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8/9 夕刊
【関連】 記憶よみがえらせた一枚
投下翌日の長崎、赤ん坊背負い…
白煙が上がる焼け跡。赤ん坊を背負った女性が鍋を抱えて立ち尽くしていた−。原爆投下翌日の長崎で撮られた一枚の写真。長崎県時津町の四田シヅヨさん(86)は五年前、あの日の自分と初めて向き合った。
「写っているのは、絶対におばちゃんよ」。二〇〇〇年十一月、四田さんは、新聞に掲載された写真を見ためいから電話を受けた。旧日本軍の西部軍報道部に所属していた故山端庸介さんが撮影した写真で、長崎市で開かれた原爆展に関する記事だった。
写された記憶はなかったが、原爆展に出向いた。女性の足元に写る男物の雪駄(せった)を見た瞬間に「思い出したくなかった」ことが、鮮明によみがえった。
「雪駄を借りるけんね」。一九四五年八月九日朝。一緒に暮らす父親に声をかけ、一歳に満たない長男を背負って自宅から約一キロの距離にある防空壕(ごう)に行った。
突然泣きだした長男を壕で寝かせた時、閃光(せんこう)と爆風に襲われた。次々と運ばれてくるけが人。「熱い」「助けて…」。うめき声の中、恐怖で動けなかった。
翌日、いつまでも迎えにこない父親と夫を捜すため外に出た。
爆心地に近い自宅周辺では、燃える物はすべて焼き尽くされていた。「せめて遺骨だけは拾いたい」。父親は自宅で骨だけになっていた。勤務先の工場でやっと見つけた夫の骨は「触れると崩れた」。父親は頭の骨、夫は足の骨を、焼け残った中華鍋に入れた。「そうすれば、二人が区別できると思ったから」
その後も「生きていくので精いっぱい」。今は、三月に長崎市職員を定年で辞めた長男忠夫さん(60)夫婦と三人で静かに暮らす。
時折、被爆当時の記憶に苦しめられることがある。「写真を見てから、母が夜中に一人で泣くようになったんですよ」と忠夫さん。あの日は終わらない。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20050809/eve_____sya_____005.shtml
長崎原爆投下の翌日に故山端庸介さんが撮影した、長男忠夫さんを背負い立ち尽くす四田シヅヨさん=1945年8月10日