、100人斬り競争の報道を訂正すべき法的義務を負ったと言えるのでしょうか。原告側がこの点を主張・立証しない限り、その法的主張は成立していないのです。
これは法的に極めて重要な問題点であり、前々回の期日において私たちの本多側弁護団は大阪毎日の記事を前提としたうえで、相手側に、いったいどのような根拠で名誉毀損を主張するのか、その点を今回の期日までに明らかにするよう法廷で要請していました。そして相手側も主張を行うと法廷で約束したにもかかわらず、けっきょく期日までに主張を提出できませんでした。
さて、以上ここまでの経緯を振り返ったうえで、あらためて先ほどの佐藤振壽氏の陳述内容を見てみましょう。
3.両少尉が「100人斬り」を語ったことを認めた佐藤証言
あらかじめ提出されていた佐藤氏の陳述書によれば、佐藤氏は両少尉と浅見記者との間で交わされた100人斬り競争についての会話を聞いただけとなっています。どのように100人を数えるのか説明したのも浅見記者となっています。つまり、100人斬り競争の話はすべて浅見記者から聞かされたものであり、佐藤氏自身は両少尉から直接には何も聞いていないかのような内容になっているのです。これは、両少尉は何も知らず、すべてが浅見記者のでっち上げだとする当初の原告側の主張に沿った内容になっていました。
そこで弁護団は佐藤氏が以前からこのように述べていたのかを調査しました。すると、1972年7月に報道された週刊新潮の記事でも、あるいは佐藤氏本人が1993年頃に書いた手記『従軍とは歩くこと』においても、佐藤氏は100人斬り競争の話を両少尉から直接聞いたと書いてあることが判明したのです。やはり両少尉は自分たちから100人斬り競争の話を新聞記者に話していたのでした。
これは私たちの主張や大阪毎日新聞の記事内容にも合致したものです。ですから弁護団がこの尋問で目標としたのは、佐藤振壽氏が100人斬り競争の話を(浅見記者からではなく)両少尉から直接聞いたのだと言うことを明らかにすることでした。
ところが当日の尋問で、佐藤振壽氏は本多側弁護団からの反対尋問を待つまでもなく、主尋問で自らそのことを認め、自爆してしまいました。そのため実は、被告側として反対尋問をするまでもなくなってしまったのです。
佐藤証人は、斬った人数をそれぞれ勘定するため、向井少尉の人数については野田少尉の当番兵が、野田少尉の人数については向井少尉の当番兵が数えるとの話を、両少尉自身の口から聞いたという話も披露しました。佐藤証人はこの話は信じられないと思ったとも証言しましたが、すでに述べたように、佐藤氏が信じる信じないは問題ではありません。両少尉自身が語っていた事実が重要なのです。
その後の主尋問で佐藤氏が述べていたことは、いずれも佐藤氏の推測や感想に過ぎず、100人斬り競争はなかったと思うと述べはしましたが、裁判上の意味はありません。
反対尋問を担当した渡辺春己弁護士は、高齢の証人の体調に気を遣い、尋問内容を大幅に削って質問しました。それに、こちらの目的は主尋問で達成してしまっているのですから、焦ることもありません。
反対尋問でも佐藤証人は、週刊新潮の記事内容や手記『従軍とは歩くこと』の内容が正しいことを認めました。南京に入城する前に浅見記者と再会したとき、浅見記者が両少尉の取材を継続して続けていたことも認めました。ここからも、浅見記者が両少尉から取材した内容を記事にしていたことがうかがわれます。
実は佐藤氏の手記『従軍とは歩くこと』には、南京入城後に佐藤振壽氏自身が目撃した敗残兵らしき中国兵に対する凄惨な虐殺行為が記されています。100人ほどの敗残兵が後ろ手に縛られ、大きな穴の前に座らされ、日本軍が無防備な中国兵に対して銃殺と刺殺を繰り返して穴に落としていったという内容です。
佐藤氏はこの光景を目撃したものの、それを写真に撮ることはできなかったといいます。このことについて佐藤氏は、「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されていたよ」と答えたと自著『従軍とは歩くこと』に書いています。
渡辺弁護士はこの記述に関して質問しようとしました。質問目的は二つ、一つはこのような虐殺行為が南京で現実に行われていたことを確認することであり、もう一つは、その後に両少尉が属する富山大隊に合流したときにも、100人斬り競争の話は一切聞かなかったと佐藤氏が証言していることから、こうした残虐行為は公にできないものなのであり、100人斬り競争の話を佐藤氏が聞かなかったとしても不自然はないという点を明らかにするためでした。
ところが、原告弁護士の側はこの尋問を予測していました。この質問が発せられた途端、稲田弁護士が立ち上がって用意した異議内容の書面を読み上げ、主尋問では南京入城後のことについては聞いていない、したがって主尋問の範囲外の尋問であり、認められないと、こちらの質問を必死になって阻止したのです。
その後、裁判所からの補充尋問があり、写真撮影の際にさらに何か両少尉と会話をしたかという左陪席の質問がありました。佐藤氏は、「当番兵を取り替えたところで結論は出ないのではないかと聞いたが、両少尉は答えなかった」というものでした。ここでも佐藤氏は、両少尉と直接話をしていたことを認めています。
また裁判官は、戦後浅見記者から佐藤氏に連絡があったときに、100人斬り競争について疑問を問いただしたことがあったかと質問しましたが、佐藤氏は追求はしていないと答えています。
このようにして尋問は終了しました。
4.墓穴を掘った原告側
佐藤氏が「100人斬りはホラ話だった」と本人の推測を述べたことで、「我が意を得た」右翼側の傍聴者が喜んでいる光景も見られました。裁判の論点がまったく理解できていない態度というべきでしょう。主尋問の結果、両少尉から佐藤氏が直接話を聞いていたことが明らかになった以上、自分で話した内容を報道することがどうして名誉毀損になるのか、佐藤氏の証言の結果、ますますその問題を原告側は抱え込むことになったのです。
右翼側のサイトを見ると、ときどき面白い記述に出くわすことがあります。大阪毎日新聞の記事について、こんな趣旨の記述がありました。“以前からこの記事は知っていたが、むしろ毎日新聞のデタラメさを示す証拠にしようかと考えていた”というのです。
すなわち右翼は、この記事もまた毎日新聞のでっち上げだというわけです。ここまでくれば妄想というしかありませんが、問題はその次です。仮にこの右翼の主張のごとく、大阪毎日の記事すらでっち上げだったとすると、やはり両少尉は自分では100人斬り競争の事実を語ったことはないということになります。
ところが今回の尋問で佐藤振壽氏が、両少尉自身から100人斬り競争の話を聞いたと証言してしまいました。他ならぬ原告申請の証人が、この右翼氏が述べていることを裏切る事実を証言したのですから興味深い話です。やはり物事というのは系統立って論理的に考えないとダメだということを示しているのではないでしょうか。
5.今後の見通し
次に今後の流れについてご説明します。
原告サイドは尋問直前の7月6日に新たな証人4名を申請してきました。その顔ぶれは以下の通りです。
1徳永秀義:戦後に野田少尉を逮捕するために田代町に行った人。逮捕当日のことを記述した手紙が証拠として提出されている。この手紙によれば、野田少尉は徳永氏に対し、100人斬り競争の記事が創作だと語ったとのこと。2中山隆志:軍事史専門家とのこと。当時の戦闘で日本刀を使った白兵戦が起こる可能性と、南京攻略線における捕虜の取扱い、それから歩兵砲小隊長や大隊副官、当番兵の役割等について証言させたいらしい。3阿羅健一:100人斬り競争に関する論争について証言させたいらしい。また、阿羅氏が鈴木記者、浅見記者、佐藤振壽氏らにインタビューしたときの内容について証言させたいらしい。4大村紀征:日本刀の研究者。日本の軍刀の使用形態や軍刀による100人斬りの実現可能性について証言させたいらしい。
ところで、原告側から出された「訴訟進行についての上申書」という書面があります。ここでは、大阪毎日の記事に関連した反論は次々回期日(現時点では次の期日。前述のように、本来なら今回までに主張するはずだった)までに行うと記しています。
それのみならず、次回を含めて年内二度の期日で証人尋問を行い、来年2月中旬頃に最終弁論期日を入れて欲しいとの要望が記載されています。しかし、証人調べとは、何でもかんでも申請があれば調べるというものではありません。まずは双方が主張と立証を書面で出し合い、争点を確定してからそれに関連する証人を調べるというのが現在の裁判における訴訟進行の流れです。佐藤振壽氏の尋問に関しては、同人が高齢者であるために証拠保全の意味合いも込めて先に尋問を実施したに過ぎないのです。
本件では、いまだに双方の争点が出そろったとは言えない状況にあります。そのことは、両少尉自身が100人斬り競争を自認していたにもかかわらず、どうして名誉毀損が成立しうるのかという点に関して原告側が何らその法的根拠を示していないことからも明らかです。法律的な主張すらなされていないのに、争点が定まったとは言えないことは当然のことでしょう。
この争点整理と証人尋問の問題をどう采配するかによって、裁判所の本件に対する審理態度が判明するだろうと思っていましたが、予想どおり裁判所は、原告の勝手な要望は採用せず、次回期日は口頭弁論となりました。裁判所はきちんと訴訟指揮をしているようです。原告側も、この裁判所の判断に対しては特に抵抗もせずそのまま従いました。
次回期日は9月6日午後1時半から同じく103号法廷となります。次回の弁論において、被告側はこれまでの集大成となる主張立証を行う予定です。現時点では詳細を記せませんが、非常に面白い期日となることを請け合います。是非とも多くの方々に傍聴をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします!