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中東のシーア派の実相
アハマド・サラマティアン(Ahmad Salamatian)
元イラン議員
訳・岡林祐子
http://www.diplo.jp/articles05/0507-3.html
2005年1月30日の選挙で、大アヤトラ・サイイド・アリ・シスタニ師(1)を後ろ盾とする連合名簿が勝利して以来、アラブ世界の王室、政府、そしてメディアが「シーア派三日月地帯」の影に怯えている。シーア派地域はレバノンの山岳地帯からイラン北東部ホラサン地方の山間部にかけて、メソポタミア地方、ペルシャ湾岸(とくにサウジアラビア東部の産油地域)、イラン高原にまで広がっている。この脅威論の出所は、主にアメリカの戦略研究所である。この「シーア派勢力」は、かつての敵との実際の、あるいは推定上の同盟相手として、立ち向かうべき敵、はねつけるべき脅威、叩きつぶすべき陰謀など、中東の豊かな想像力をかきたてる敵の殿堂に名を連ねるようになった。
しかし、この地域の情勢や、イランの宗教者による現政権を少しでも観察すれば、性急な一般化はおのずと避けられ、中東のシーア派が一枚岩ではないことが見えてくるだろう。
たとえば、イラクとレバノン、また、ある意味ではバーレーンにおいても、シーア派が国政上の代表権の拡大を求めているのは事実である。しかし、そこに読み取るべきは、長い間軽んじられ、さらには迫害され、宗教による人や組織のつながりが共同体の結束を固めると考える多数派住民の要求なのだ。
サウジアラビアでは事情が異なる。異端として弾圧され、基本的な人権と自由を奪われてきた少数派のシーア派が動きだしている。パキスタンとアフガニスタンにおいてもそれは同じだが、別の要素も働いている。ワッハーブ派を奉じ、積極行動路線をとるスンニ派の原理主義者が、シーア派の特殊な教義を異端として非難していることが、シーア派内部の結束を強めてきた。イランの状況はまったく別である。イラン革命(1979年)およびイラン・イラク戦争(1980〜88年)を経て誕生した権威主義的な政権は、政権への反発を強める社会に手を焼いている。
イラン大統領のモハンマド・ハタミ師は、2005年4月のパリ訪問の際に、自分の改革路線が失敗だったことを躊躇なく認め、「宗教そのもの、そして宗教と普通選挙の関係に新たに民主的な解釈を与えない限り、宗教権力というものは民主的な方向に改革され得るものではない」と明言した。「キリスト教およびキリスト教会の歴史」から得たというこの教訓は「宗教者が体制を支持し、公務員と化す方向に傾きがちなスンニ派イスラムの歴史に照らしても明らかである」。彼はさらに一抹の悔しさを滲ませながら、この経験から「簒奪によって樹立された政権に対する反発が強く、正義の理念を深く組み入れており、規律の埒外にいられるという幻想を抱いていたシーア派についても」まったく同じ結論に至ったとする。そして最終的に、超俗的な正統性を標榜するいかなる政治体制においても、政権を担う者たちの一部が「一連の伝統や特権に認められる(と彼らが言うところの)神聖さを守るという口実のもとに、あらゆる民主的な変化を妨げる力を持っている」ことを認めた。
イスラム共和国の最も誠実な奉仕者の一人が大統領を務めた波乱の八年間は、少なくとも幻想を終わらせるという点で意義があった。革命から25周年を迎えた今日、テヘランの政府首脳に対する失望を感じているのは白け切った若者だけではない。この失望は国家中枢部、そしてシーア派指導者層をも揺さぶっている。こうした世情は逆説的にも、腐敗を憎み社会正義を求める国民をうまく引き付けたマフムード・アハマディネジャドの有利に働いた。
宗教の優位の放棄
現状は、シーア派によるイスラム国家という本来の理想から遠くかけ離れている。イラクでダアワ党を創設したアヤトラ・ムハンマド・バーキル・サドル師(2)は1970年代、レバノンのシーア派ウラマー(イスラム学者)たちの提案を受けて、「イラン・イスラム共和国憲法に関する予備考察」を執筆し、パリに亡命中だったアヤトラ・ルーホッラー・ホメイニ師に送付した。この文書は、シーア派指導者の権力を憲法案に盛り込んだ最初の草案である。ヴェラーヤテ・ファギーフ、つまり「イスラム法学者による統治」の理論に従えば、この権力は国境も国籍も凌駕する。それは、隠れイマームが再臨するまで統治に当たるべき普遍的なイスラム国家の内部で、ウンマ(イスラム教徒の共同体)全体を統率するものとされた。
この権力の頂点に立つのは、信徒たちが模倣の源泉として仰ぐマルジャアである。マルジャアは隠れイマームの代理として、国家をあらゆる側面において体現し、その権限を独占し、宗教指導者およびハウザ(神学の学校と講座)を介してこれを行使すべき存在である。この理論は、政治論としての側面からイラン革命後に憲法案に採り入れられた。しかし、ナジャフの大アヤトラ・ホエイ師をはじめとするシーア派の伝統を重んじる者、コムのアヤトラ・シャーリーアトマダリー師のような自由主義者、テヘランのアヤトラ・タレガーニー師のような左派から批判あるいは否認されて、広く支持されてはいなかった。ヴェラーヤテ・ファギーフは「イスラム共和国」という非現実的な国家を生み出した。「イスラム」と「共和国」の二つの語に折り合いがつくことはなかった(3)。
イランの民主化運動は、革命の混乱で膠着状態となり、在イラン・アメリカ大使館員人質事件(1979年)という派手な立ち回りに惑わされ、フセイン時代のイラクが始めた8年におよぶ血みどろの持久戦という重圧に苦しんだ。そして、主に宗教指導者からなる寡頭勢力が政権を全面的に掌握するのを阻止できなかった(4)。公認イデオロギーの最高教義と位置づけられたヴェラーヤテ・ファギーフは、政治的信念を新たに構築していくうえでの支柱となっている。政権のスローガンでは、この教義に反対を唱える者は、大悪魔と小悪魔ともども地獄落ちを宣告される。今日もなお、あらゆる公共の集会で、人々はよく知られた「アメリカに死を。イギリスに死を。イスラエルに死を。サダムに死を」のスローガンを何度も叫び、「ヴェラーヤテ・ファギーフに逆らう者すべてに死を」と締めくくる。
アヤトラ・ホメイニ師は、自分の第一の正統性つまり宗教的な正統性は、マルジャアの地位に由来すると常に考えていた。彼がこの地位を築くのに成功したのは、最初にコムのホウゼ(ハウザ)、その後1964年から78年の間は亡命先ナジャフのハウザで、日々の宗教儀礼を司り、後に影響力を持つこととなる何千人もの宗教者を養成する宗教講座を開いたからである。彼が自分の遺言書で、臨終の祈祷を取り仕切るべき者として、国家の要職には就いていなかったコムの偉大なマルジャア、アヤトラ・ゴルパーイガーニー師を指名したのも、宗教を最優位においていたからだ。
アヤトラ・ホメイニ師の死去は、彼と革命期をともにした指導者のうち唯一マルジャアの地位に就く資格のあるアヤトラ・モンタゼリ師が失脚した数カ月後のことだったため、彼の後継者たちは宗教的な正統性という重大な問題に直面した。同師が亡くなる数カ月前から三頭体制で国政を取り仕切っていたアリ・ハメネイ師、アリ・アクバル・ラフサンジャニ師、アハマド・ホメイニ師は、さっさと憲法を改正してしまった。そして、ヴェラーヤテ・ファギーフを担う者がマルジャアである必要はなくなった。言い換えれば、史上初のシーア派宗教国家が、後継者問題に直面して、政治に対する宗教の優位を放棄したのだ。ホメイニ師の後継者となったハメネイ師は、宗教指導者としての位が低く、神学校や宗教者組織に対して自己の優位を認めさせるのに不可欠なマルジャアの地位に就くのは困難だった。
権力の集中
それにもかかわらず、この新しい最高指導者には政治問題と宗教問題に関する絶対的な権力が委ねられた。指導者への忠誠心は、市民としての権利を得るための前提条件であった。この忠誠心にわずかでも疑いがあれば、厳しい取り調べの対象とされた。こうした究極の手段と莫大な資金を手にしたにもかかわらず、アヤトラ・ハメネイ師は、イラン国内においてもその他のシーア派世界においても、信徒に対しても宗教者層に対しても、自らを最高権威として確立することはできなかった。要するに、宗教上の正統性と国家権力の正統性は、それぞれ別個の(そして概して相反する)要請と前提に従うものとして、再び切り離されることになったのだ。主に石油収入で潤っているこの国家では、資金と特権をばらまくことが、元からなびいていた一部の宗教者層の歓心を買うための主要な手段となった。そして、この優遇策のもとで、国庫から甘い汁を吸い、アーガー・ザデー(アヤトラの子弟)と呼ばれる新たな社会層が生まれ、社会的格差の拡大を象徴する存在となっている。
このように政治と宗教が融合した結果、イランのシーア派でもスンニ派と同様に、宗教指導者が公務員と化し、資金を国家に頼るようになっていった。信徒からの寄付を資金源とし、スンニ派の宗教者から羨望をもって見られていたシーア派の宗教者の自立性は失われた。イランの最高指導者はその一方で、自分の弱みを自覚していたため、国政上の権限を強化することに力を入れた。その筆頭に挙げられるのが、軍事・治安組織に対する直接的かつ日常的な統制権である。彼は部隊の視察に多くの時間を費やし、数え切れないほどの分列行進や閲兵式に立ち会った。
前任者がシャー(国王)を打倒する力としたような宗教的権威を確立できなかった彼は、革命前の王を思わせるほど、権力を自分に集中させた。国民の大半は彼を嘲笑して「大アヤトラ」ではなく「セイエド・アリ・シャー」と呼びさえした。
絶対王政に終止符を打とうとした1906年のイラン立憲革命100周年を目前にした今日、民主化運動を進める反対派の矛先は、最高指導者の人物と絶対的権力に向けられている。イランの有権者が2回にわたり大統領選でハタミ師を当選させたのも、この絶対権力に対抗するためである。そして、ハタミ時代に市民社会が手にした成果にもかかわらず、改革派に対する国民の失望がこれほど大きい理由は、まさにヴェラーヤテ・ファギーフの行き過ぎを抑制できなかったことにある。終身制の指導者は、国家の特権の主要部分を一手に集め、民主的な統制を受けず、軍、監視・弾圧機関、プロパガンダ機関の支持をカネで取り付ける傾向を強めている。
その上、下位の宗教者の大半はヴェラーヤテ・ファギーフの制度そのものに対して距離を置いている。それにはもっともな理由がある。第一に、彼らが特権を持たず、優遇もされていないことである。第二に、生活条件の悪化を不満に思う国民が、国庫から資金を得ているらしい宗教者を信頼しなくなり、寄付を嫌がるようになってきていることである。その結果、民主的な反対勢力と市民社会に多数の宗教者が同調している。伝統的にシーア派のウラマーの多数を占める静謐主義者(政治不介入主義者)だけでない。アヤトラ・モンタゼリ師のようにかつてはヴェラーヤテ・ファギーフを熱心に支持していた革命的急進主義者までもが自分の過ちを認め、最高指導者の特権を狭義の宗教問題のみに限定するよう、この理論を見直すべきだと主張している(5)。
ナジャフとコム
イラクでは、民族主義を標榜するバアス党政権が、アラブ系シーア派の指導者に対して容赦ない態度を取った。これに対して彼らは1970年代に輩出したサイイド・ムフシン・ハキム師やサイイド・ムハンマド・バーキル・サドル師らを先頭に、恐れることなく政権に立ち向かった。これらの宗教指導者はしばしば抹殺される危険に晒されていた。アラブ系でないシーア派指導者の場合は、長らくイラクに居を定めている者も含めて、強制退去や国外追放に処せられた。
しかし、シーア派の中心地がメソポタミア地方(聖都ナジャフやカルバラなど)にあり、そのハウザと神学校が高い名声を誇っているという事実は、イラク政府が別の道を探るきっかけともなった。何人かのアラブ系でない大アヤトラ、とりわけイラン系の者を巧妙に懐柔するという策である。こうして、時には緊張が高まる局面もあったものの、イラク政府とイラン出身のサイイド・アブッルーカーセム・ホエイ師との間に一時的な妥協が成立した。ホエイ師は静謐主義者であり、宗教者の政治的な積極行動路線、とりわけヴェラーヤテ・ファギーフの理論に反対する立場を隠さなかった。彼の第一の関心事は、聖都ナジャフのハウザを守り抜くことであった。千年以上の歴史を誇り、オスマン帝国の支配下でさえも黙認されていたナジャフの影響力と名声が、政教分離を進めるバアス党の権威主義によって脅かされていたのである。ナジャフはイランの聖都コムとの競合にも頭を痛めていた。政府の潤沢な資金援助のあるコムでは、神学校の学生も教師も有利な立場に置かれ、将来の道も開けていた。それゆえ、ナジャフにとっては、テヘランやバグダッドの政権に対する独立性を確立することが、シーア派の中心地たる地位を維持するうえで不可欠な条件となった。そのためには、相互に敵対する2つの政権の間でバランスを取っていく必要があった。
同じく静謐主義を奉じ、アヤトラ・ホエイ師の取り組みを間近で助けてきたアヤトラ・セイエド・アリ・シスタニ師が、シーア派指導者の最高位に昇り、イラクとイランだけでなく世界中のシーア派共同体からも認められるようになったのは、ホエイ師とまったく同じ政策を踏襲したからである。互いに相反する方向に突き進む二つの国家を前にして、シーア派とその組織の長期的な利益を守るため、また、この両国に暮らす人々に対する影響力と名望を維持するためには、あらゆる手段を使って一定の独立性を保つことが必要になる。そして、この独立性が、国家との過大な融合にはなじまないものである以上、宗教指導者やそう自称する者たちに対して、政治権力を直接的に行使することを禁じなくてはならない。アヤトラ・シスタニ師が、先達であるホエイ師と同様に、地上の政権に対する独立性というシーア派の偉大な伝統に立ち戻ったのは、こうした理由による。地上の政権は神聖さを失っており、隠れイマームが終末の世に再臨して不可謬の救世主の政権を打ち立てるまでの間の次善の存在にすぎないと考えられているからだ。
イランでシーア派神学の学校や講座の中心地であるコムが政治権力の管轄下におかれ、多数の信徒からの寄付という資金源を失ったのに対して、シーア派の歴史においてはコムよりも古くからの聖都ナジャフは、フセイン政権の崩壊後に自立性と批判の自由を取り戻し、かつての地位を回復した。ナジャフはたしかに、イラン国家がコムにつぎ込んでいるほどの財力を持っているとは言い難い。しかし、いまだイラン国籍でありながら、ひとえに精神的な影響力によって目覚ましい台頭を遂げたセイエド・アリ・シスタニ師を擁することで、シーア派内部の力学を一変させた。今や彼は、ナジャフのみならずシーア派世界全体、とくにイランにおいても、宗教上の最高権威者の地位を享受している。イランでの彼の影響力や人気、そして資金調達力は、そのライバルや敵対者を大きく上回っている。
ヒズボラの亀裂
1970年代の革命的行動主義は、今や政権の疲弊と現代社会を運営する必要とに苦しめられており、千年の伝統を誇るシーア派の静謐主義が巻き返しを果たしつつある。バアス党政権が倒れた直後の数週間のうちに、テロ行為や治安の悪化があったにもかかわらず、ナジャフとカルバラは再びイランからの巡礼者を迎え入れるようになった。この人々はそこで、終末の世に救世主が現れるという自分たちの信仰になじみやすい精神指導者たちを見出した。彼らの想像世界において、ナジャフの高齢の指導者は、自国政権の専横的な指導者たちの対極にあるものと映っている。このマルジャアは、対抗権力という伝統的な役割を取り戻し、権力を簒奪した宗教者たちに苦しめられる信徒に安らぎの場を与えているのだ。
イランとイラクでは、シーア派勢力が権力を手にした方法もまったく異なっている。テヘランでは、民衆による革命によって政権が樹立され、王政を打ち倒して威光を放っていたカリスマ的な指導者に政治が委ねられた。それに対してバグダッドでは、アメリカとその同盟国の軍事介入によって、ようやく独裁政権が転覆され、さまざまな出自にもとづく何百もの政党に道が開かれた。
このため、イラクのシーア派運動は、他の政治勢力と協調し、占領者が押し付けた妥協案を呑む必要に迫られている。アヤトラ・シスタニ師は巧みな戦術でシーア派のウラマーたちを糾合し、2005年1月の選挙で勝利を収めた。とはいえ、シーア派共同体とその政治的、宗教的代表者の構成は複雑を極めているので、うまくバランスを取り、民主主義に準ずる多元的な運営を行っていくことが求められる。さらに、国内には多様な共同体が入り組んでおり、クルド人やスンニ派とも手を結ぶ必要があるので、イラクの様々なシーア派勢力は、最も過激な勢力も含めて、イスラム主義的な要求を弱めざるをえない。
こうした背景のもと、ダアワ党代表のイブラヒム・ジャアファリ首相とイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)出身の閣僚たちは、望みを半ば放棄したように見える。なぜなら、イラクが共同体別の体制に分裂したり、権威主義体制に(占領者の許可を得たうえで)戻ったりしないよう、社会を構成するすべてのグループが十分に代表されていると実感させるためには、民主的な妥協に基づいた連邦国家を作り上げるだけに留めるほかないからだ。
ベイルートのシーア派地区やレバノン南部の町の大通りには、イランの指導者アヤトラ・ハメネイ師の巨大な顔写真に、ヴァリーイェ・アムル・モスレミーン(世界のイスラム教徒を治める後見人)という大げさな言葉のついた看板が立っており、イスラム世界全体を治めるカリフ(6)の復活を望む気持ちが見て取れる。しかし、イランの最高指導者を模倣の源泉たるマルジャアとしてすべての信徒に押し付けようとしても、レバノンではイランにもまして成功しなかった。レバノンのシーア派指導者の中心人物であるアヤトラ・フサイン・ファドルッラー師は、このイランの指導者の覇権主義的な野心に対する苛立ちを隠さない。彼は、マルジャア制度の自主性を保ち、信徒が模倣の源泉を自由に選べるようにする必要があることを強調して、ヴェラーヤテ・ファギーフ論そのものの批判に踏み込んだ。
ヒズボラはテヘランからの潤沢な資金に依存しており、指導部はイラン政権との良好な関係をアピールしている。しかし実際には、ヴェラーヤテ・ファギーフ論の妥当性をめぐりコムとナジャフで激化している神学論争や、イラン政権内部の政治論争に翻弄されている。さらに、ヒズボラは社会的、文化的活動の場を広げ、最近の議会選挙の結果にも見られるように、国内政治にますます大きな役割を果たすようになっている。たしかに、5年前までは、レバノン南部を占領していたイスラエル軍との戦いという至上命令のもと、シーア派共同体はヒズボラと抵抗運動を先鋒として、一枚岩の結束が欠かせなかった。しかし、レバノン南部が解放された後は、この一致体制に亀裂が生じている。シーア派内部にはさまざまな勢力があり、シーア派宗教者委員会のような宗教組織やアマルのような政治組織はヒズボラよりも活動歴が長い。それにレバノンというモザイク国家では妥協が必要であるからだ。
こうした状況下で、政治と宗教の極端な融合を進めるヴェラーヤテ・ファギーフ論は、イスラム国家構想を核として世界中のシーア派共同体を結集させるどころか、紛糾の種となっている。この理論を生み出したイランにおいてさえ、宗教のうちに救いを求める者もあれば、政治のうちに解放を見出そうとする者もいるように、政治権力と宗教権力の分離の名のもとに、広範で活発な抗議運動が起きている。
(1) 「サイイド」は「預言者ムハンマドの子孫」を指す尊称。ペルシャ語では「セイエド」となる。[訳註]
(2) 1980年4月9日に、サダム・フセインの命令により、家族の大部分とともに暗殺された。
(3) アハマド・サラマティアン、シミン・シャムルー「イランにおけるイスラム革命の10年間」(『第三世界雑誌』第123号、パリ、1990年7-9月)参照。
(4) この点については、アハマド・サラマティアン「矛盾によって打ち砕かれたイラン革命」(ル・モンド・ディプロマティーク1993年6月号)、同「保守派に立ち向かうホメイニ師」(ル・モンド・ディプロマティーク1988年6月号)を参照のこと。
(5) エリック・ルロー「イランのイスラム保革対決」http://www.diplo.jp/liste99/9906liste.html
(ル・モンド・ディプロマティーク1999年6月号)。
(6) 最後のカリフ(全イスラム世界における最高権力者)は、オスマン帝国を倒した後に政教分離のトルコ共和国を築いたムスタファ・ケマル(通称アタテュルク)が1924年に廃止した。
(2005年7月号)
All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Okabayashi Yuko + Kondo Koichi + Saito Kagumi
http://www.diplo.jp/articles05/0507-3.html