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(回答先: Re: 「みんなやってるんだから節」 投稿者 博打屋 日時 2005 年 8 月 22 日 12:27:32)
http://d.hatena.ne.jp/t-ocyaya/20050810
これだけではちょっと不親切なので、少しこの本の紹介がてら、解説したい。
これまでこの日記に書いてきたように、僕は小泉の靖国神社参拝は遺族団の票がほしいからと考えてきた。しかし、それはこの本によって再考を迫られたのである。
以前この日記のレスに張り込まれた右翼のホームページらしきもののコピーアンドペーストにも、
> 多くの我々の祖父祖母は、祖国と東亜のために大東亜戦争を懸命に戦った。あるものは敵艦に体当たりして玉砕し、あるものは足を失い腕を失った。今なお南国でかかった熱病の後遺症に苦しむ人々もいる。
サヨクはこういった人々を、「虐殺者」とか「強姦者」とか「犬死に」とか呼称する。こういったいわれように対する、大東亜戦争を戦った我々の祖父祖母の深い傷つきかたは計り知れない。こういった我々の先人が悩み苦しめばサヨクは大喜びだ。
人間が行う究極の誠意は、命を捨てた自己犠牲にある。逆にこれを侮蔑する行為は、人間が行う究極のゲスだ。
と書かれていた。
別に自己犠牲は日本だけの専売特許じゃないと思うのだが、これを書いた人はそうは思っていないらしい。それに大切なことを忘れているのではないだろうか。彼ら兵士は好んで戦地に行ったのではない。彼らと一緒に靖国神社に、仰々しくも神として祭られている当時の政治指導者によって「行かされた」という事実だ。
ともかくそういったわけで、ある日、靖国神社の歴史的背景だけでもわかればと思い買い求めたのがこの本だった。しかし、それは予想を上回るいい内容の本だった。
簡単に内容を紹介すると、第一に、靖国に祭られている英霊とは、戊辰戦争を除けば、すべて明治維新以後の日本の植民地獲得戦争における戦没兵士の魂であるという事実である。
そして、第二に、その神社の精神は、国家のために働いて死んだ兵士は、未来永劫に日本国民によって神としてたたえられるべきであるというものである。単に、死んだ兵士の魂を慰める「慰霊」の施設ではなく、「顕彰」するための施設であるという靖国神社の本質が、歴史資料によって検証されていたのである。
最後に蛇足ながら付け加えると、「靖国」とは「国を安んじる」という意味らしい。
勝てない戦争に日本を導き、エキセントリックな集団自決=玉砕政策を採り、捕虜や植民地国市民を虐殺し、その結果として、日本人を人間として扱う必要なしとばかりに、アメリカによって原爆・水爆でそれぞれ、14万人以上(広島は1945年内に、長崎は現座までに)生きたまま焼き殺されるといった悲劇をもたらしたのが、開戦を決定した軍部指導者たちである。当時の国民も軽佻浮薄にその政策に賛成した。
しかし、当時にしても、このアメリカとの戦争に勝てないことを冷静に予測し反対した人々がいた。左翼系運動家やリベラルな知識人たちだった。彼らは特高という政治警察に捕まり、拷問にかけられて、自らの主張を撤回せざるをえなかったり、獄死したり、戦後まで牢獄に閉じ込められたりした。
いま靖国には開戦を決定したA級戦犯が祭られている。しかし、本当に国を安んじたのは、かつて冷静な視点から戦争に反対し、獄死したり、転向したり、転向せず戦後まで刑務所にいた人々なのではないのだろうか?
だから、こう考えられる。靖国の本当の目的は、国を安んじることではない。国家のために無批判に、もしくは仕方なく植民地獲得戦争に赴いた兵士を称え、これからも同じことをわれわれ日本人に強いるために存在する精神装置であると。これらはすべて、上に書いた本から学んだことである。
いまさら21世紀の現代に植民地なんて、と思うかもしれない。しかし、現にアメリカは、理屈にならない言いがかりで、イラクを現在も植民地支配しているのだ。そして、想定される日本の将来の戦闘は、こうしたアメリカを援助する形になるだろう。亡自衛隊がイラクに行っているのだから、半分援助しているともいえるのだが。
だとすれば、小泉の靖国参拝目的も明白だろう。「国家のため」といえば聞こえはいい。しかし、現実には、「小泉の政権維持のために喜んで死んでくれる」日本人を、小泉は参拝によって、恥知らずにも堂々と求めているということである。旧植民地国である他国が反発するのは当然で、むしろ日本人がその本当の意図を知らずに、右往左往する構図こそ喜劇というべきであろう。
ここで、新しい教科書を考える会の姿勢にも批判を加えるべきである。「日本の行った第二次世界大戦が、戦後のアジア諸国の独立運動を促した」というのは、まったくの詭弁である。そこに真実があるとしたら、日本の植民地化政策によって、多大な被害をこうむった(多少努力すれば、日本による植民地支配を貫徹するために容赦なく殺された数多くの植民地市民の証言や虐殺事件が目に入るはずだ)日本による旧アジア植民地諸国、そして日本から戦争を仕掛けられ、戦地にされた国々の日本に対する憎しみが、アジア諸国の独立運動を促進したというべきだろう。そう表現するのなら、新しい教科書の会も少しは真実を語っていることになる。
もちろん日本が、明治維新当時、極東にあったという幸運にも助けられて独立を維持しえたこと、そして、戦争でロシアに勝って、同じロシアの軍事的脅威におびやかされていたトルコの青年トルコ党の独立運動を勇気づけたなどの点を認めるのは、僕もやぶさかではない。しかし、だからといって、日本が植民市支配の過程で行った数々の残虐行為を無視していいなどとは、加害者であるならばこそ絶対に忘れてはいけない点である。その意味で、新しい教科書を作る会やそれを支持する政治家の致命的な能天気加減は、指摘されるべきであろう。
ちなみに、南京大虐殺がなかったみたいな意見を散見することがあるが、学術的な資料に裏付けられた歴史学者の通説は15万人規模の虐殺があったということである。なかったという学者もいるそうだが、かつて石原慎太郎が「なかった」と雑誌で発言し、歴史学者に批判されたたとき、これらの「なかった派」学者は石原を助けようとはしなかったという。ないと主張する学者の学問的根拠はこれで知れることだろう。
あと、こうした非科学的な逆風は日本だけではないことも最近知った。アメリカではキリスト教原理主義者の亡動が最近も報道されているが、かつて、聖書こそ真実だから、サルと人間が同じ祖先のわけがない。進化論を生物の教科書から排除しようという現在と同じ運動が盛り上がったことがあったという。しかし、かろうじてそれを阻止したのが、ソ連によるスプートニク人工衛星の成功だったという。これで危機感を持ったアメリカ政府は聖書に書いてあることはすべて真実であると考えるキリスト教原理主義者を排除して、科学教育に力を入れたという。
これって、本当の危機に立たないと誰も真実に気がつかないという例証かもしれない。しかし、それより、そうした危機に対処する能力を持った冷静な政治家がいなければ、原爆投下に帰結する愚行を再び招くことになるという、いい例というべきなのかもしれない。日本は一度、それをやってるし、繰り返さないと誰が言えるだろうか。
最後に、もう一度話を戻すと、坂本義一が今月号の『世界』で、玉砕の思想も、終戦直後の餓死するに任せられた人々の状況も、ともに共通するのは「棄民の思想」だったと書いていた。靖国で、世界中の人々を殺した犯罪人が祭られるのも、政治権力者のためにドシドシ国民を切り捨てていくという棄民の思想に他ならない。そして、行政改革をまったく行わず、高額所得者の所得財率を半分近くまで下げたままで、中・低額所得者の税金を上げようとする小泉の政策も、棄民といわざるをえないだろう。
最後に一つ書き加えると、うちの父親と祖父は戦争当時池袋に住んでいた。貸家を4件持つ化粧品店だった。祖父が運のよさもあって一代で築いた店だ。しかし、それらの家は、父親の目の前で焼夷弾に焼かれ、父と祖父は祖父がその後勤めた役所の事務室で寝泊りし、家族は祖母の実家の埼玉に疎開したという。
軍需工場で働こうとしなかったおとなしい花屋の息子は、満蒙開拓団に徴用され、現地で死んだという。
特攻で死んだ兵士は、ほかの戦死者より尊いという考え方がある。しかし、焼夷弾でなすすべもなく殺された日本市民、徴用され、十分な食料も与えられず死んでいたはるかに多い、花屋の息子のような人々、植民地で圧倒的な兵力差で虐殺されたその土地の兵士、罪もなく殺された植民地市民の命が、特攻で死んだ兵士と比べて軽いなどと、誰がいえるのだろか?
かつて、石原慎太郎が英霊こそが尊いといった、こうした意見を言ったとき、野坂昭如は「こんな思想は、ぜったに信じない」と言ったという。僕もこの野坂の意見に賛成だ。