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岡部伊都子さんは1923(大正12)年、大阪生まれ。1954年から文筆活動に入った。
そのきっかけとなったのは、沖縄で戦闘中に自決した婚約者の存在だった。出征の前夜、「天皇陛下のために死ぬのはいやだ」と言った婚約者の言葉を理解できず、彼女は「私なら喜んで死ぬ」と戦地へ送り出した。
国営第一放送『ラジオ深夜便』で5月に放送されたインタビューから、
『婚約した後(1943年2月)、邦夫さんを私の部屋へ初めて、二人だけになってな。そのとき邦夫さんは、「この戦争は間違っていると思う」と言うたんです。「こんな戦争で死にたくない。天皇陛下の御為なんか、死ぬのはいやだ。きみのためや国のためなら死ねるけれども」と、そう言いましたね。そんな言葉を聞いたのは初めてで、驚きました。だって、「日本は神国だ」と教えられて、国民は天皇の赤子、男子たるもの「御民(みたみ)われ」と天皇陛下のためとあれば従容(しゅうよう)として戦場に赴き、上官の命令に従ってみんな死ななければならない、そう思っていましたでしょ。それが、あんなにはっきり「戦争は間違っている」と言った人は初めてです』
『そのときの私には邦夫さんの深い思いがわかりませんでしたから、「私やったら喜んで死ぬけど」と言いました。当時はそういう教育を受けているんですよ。幼稚園時分から、「神国日本、天皇陛下のために喜んで死ね」と、そういう軍国教育ですねん。邦夫さんの言葉は命がけの愛の告白やったのに』
『(「戦争に行きたくない」といった婚約者を止めなかった)だから本当に申し訳なくてなぁ。うちの兄は戦死していましたし、姉の結婚した相手も戦死していました。私の尊敬するお隣の東大出のお兄ちゃんも。出征やら戦死者やら、いっぱいご近所にいて、若い男の人はみんな死なんならんのやと思っていました。
婚約の後で、いっぺんだけ二人で心斎橋を歩いたんです。お母ちゃんが「いっぺん二人で散歩してきなさい」と許してくれて、出してくれはってね。まだ大阪は焼けていなかったけれど、その頃は食べ物屋さんでも飲み物屋さんでも、外へ明かりが漏れないように扉に暗幕がかかっていて。そこでビールをほんの一杯飲んで。何か食べたのかしらね。そう、スイカや。スイカをかじったら、ピュッとそのお汁が飛んでな。……何もしてあげられなかった。
そのころは、男女が手をつないで歩くことなどできないから、この頃の若い人を見たら羨ましいです。本当に、心のままに行動したほうがいいと思うんよ』
『(邦夫さんは)はじめは中国北部の蒙彊(もうきょう)というところへ行かされたようです。見回りに出てたとき、抗日の民兵部隊と遭遇して、とっさに軍刀で相手の指揮官を斬り殺したそうです。それが、邦夫さんがあんなにいやがっていた戦争というものの正体ですな』
このことは、邦夫さんからの手紙で彼女は知った。
『あれだけはっきり「戦争は間違っている」と言うてた人が、心ならずも敵を殺さざるを得なかった。だから邦夫さんは、自分の志ではない死に方をせずにはいられなかったのね。
邦夫さんは、中国から沖縄へ配置転換になって、沖縄守備につきはりました。そこへ米軍が艦砲射撃を雨あられと浴びせてくるんです。邦夫さんは上陸してきた米軍を迎え撃つために、外へ出て指揮していたときに被弾して、両脚を吹っ飛ばされて……。両脚がなくなったら、自分はみんなと行動できへん。それで、その場で即座に自決したそうです』
日本人のほとんどが、大東亜戦争の被害者と思っているが、岡部さんは「被害者」という言葉は使わない。
『私が邦夫さんを殺したようなものやからな。「行ってらっしゃい」と言って、日の丸の旗を振って送り出しているんやから。そうではなくて、二人でどこかに逃げたらよかったのです。隠れたらよかったのです。たとえ捕まって獄に入れられても、自分の心を生かしたらよかったのですけれども、かわいそうに、私がわかれへんかったからな』
敗戦の日、1945年8月15日、岡部さんは邦夫さんが死んでいたとは知らなかった。45年の5月29日、30日、31日と毎晩同じ邦夫さんの夢を岡部さんは見ている。
『母に「邦夫さんの夢を見たで。まだ焼けていないあの家の3階で私が書き物をしていたら、そこへ絣の着物姿の邦夫さんが、『コンコン』と戸をたたいて入ってくるねん」と言うたら、「あんたはな、正夢をよう見るさかいに、ほんまに帰ってきはるかわからへんな」と母は言うてました。けれど、その5月31日に邦夫さんは死んでいました。敗戦後、半年ほどたってから、戦死公報が木村のお母さんのところに来たんです。私は占いやらなにやらは信じないほうやけど、これはほんまのことです』
『みんなは自分は被害者だと思うてる。だけど、戦争に行く人を旗を振って、「行ってらっしゃい」と送り出したんです。戦争に反対したのとは違う。戦争に加担したんです。だから私は「加害の女」だと思っています。自分はあんなに邦夫さんを尊敬して好きだと思っていたけれども、結局は私の何もあげずに、それで人を殺したり殺されたりする戦場へ送ったのや。みすみす殺したんです。
その自分の正体、それは幼稚園のときからの教育で、それは骨身に染みています。死なんならんと思うことはもう絶対いや。戦争はいやです。死んだらあきませんで。若い人たちは、死んだらあかん。世界中の人類が仲良くし合って、命を尊敬し合って、いたわりを持って、できることをして、愛し合わなければいけません。それが、死んでいく前の私の結論です』
岡部さんは、物書きとして50年以上、126冊の本を書き上げた。その間ずっと、美しいものを求める心をテーマにすえて書いてきた。
http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=author&ARGS=%89%AA%95%94%81%40%88%C9%93s%8Eq
『戦争の中では絶対美しいものは求められません。戦争の時代には、死ぬことだけ、死を求める心だけでした。美を求めるなどとんでもないことで、ほんまに罪になった。だけど、人の心は本来はやさしくて、美しくて、いとしいものや』
戦死した邦夫さんは、「勝つも亦(また)悲し」と、最後のときにみんなが書いた別れの寄せ書きに書いていた。軍隊にいてこの言葉を残した、鋭い感性と批判精神を持った類まれなる人だった。
『こちらはあほやからわからないけれども、邦夫さんという人はよう勉強してはった。戦争は間違ってる。戦争がいかに偽りと残虐に満ちているか、許してはならない非人間的な堕落であるかを痛感してはった。賢くて、はっきりと行動する。それでいて優しいて。だから私は本当に尊敬しています』
82歳の岡部さんの心の中で、愛する邦夫さんは生き続けている。
『邦夫さんへの想い、邦夫さんから学んだことが私の原点なんですな。邦夫さんが命がけで教えてくれたのです。
戦争は絶対反対!
あとは、どうやってきれいに死んでいこうか、と思うてます。それができたら、今の私にとっては喜びなんです。人間はいずれみな逝くんですから。人の幸せを念じ、世界の平和を念じ、自分にできる、プラスになる方向へ私も頭を向けて死にたい。
若い人たちは幸せになってくださいな。世界人類を尊重して、本気で幸せになってください』
俺はこれを聞いて、恥ずかしながら泣いてしまった。かなりの勢いで涙は出ずっぱりだった。
旭川の陸自の部隊が去年、イラク先遣隊で出陣したとき、彼らを日の丸を振って送り出した人たちのことを思い出した。
岡部さんは自分のことを戦争の加害者だと言っているが、『「行ってらっしゃい」と言って、日の丸の旗を振って送り出しているんやから』、イラク自衛官を送り出した家族や、恋人たちも「加害者」になるのかもしれんことを忘れないで欲しいと思うのだ。
投稿者:死ぬのはやつらだ at 02:13