★阿修羅♪ > 戦争73 > 222.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 平和宣言全文 長崎原爆の日(西日本新聞) 投稿者 熊野孤道 日時 2005 年 8 月 09 日 22:26:21)
Yahoo!ニュースからhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050809-00000074-nnp-kyuより引用
平和の誓い全文 長崎原爆の日
六十年前の八月九日、原子爆弾はここの五〇〇メートル上空で、炸裂(さくれつ)したのでした。一瞬にして数万の人々を死へ追いやり、街を焼き尽くし、破壊し尽くしたのです。生き延びた人たちは、六十年過ぎた今日でも、原爆の後遺症に苦しみ続けています。
私は、女学校の三年生でしたが、その日はたまたま家にいました。学童疎開で家を離れていた妹も、久しぶりに帰ってきていました。ピカッと目を突き刺すような閃光(せんこう)が走ったのは、「少し早いけどお昼にしよう」と妹が疎開先から頂いてきた白米のおにぎりの包みを開いた時でした。原爆は、私の家から一・八キロほどのところへ投下されたのです。私は、十メートルほど飛ばされ、庭に叩(たた)きつけられました。土煙で視界は閉ざされ、その場にうずくまりました。
しばらくして視界がひらけてくると、あたりは見渡す限り、瓦礫(がれき)の原となっていました。私は、一目散に近所の林へと走りました。どのようにして林へたどり着いたのか覚えていません。あちこちから被爆した人たちが林へ逃げてきました。衣服を剥(は)ぎ取られて裸同然になった人、胸をえぐられ、ピクピク動く心臓が見える人、前とも後ろともわからないほどに焼け焦げた人、林の中はこのような人たちで一杯になりました。いつの間にか、私は意識をなくしていました。
この林で一晩過ごして、私を探す母の声で意識が戻りました。周囲の人たちのほとんどが亡くなっていました。そのあと、私はまた意識がもうろうとなり、死線をさまよったのです。
住まいが壊れて住めなくなった私たち一家は、八月十九日に両親の故郷へ向かいました。そこへ落ち着き、近所の医者に往診を頼みましたが、来てくれた医者は、息絶え絶えの私を覗(のぞ)き込むだけで、「死ぬものにやる薬はない」といったとか。「医は仁術」と聞いていましたが、戦争は医者の人間性までも喪失させるのでしょうか。
あれから六十年、私は何とか生きて来ましたが、本当に長く苦しい道のりでした。こんな苦しみは、ほかの誰にも味あわせてはならないと思っています。
それなのに、地球上に争いは絶えず、核兵器はなくなるどころか新しい性能の核兵器の開発さえ計画されていると聞きます。「ふたたび被爆者をつくるな」と命をかけて訴えてきた私たちの声は、どうして届かないのでしょうか。
でも私は諦(あきら)めません。命ある限り、生き残っている二十六万余の被爆者とともに、そして平和を求めてやまない国内外の皆さん方とともに、「長崎を最後の被爆地に」と叫びつづけることを原爆犠牲者の御霊(みたま)の前でお約束し、私の「平和への誓い」といたします。
平成十七年八月九日
被爆者代表 坂本フミヱ
(西日本新聞) - 8月9日14時40分更新