★阿修羅♪ > 戦争72 > 836.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
7月30日―メディアを創る
新垣勉という沖縄の歌手
私が新垣勉という沖縄の歌手を知ったのはもう20年ぐらい前であった。当時私はまだ外務省のバリバリの課長をやっていて、川崎市中原区の公務員住宅から毎朝東横線で霞ヶ関までせっせと通っていた。
朝のテレビ番組を横目で見ながら朝食を取り、(当然のことながら)雨の日も風の日も出勤していた。そういう日常生活のある朝の番組で、「さとうきび畑」を歌っていたのが新垣であった。はじめて聞いた「さとうきび畑」の詩と、新垣の透き通った声も印象深いのだが、テレビで語っていた新垣の言葉が今でも忘れられない。彼は次のような事を淡々と語っていたのだ。
「・・・私を捨てた父を憎み、目の見えない私の不幸を恨んだ。何度も死のうと思った。ある日そんな私をさとすように学校の先生が言った。『日本人離れした声をしている。その声はお父さんから受け継いだものだ。それを大切にしたらどうか』。その一言で歌の道に進もうと思った・・・他人の人生と自分の人生を比べるのはやめよう。自分には自分の人生があるのだ。それだけを考えることにした・・・次第にすべてを許せるようになった・・・」
7月30日の朝日新聞土曜日のb版で、偶然にも新垣勉の特集記事を見つけた。20年前の感動がよみがえってきた。
米国統治時代の1952年に沖縄県読谷村に生まれた新垣の父は沖縄駐留兵だった。まもなく母を捨てて米国に帰国。母は別の男性と再婚した。たまに来る母のことは姉だと教える祖母の手で新垣は育てられることになった。出産直後、「助産婦」のミスで家畜を洗う劇薬を点眼され、光を目にすることなく失明した。新垣が「母」ということばで思い浮かべるのは「勉の目がよくなるように」と、いつも眼球を舌でなめてくれた祖母である。
その祖母も、一方においては身内に障害者がいることを恥じるような古い人だった。「人の世話になるんだから、人によくしなさい」が口癖だった。来客があると、カーテンで仕切られた部屋の一角に身を潜めるように言われた。彼女には障害児を学校へ行かせるなど想像もできない。遅ればせながら盲学校へ入ることになったのは行政関係者が祖母を説得したからであった。
正しい愛し方とは言えなくとも、祖母の愛を疑ったことはない。家を出て盲学校の寮に出発する日、祖母のすすり泣く声を聞いた。中学2年の冬休み、その祖母が脳梗塞で倒れた。入院治療の費用も出せず、家で寝たきりのまま3ヵ月後に亡くなった。床ずれの匂いが部屋に充満していた・・・
武蔵野音大大学院を終了した新垣勉は、今では全国の学校や教会を行脚してライブ活動を続けている。
「立派になって、あなたを捨てたお父さんやお母さんを見返してやらなきゃね」そういって近所の人から盲学校へ送り出された新垣、自分を捨てた両親や視力を奪った助産婦への恨みをくすぶらせながら歌を歌い続けた新垣。その新垣が、今ではコンサートのたびに必ず次のメッセージを説くようになった。
「皆さんは学校でも家でも、ナンバーワンになれと追い立てられていると思います。しかし大事なのは、自分だけのオンリーワンの人生を生きることです」
SMAPが「ナンバーワンにならなくてもいい」と歌うずっと以前から、新垣は若者たちに「オンリーワン」を語り続けてきたのだ。
歌と死に引き裂かれた新垣が、今日に至るまでどれほど辛い思いを乗り越えてきたかは想像に余りある。その新垣が7月に「命どぅ宝―平和への祈り」という新譜を出した。彼もまた戦争の犠牲者の一人である。いたずらに戦争を美化し、国防の重要性を唱える連中たちには、新垣の言葉は決して通じないであろう。
http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSColumnT&Init=CALL&SYSKEY=0112